第14話:隠しきれない嫉妬
王都の東に位置する、王属騎士団の広大な訓練場。
抜けるような青空の下、風が巻き上げる土埃の匂いと、鋼と鋼が激しくぶつかり合う甲高い金属音が、熱気と共に響き渡っていた。
「わあ……」
訓練場を見下ろすように特別に設えられた貴賓席。そこから身を乗り出すようにして、キアラはその光景を食い入るように見つめていた。
彼女の視線の先では、王国の平和を担う精鋭の騎士たちが、汗にまみれながら苛烈な剣の打ち合いを行っている。重い木剣が空を裂く音、鋭い踏み込みで地面を蹴る音。その一つ一つが、武術を愛してやまないキアラの心を激しく揺さぶっていた。
(すごい……! あの足捌き、無駄が全くない! あんな風に重心を移動させれば、次の太刀への移行が格段に速くなるのか。ああ、うずうずする! ドレスなんか脱ぎ捨てて、私もあの輪の中に混ざりたい!)
内心では完全に血を騒がせ、木剣を握りしめて乱入したい衝動と戦っているキアラだったが、表面上の彼女はあくまで『完璧なお淑やかな公爵令嬢』である。
美しいフリルがあしらわれた日傘の下、背筋をピンと伸ばし、レースの扇で口元を上品に隠しながら、ただ静かに見学している……という体裁を、ギリギリのところで保っていた。
そんな彼女の隣では、夫であるフローリスが、訓練風景には一切の目もくれず、頬杖をつきながら目を輝かせる妻の横顔をデレデレと眺めていた。
そもそも、今日この場にキアラを連れてきたのはフローリスである。先日、街で買い物に出た際、キアラが武具店のショーウィンドウを熱心に見つめていたことを思い出し、「王属騎士団の訓練、特別席で見学できる手配をしたよ」と、彼女を喜ばせるためだけにセッティングしたのだ。
「キアラちゃん、楽しんでる? 剣の稽古なんて泥臭くて退屈しないかなって心配だったんだけど」
「とんでもありませんわ」
キアラは扇の向こうで、興奮に震える声を必死に抑え込みながら答えた。
「皆様の洗練された動き、無駄のない足捌き……とても素晴らしいですのよ。鍛え抜かれた技を見るのは、芸術を鑑賞するのと同じ。見ていて全く飽きませんわ」
「そっか、キアラちゃんが喜んでくれて俺も嬉しいよ。でも、あの汗臭い男たちより、一番かっこいいのは俺だからね?」
「ええ、フローリス様のお召し物も大変素敵ですわ。今日のジャケット、とてもよくお似合いです」
「服じゃなくて! 俺自身を褒めてよー!」
「はいはい、フローリス様も素敵ですわよ」
適当に受け流しながらも、キアラの黄金色の瞳は訓練場に釘付けである。
フローリスはキアラの肩に顔を擦り寄せようと身を乗り出したが、その時、二人の甘い空気を断ち切るように、一つの影が貴賓席に近づいてきた。
「ヴェイン公爵閣下、奥様。本日はご足労いただき、誠に光栄に存じます」
凛とした、よく通る声だった。
二人の前に立っていたのは、見事な白銀の鎧を纏った一人の若い騎士である。陽に焼けた健康的な肌に、爽やかな短髪。そして実直さを絵に描いたような清々しい顔立ちをした、正統派の美青年だった。
「私は第一部隊の小隊長を務めております、レオンと申します。モーランド公爵家が誇る武術の誉れ高きお嬢様がご見学にいらっしゃると伺い、ご挨拶に参りました」
深々と、しかし武人らしい無駄のない動作で頭を下げるレオン。
その顔を見た瞬間、キアラはパッと顔を輝かせた。
「まあ、あなたがレオン様。先ほどの訓練での立ち回り、わたくし、ずっと拝見しておりましたわ」
「私の太刀筋を、ですか?」
「ええ。相手の重心が崩れた一瞬の隙を突き、下段から跳ね上げるようなあの太刀筋……実に見事でしたわ。それに、その前のフェイントも。右肩をわずかに下げることで、相手の意識を上に向けさせる技術、素晴らしいですわ」
キアラの口から次々と飛び出す専門的な指摘に、レオンは驚きと共に相好を崩した。
「おお! 奥様、あの動きの意図がお分かりになるのですね! まさか、そこまで正確に見抜かれるとは!」
レオンは思わず、興奮した様子でキアラへと一歩歩み寄った。
「実を申しますと、あれは王都の伝統的な剣術に、私なりのアレンジを加えたものなのです。モーランド公爵家で古くから受け継がれているという『双燕の構え』にも通じるところがあるかと研究を重ねておりまして——」
