第15話:徹夜三昧
真夜中のヴェイン公爵邸。
王都の街が深い眠りにつき、月明かりだけが静かに降り注ぐ時刻。邸内でただ一室、当主の執務室だけは、昼間のように煌々と眩い光を放っていた。
「旦那様! もうおやめください! これ以上は限界です……っ!」
悲痛な叫びを上げる筆頭側近の目の前で、ヴェイン公爵家の執務室は、もはや人間の作業場ではなく『魔法の暴走地帯』と化していた。
部屋の中空には、数十枚もの決裁書類が円を描くようにフワフワと浮遊している。
デスクの中央に座るフローリスは、ペンを握ることもなく、両手を軽く宙に浮かせた状態のまま、複数の羽ペンを念動力で同時に操り、凄まじいスピードで書類にサインと指示を書き込んでいた。
それだけではない。彼の左目には遠隔透視の魔法陣が浮かび上がり、領地南部の治水工事の進捗をリアルタイムで確認しながら、右側で待機している通信用の魔道具に向かって、的確な魔力回路の修正案を音声で送り続けている。
常人であれば、一つ発動するだけでも数日は寝込むような高位魔法の『同時多重展開』。
いくら王国随一の天才魔法使いであるフローリスとはいえ、これを三日三晩、睡眠を削ってぶっ続けで行えば、脳と魔力回路にかかる負荷は計り知れない。
「いいから黙ってて! 明日はキアラちゃんと、王都で一番人気の劇場に観劇に行く約束なんだ! だから今日中に、この三ヶ月分の領地計画書と、来年度の予算編成を全部終わらせないとダメなの!」
「三ヶ月分の仕事を一夜で終わらせようとするなど、狂気の沙汰です! 明日の観劇などキャンセルなさいませ! 奥様とて、旦那様が倒れることを望んではおられません!」
「キャンセルゥ!? ふざけないで、キアラちゃんが昨日『たまには芝居でも見てみたいものだ』ってポロッと呟いてくれたんだよ!? あの素直じゃないキアラちゃんが、俺に希望を伝えてくれたんだ! このチャンスを逃したら、俺はヴェイン公爵を名乗る資格がない!」
フローリスの目は血走り、端正な顔には濃い疲労の色が滲んでいる。
しかし、彼の口から飛び出すのは「領民のため」でも「王国の未来のため」でもなく、ただひたすらに『愛する妻とのデートを死守する』という、狂気じみた執念だけであった。
「俺はね、キアラちゃんが起きている時間は、一秒たりとも仕事なんかしたくないの! ずっとキアラちゃんの顔を見て、手をつないで、可愛いねって言い続けていたいんだ! そのための努力を惜しむなんて、男としてあり得ないでしょ! うおおおおおっ、魔力ブーストぉぉ!!」
フローリスの全身から黄金色の魔力が爆発的に吹き上がり、宙を舞う羽ペンの速度がさらに倍になった。
側近は「ああ……もうダメだこの人……」と頭を抱え、ただ主人が過労死しないことを神に祈ることしかできなかった。
* * *
翌朝。
小鳥のさえずりが響く明るいダイニングルームに、キアラは完璧なお淑やかな足取りで入室した。
しかし、扉を開けた瞬間。
「キアラちゃーーん! おはよう! 今日のドレスもすっごく似合ってる! 朝から太陽みたいに眩しいよ、俺の可愛い奥さん!」
ババーン!と効果音がつきそうな勢いで、フローリスが満面の笑みと共に飛びついてきた。
キアラは(朝から暑苦しいな!)と内心で舌打ちをしながらも、ドンッとぶつかってきた夫の体を、鍛え抜かれた体幹でビクともせずに受け止めた。
「おはよう、フローリス。相変わらず元気だな」
「当たり前だよ! キアラちゃんの顔を見たら、エネルギーが百倍に跳ね上がったもん! さあ、朝食を食べたら準備して! 今日は貸し切り馬車で劇場に向かうからね!」
嬉しそうにキアラの手にキスを落とすフローリス。
いつも通りの、底抜けに明るく、ヘラヘラとした余裕のある遊び人の夫——に見えた。
しかし、武術の達人であり、日頃から研ぎ澄まされた観察眼を持つキアラの目は誤魔化せなかった。
(……ん?)
