第13話:演技なのか義務なのか
王都にそびえ立つヴェイン公爵邸は、その日、酷く奇妙なほどの静けさに包まれていた。
いつもであれば、朝から晩まで「キアラちゃん、キアラちゃん!」と大型犬のようにまとわりついてくる夫・フローリスの姿がないからだ。彼は今朝早く、ヴェイン領の別荘で隠居生活を送る先代公爵——フローリスの父親に呼び出され、馬車で領地へと向かっていた。
「早く帰ってくるからね! 俺がいない間、寂しくて泣いちゃダメだよ!」と、馬車に乗り込む直前までキアラの手を握って離さなかったフローリスを、「いいから早く行け」と冷たくあしらって見送ったのが数時間前のことである。
夫が不在の邸宅。
それは、キアラにとって本来であれば「待ちに待った完全なる自由のひととき」であるはずだった。
誰の目も気にせず、暑苦しい抱擁や過剰な甘い言葉から解放され、心ゆくまで羽を伸ばせる絶好の機会だ。
それなのに——。
「……はぁ」
自室の豪奢なソファに腰を下ろしたキアラの口から、今日何度目かわからない深いため息がこぼれ落ちた。
淹れたての最高級の紅茶も、王都で一番人気のパティシエが作ったという美しい焼き菓子も、今の彼女の心を満たしてはくれない。
キアラの視線の先には、ローテーブルの上に置かれた一つの艶やかな革張りの箱があった。数日前、フローリスが絶景の丘の上で「君が欲しそうに見ていたから」とサプライズでプレゼントしてくれた、あの見事な彫金の短剣である。
キアラはゆっくりと手を伸ばし、その短剣を鞘ごとそっと撫でた。
指先に伝わる冷たくて滑らかな感触とは裏腹に、彼女の胸の奥には、鉛のように重く、そして鈍く痛むようなモヤモヤとした感情が渦巻いていた。
『フローリス様はね、本当はあなたとの義務的な結婚生活になんてうんざりしていらっしゃるのよ!』
『あの自由で優しかったフローリス様を、義務感という鎖で縛り付けるのはおやめなさい。さあ、今すぐ身を引いて、フローリス様を私たちのところへ返してちょうだい!』
数日前のブティックで、フローリスの元・遊び相手の令嬢たちから投げつけられた棘のある言葉たちが、キアラの脳内で何度も何度もリフレインしていた。
あの時、キアラは彼女たちの言葉を聞いて、落雷に打たれたかのように『納得』したはずだった。
毎朝の過剰なスキンシップも、どこへ行くにもついて来ようとする執着も、他の男を威嚇して遠ざける嫉妬のような振る舞いも、すべては『政略結婚の妻を大事に扱っているという体面を保つため』であり、フローリスの『義務感』からくる高度な演技なのだと。
あの場では「やはりそうだったのか!」と腑に落ち、むしろ「それならばいずれ離縁して自由になれるかもしれない」と前向きな結論すら出していた。
それなのに、こうして一人きりになり、静寂の中で自分の心と向き合ってみると、どうしてこんなにも胸が締め付けられるのだろうか。
(……私は、何を期待していたというんだ)
キアラは短剣をギュッと握りしめ、ギュッと目を閉じた。
彼女の脳裏に浮かぶのは、フローリスのあの黄金色の瞳だ。丘の上でこの短剣を渡してくれた時、彼はキアラが喜ぶ顔を見て、まるで世界中の宝物を手に入れたかのように幸せそうに笑っていた。
「キアラちゃんが喜んでくれるなら俺も最高にハッピーだよ」と言った、あの柔らかく、どこまでも甘い声。
(あれが……すべて、義務感からくる演技だというのか?)