「ええ、ええ! そうですの! わたくしもまさにそう思っておりましたのよ!」
キアラは淑女の体裁を崩さないよう必死に抑えつつも、溢れ出る剣術への情熱を隠しきれず、椅子から身を乗り出してレオンとの会話に花を咲かせ始めた。
「あの踏み込みの深さと、腕のしなり……双燕の構えの『後の先』を取る理論を見事に応用していらっしゃいます。ただ、踏み込む際の左足の角度をあと数度内側に向ければ、さらに次への移行がスムーズになるのではないかしら?」
「なるほど……! 確かに、その方が体幹のブレを抑えられます。奥様、大変勉強になります。よろしければ、あの型の派生についてもご意見を——」
爽やかなイケメン騎士と、美しい公爵夫人。
武術という共通の話題で、二人は完全に意気投合していた。傍から見れば、身分の壁を越えて清らかな情熱を交わし合う、まるで一枚の絵画のように美しい光景だった。
——しかし、その絵画の背景は、今まさにどす黒い闇に飲み込まれようとしていた。
「…………」
キアラの隣に座るフローリスから、一切の表情が消え失せていた。
妻が、自分以外の男と楽しそうに笑っている。
しかも、自分が全く入っていけない、そして彼女が心底愛している『剣術』などという話題で。
レオンの目に邪な感情はなく、キアラに対する純粋な尊敬と剣術への情熱しか向けていないことは、フローリスの天才的な直感でもわかっていた。
だが、そんなことは関係ない。
キアラの美しい黄金色の瞳が、俺以外の男に釘付けになっている。
俺の前では見せたことのないような、生き生きとした表情を、ぽっと出の騎士なんかに向けている。
その事実だけで、フローリスの内側で恐ろしいほどの独占欲と嫉妬の炎が、真っ黒な業火となって燃え上がっていたのだ。
「なるほど、では足の運びはこうして——」
「ええ、重心を下に落とすイメージで……」
和やかに剣術談義を続けるキアラとレオンの周囲の空気が、急激に冷え込み始めた。
ピキッ、ピキキッ……。
まるで空間そのものが凍りつくような異音。
レオンがハッとして会話を止め、周囲を見渡すと、見学席の床石に微かな亀裂が走り、大気中の魔力が異常な濃度で渦を巻き始めているではないか。
「な、なんだ、この強大な魔力は……っ!?」
歴戦の騎士であるレオンの全身の毛穴が、生命の危機を告げて粟立った。
彼が戦慄して視線を向けた先。
そこには、頬杖をつき、完璧なまでの『甘く優しい笑顔』を貼り付けたフローリスが座っていた。
「へえ、レオン君っていうんだ。すごいねぇ、剣術にそんなに一生懸命で。でもさ……キアラちゃんとそんなに楽しそうに笑い合えちゃうなんて、俺、ちょっとビックリしちゃったな」
「は、ヴェイン公爵、閣下……?」
フローリスの声はどこまでも優しく、ふんわりと柔らかかった。まるで春の陽だまりのような声色だ。
しかし、その黄金色の瞳の奥には、光を吸い込むような昏い執着が渦巻き、彼から放たれる凄まじい威圧感が、物理的な重圧となってレオンにのしかかっていた。
王国内でも並ぶ者のいない、最高峰の天才魔法使いが放つ、手加減なしのガチの威圧。
強靭な肉体を持つレオンでさえ息をすることすら困難になり、額から滝のような冷や汗を流してその場に片膝をつきそうになった。
「あ、あの……私が何か、ご無礼を……っ?」
絞り出すように問うレオンに、フローリスはクスクスと楽しそうに笑いながら言葉を続ける。
「ううん、無礼なんてとんでもないよ。君はただキアラちゃんとお話ししてくれてただけだもんね。俺の可愛い妻を楽しませてくれて、感謝したいくらいだよ」
フローリスはゆっくりと足を組み替え、甘い声のまま、決定的な一言を落とした。
「ただね、キアラちゃんのその可愛い声を聞いていいのは、この世界で俺だけなんだよね。キアラちゃんの瞳に映っていいのも、俺だけ。だから……これ以上彼女に剣術の話をさせるなら、俺、うっかり魔力が暴走して、この訓練場ごと君たちを灰にしちゃうかもしれないなぁ……なんて。あはは、困ったな」
まるで「今日の夕飯は何にしようか」とでも言うような穏やかな口調で、物騒極まりない宣告をするフローリス。