キアラは、自分に抱き着いて離れないフローリスの背中をポンポンと叩きながら、微かな違和感を覚えた。
(今日のこいつ……いつもより、少しだけ体が重いな。それに、抱き着いてくる時の足の踏み込みが、ほんの数ミリだがブレていた)
キアラがフローリスの顔を至近距離でジッと覗き込むと、フローリスは「えっ、なに? 朝のキスのおねだり?」と照れたように笑った。
その笑顔は完璧だったが、キアラの目は、フローリスの目の下や頬のあたりに、ごく微弱な『幻影魔法』の痕跡が揺らいでいるのを見逃さなかった。
(顔色の悪さやクマを、魔法で強引に隠しているのか……? 体温も、普段より少し高い気がする)
キアラの脳内で、冷静な計算機が弾き出される。
(この男……連日の私への『過剰なご機嫌取り』で、相当な無理をしているのだな)
キアラの頭の中にある前提は、常に『フローリスは政略結婚の体面を保つため、義務感で私に尽くしている』というものだ。
元々は自由を愛する遊び人だった彼が、毎日自分の本性を押し殺し、堅物の妻を楽しませるためにエスコートを続ける。しかも、裏では公爵としての激務もこなさなければならない。
(いくら彼が天才でも、肉体は一つだ。私という『政略結婚の要』を繋ぎ止めるために、ここまで精神と体力をすり減らしているとは……。なんという責任感、なんという恐ろしいまでのプロ意識だ!)
キアラは、フローリスのその見事なまでの『ビジネス夫』ぶりに、深い感銘すら覚えていた。
「おい、フローリス」
「ん? なあに、キアラちゃん」
「今日の観劇だが、お前が疲れているなら無理をして行く必要はないぞ。私は邸の庭で剣の素振りを……ごほん、静かに読書をして過ごすだけでも十分に楽しいからな」
キアラなりの、ビジネスパートナーに対する最大限の気遣いであった。
「お前もたまには『夫を演じる義務』を休んで、自分の時間を過ごせ」という思いやりだ。
しかし、これがフローリスの狂気をさらに加速させることになるとは、彼女は知る由もなかった。
「えっ……!?」
フローリスの黄金色の瞳が、見開かれた。
彼の過労で鈍った脳裏に、恐ろしい被害妄想がフラッシュバックする。
(キアラちゃんが、観劇に行かなくていいって言った!? つまり、俺のエスコートに飽きたってこと!? 俺と一緒にいるより、一人で本を読んでる方が楽しいってこと!? いやだ! そんなの絶対に嫌だ!! もっと俺の魅力をアピールして、キアラちゃんを夢中にさせなきゃ!!)
「む、無理なんてしてないよ!! 俺は絶好調! ほら、見て!」
フローリスは焦ってキアラから離れると、パチン!と指を鳴らした。
瞬間、ダイニングルームの天井から、光の魔力で出来た無数の美しい蝶が舞い降り、キアラの周囲をキラキラと飛び回り始めたのだ。
「わあ……」
「ねっ? 俺の魔力も体力も底なしだから! キアラちゃんを楽しませるためなら、なんだってできるんだからね! だから、絶対一緒に観劇に行こう!」
「あ、ああ……わかった。そこまで言うなら、お言葉に甘えよう」
キアラは光の蝶を見つめながら、(わざわざ魔法まで使って『疲れていないアピール』をするとは……私が実家に見限りの手紙を出すとでも思って、焦っているのだな。可哀想に)と、さらに盛大な勘違いを深めていた。
一方のフローリスは、笑顔の下で(やばい、魔力使いすぎてちょっと立ち眩みが……)と、必死に限界の肉体を気力だけで支えていたのである。
* * *
その日の午後。
貸し切りの豪華な馬車に揺られ、二人は王都の劇場へと向かっていた。
フローリスは馬車の中でも、キアラの隣にピタリとくっつき、彼女の手を握って離さなかった。
「キアラちゃんの指、白くて細くてすっごく綺麗だねぇ……」
「お前、さっきからそればかり言っているぞ。少しは外の景色でも見たらどうだ」
「外の景色なんて見ないよ。俺の世界にはキアラちゃんしか映ってないもん」