空間の魔力濃度は限界に達し、空気中の水分が凍りついてキラキラと舞い落ちる。レオンの背筋に「死」の二文字がはっきりとよぎった、その時だった。
「……ッ!」
キアラがハッとして肩を大きく揺らし、慌ててレオンから距離を取った。
彼女の鋭い感覚は、レオンに向けられている夫の尋常ではない怒気と、冷酷なまでに凍りついた空気を正確に察知していた。
キアラはパタンと扇を閉じ、背筋をピンと伸ばして、フローリスの隣へとスッと身を寄せた。
そして、氷のように冷え切った殺気を放つフローリスの腕を、両手でそっと優しく包み込んだのだ。
「フローリス様……っ」
甘く、少しすがるような、震える声を出す。
フローリスがわずかに目を見開いてキアラを見下ろすと、彼女は困ったように眉を下げ、潤んだ瞳で上目遣いに彼を見つめ返していた。
「申し訳ありません、フローリス様。わたくしとしたことが、珍しい剣術の話に、少々はしゃぎ過ぎてしまいましたわ」
「キアラ、ちゃん……?」
突然の妻の甘い態度に、フローリスの魔力の渦がピタリと止まる。
「わたくしはヴェイン公爵夫人。愛するあなたという素晴らしい夫がいながら、他の殿方と親しく話し込むなど、本当にはしたない真似でしたわ……。どうか、そんなに怖いお顔をなさらないで?」
キアラは必死に宥めようと、包み込んだフローリスの腕に自分の頬をすり寄せ、さらに甘く、すがるような声を紡いだ。
「フローリス様の優しい笑顔が見られないと、わたくし、とても悲しいですわ。深く反省しておりますから……どうか、お怒りを鎮めてくださいな」
キアラがこれ以上ないほどお淑やかに、そして『愛らしい妻』として甘えながら宥めると、フローリスから放たれていた暴走寸前の魔力と殺気が、嘘のように霧散して消え去った。
「……キアラちゃん、俺のこと、選んでくれたの……?」
フローリスが信じられないものを見るような、熱に浮かされたような目で呟く。
キアラはさらにフローリスの腕をぎゅっと抱きしめ、優雅に微笑みかけた。
「もちろんですわ。それにわたくし、剣の稽古はもう見飽きてしまいましたの。汗臭い男たちの訓練よりも、二人で庭園の散歩でもいたしませんこと? わたくし、フローリス様と二人きりでお話ししたいですの」
その行動は、キアラなりに「体面を汚して怒っている夫を、被害が出る前に必死に宥めている」だけの危機回避であったが。
フローリスにとっては、「妻が自分以外の男を拒絶し、必死に自分を宥めて甘えてきてくれた」という、天にも昇るような至福の瞬間であった。
「……うんっ! 行こう、キアラちゃん! ずっと二人きりでいられる、誰も邪魔しない静かな場所に行こうね!」
先ほどまでの絶対零度の威圧感は完全に消え失せ、フローリスは再び顔をだらしなくデレデレに溶かして、キアラの腰をしっかりと力強く抱き寄せた。
「レオン君、そういうことだから。君も稽古頑張ってね」
立ち去る直前、フローリスは振り返り、満面の笑みでレオンを見た。
「次に俺の妻に話しかけたら……どうなるか、わかるよね?」
優しく、しかし確かな殺意と狂気を込めて釘を刺すフローリスに、レオンは蒼白な顔でガタガタと震えながら、何度も何度も頷くことしかできなかった。
「では、ごきげんよう」
キアラはお淑やかに会釈をし、すっかり機嫌を直して自分にすり寄ってくるフローリスを引き連れるようにして、優雅な足取りで訓練場を後にした。
取り残されたレオンと騎士たちは、王都を滅ぼしかねない理不尽な嫉妬の嵐が過ぎ去ったことに安堵し、その場にへたり込んで深く深く息を吐き出すのであった。
夫の嫉妬の本当の理由など微塵も気付かぬまま、「ふぅ、なんとか公爵夫人の務めを果たせたわ」と安堵して堂々と歩くキアラ。
そして、「やっぱり俺の妻が世界で一番可愛い! 俺のこと大好きなんだから!」と、幸せの絶頂で有頂天になっているフローリス。
二人の壮大で愛すべきすれ違いは、今日も王都のあちこちで罪のない周囲を巻き込みながら、平和に続いていくのだった。
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