いつものように甘い言葉をささやくフローリスだったが、その声のトーンが、普段よりも少しだけ遅く、低くなっていることにキアラは気付いていた。
(やはり、限界が近いな)
キアラは横目でフローリスの様子を観察した。
彼が握っている手のひらは異常に熱く、時折、馬車の揺れに合わせてフローリスの頭がカクン、と不自然に沈み込んでいる。一瞬だけ意識が飛んでいるのだ。
「フローリス」
「ふぇっ!? な、なに!? 俺、寝てないよ! ずっとキアラちゃんのこと考えてたよ!」
「……誰も寝ていたなどと責めていない。少し肩の力を抜けと言っているんだ」
キアラはため息をつき、空いている方の手で、フローリスの頭をポンと自分の肩に引き寄せた。
「えっ……キアラちゃん……?」
「劇場に着くまで、まだ少し時間がある。お前の『公爵としての激務』の疲れが取れるまで、こうして休んでいろ。……誰にも言わないでおいてやるから」
キアラとしては、「無理して夫を演じなくていい。今はビジネスを忘れて休め」という、有能な同盟相手に対する労いのつもりだった。
しかし、愛する妻から自ら肩を貸してもらえたフローリスにとっては、もはや劇薬に近いご褒美であった。
「あ、ああ……キアラちゃんの匂いがする……。キアラちゃんの肩、あったかい……」
フローリスは完全にデレデレに溶けきった顔になり、キアラの首筋にすりすりと顔を埋めた。
(やばい、幸せすぎる。三日徹夜した甲斐があった……俺、このまま死んでもいい……)
限界を迎えていたフローリスの脳内麻薬がドバドバと分泌され、彼の残されたわずかな体力と魔力は、この至福の瞬間を味わうためにすべて使い果たされていく。
(ふん、見栄っ張りな男が、ついに素直に休む気になったか)
キアラは、自分の肩でふにゃふにゃになっている夫を見下ろし、どこか得意げに微笑んだ。
彼がこれほどまでに自分を頼り(※ただし義務感からの無理が祟って)、寄りかかってきている。その事実が、キアラの胸の奥をほんの少しだけくすぐったくさせていた。
「おい、フローリス。もうすぐ劇場に着くぞ。しっかりしろ」
「んふふ……キアラちゃん、好きぃ……」
馬車が劇場の前に到着し、キアラが声をかけても、フローリスの返事はすっかり呂律が回らなくなっていた。
それでもフローリスは、最後の力を振り絞ってバチッ!と目を見開き、気合で幻影魔法をかけ直すと、完璧なエスコートでキアラの手を引き、馬車を降りた。
「さあ、行こうかキアラちゃん! 最高の舞台を君にプレゼントするよ!」
太陽のような眩しい笑顔。
周囲の貴族たちが「さすがはヴェイン公爵ご夫妻、絵に描いたような仲睦まじさだ」と溜息をつくほどの、完璧な立ち振る舞い。
(……大した役者だ。限界まで疲労しているはずなのに、外に出た瞬間にこの完璧な『夫』の顔を作るとは。私は、本当に恐ろしい男と結婚してしまったのかもしれないな)
キアラは、フローリスの底知れぬプロ意識に戦慄すら覚えながら、彼のエスコートに従って劇場の階段を上り始めた。
しかし——奇跡はそこまでだった。
劇場の華やかなロビーを歩いていた最中、キアラと繋いでいたフローリスの手から、ふっと力が抜けた。
「フローリス……?」
キアラが振り返った瞬間。
フローリスの目にかけられていた幻影魔法がパリンと音を立てて砕け散り、隠されていた酷いクマと、土気色の肌が露わになった。
フローリスの視界は真っ白に明滅し、平衡感覚が完全に失われていく。
(あっ……やばい、魔力が……。でも、最後に見たキアラちゃんの顔、やっぱり最高に可愛かったな……)
そんな呑気なことを思いながら、フローリスの体は糸が切れた操り人形のように、グラリと前方に傾いた。
「フローリス様!?」
「旦那様ぁぁぁーーっ!!」
周囲の貴族たちや側近が悲鳴を上げる中。
キアラだけは冷静に、倒れゆく夫の体をその華奢な腕でガッシリと受け止めていたのだった。
倒れてしまったフローリス……どうなるのか……
明日20時に更新予定です!