キアラは、モーランド公爵家という武門の家柄で、厳しく育てられてきた。
彼女自身、本来の「ガサツで男勝りで、剣を振り回すのが大好きな性格」を押し殺し、社交界では完璧な『淑やかな令嬢』の仮面を被って生きてきた。
だからこそ、キアラにはわかるのだ。
自分の本性を隠し、周囲が求める理想の役割を演じ続けることが、どれほど息苦しく、精神をすり減らす行為であるかを。
(フローリスは、王都でも有名な稀代の遊び人だった。夜な夜な美しい令嬢たちと遊び歩き、自由を謳歌していた男だ。そんな彼が、親の都合でいきなり自由を奪われ、私のようなガチガチの堅物の妻を押し付けられた……)
キアラは、自分なりにフローリスの心中を推し量ろうと思考を巡らせた。
(彼は、ヴェイン家の当主としての重責と、モーランド家との同盟を維持するために、必死に『妻を溺愛する夫』という役割を演じているんだ。私がお淑やかな令嬢を演じていたように、彼もまた、己の自由な本性を殺して、私に尽くすフリをしてくれている……。
この短剣だってそうだ。私の好みを細かくリサーチし、最も私が喜ぶタイミングで与える。そうやって私のご機嫌を取り、政略結婚を円滑に進めるための、彼なりの涙ぐましい『努力』なのだ)
そう結論づけた時、キアラの胸に去来したのは、怒りではなく、奇妙な『同情』と、形容しがたい『寂しさ』だった。
(同じなんだ。私も、フローリスも。親の都合で自分を偽らなければならない、哀れな被害者同士……)
キアラはソファから立ち上がり、たまらず部屋を飛び出した。
頭でどれだけ理路整然と「これは政略結婚だ」「彼は義務で私に優しくしているだけだ」と整理しても、胸の奥で燻る感情の熱が冷めない。このままでは頭がおかしくなってしまいそうだった。
誰にも見られないよう、キアラはクローゼットから動きやすい乗馬用のズボンとシャツを引っ張り出して手早く着替えると、例の短剣だけを腰に帯びて、邸の裏手にある鬱蒼とした庭園の森へと向かった。
そこは、以前フローリスに『ガサツな本性』を見られてしまった、あの思い出の秘密の場所だ。
「……ふぅっ!」
キアラは落ちていた手頃な木刀代わりの太い枝を拾い上げると、大きく息を吸い込み、思い切り宙を薙ぎ払った。
「とうっ! はあっ! せいっ!!」
風を斬る鋭い音が、静かな森に響き渡る。
キアラは無心になろうと、何度も何度も木の枝を振るった。額に汗が滲み、呼吸が荒くなる。体を動かしていれば、余計なことを考えずに済むはずだった。
しかし、剣を振れば振るほど、彼女の頭の中にはフローリスの顔が浮かんでは消えた。
『俺の前では、無理しなくていいって言ったじゃない』
『どんな君でも、俺は世界一愛してるから』
(嘘だ!)
キアラは強く踏み込み、仮想の敵を力いっぱい叩き斬るように枝を振り下ろした。
(お前は嘘つきだ、フローリス! 私のガサツな本性を知った時も、お前はあんなに笑って受け入れてくれたじゃないか! 『本当のキアラちゃんでいてよ』なんて、あんなに嬉しそうに……っ!)
もし彼が義務感で自分に接しているのだとしたら、あの時の大爆笑も、すべて計算し尽くされた演技だったということになる。
「本性を知って幻滅したけれど、同盟を破棄するわけにはいかないから、あえてそれを受け入れるフリをして懐の深さをアピールした」——そう考えるのが、貴族の政略結婚としては最も合理的だ。
(あいつは、魔法の天才だ。頭の回転が常人とは違う。とっさの機転で私の失敗を笑い飛ばし、包み込むような演技ができるくらい、あいつにとっては造作もないことなのだろう……っ当時もそうやって警戒していたではないか私っ……!)
「はぁっ……はぁっ……」
キアラは木の枝を地面に突き立て、荒い息を吐きながらその場にへたり込んだ。
疲労で体が重い。しかし、それ以上に心が重かった。
(悔しい……っ)
キアラは、強く唇を噛み締めた。
何が悔しいのか。彼に騙されていることか? 自分がただの政治的な道具として扱われていることか?
違う。キアラが最も悔しかったのは、フローリスのその『完璧な夫の演技』に、自分が本気で惹かれ始めていることに気付いてしまったからだ。
朝の暑苦しいほどの抱擁。
書類仕事に文句を言いながらも、自分が応援すれば王宮の危機を光の速度で解決してみせるカッコよさ。
街で自分が息苦しく感じていることを察して、人気のない絶景へ連れ出してくれる優しさ。
(あれが全部『演技』で『義務』だなんて……そんなの、ずるいじゃないか。あんなに優しくされたら、誰だって勘違いしてしまう……っ!)
キアラの黄金色の瞳に、じわりと熱いものが込み上げてきた。
彼女は本来、正義感が強く、真っ直ぐで嘘が嫌いな性格だ。だからこそ、フローリスの「優しすぎる嘘」が痛かった。
もし彼が本心から自分を愛していないのなら、いっそ冷たく放置してくれた方がどれほどマシだったか。愛されていると錯覚させるほどの完璧な溺愛を見せつけられて、いつかそれが「やはりただの義務でした」と終わる日が来ることを想像すると、恐怖で足がすくみそうだった。
「……ダメだ、キアラ。しっかりしろ」
キアラは両手で自分の頬をパンッ!と強く叩いた。
「私はモーランド公爵家の娘だぞ。あんな遊び人の甘い言葉に絆されて、本気で恋に落ちるなど、愚の骨頂だ。あいつは完璧なビジネスパートナーとして、己の役割を全うしているだけなんだ。ならば私も、妻としての役割を完璧にこなしてやらなければならない!」
キアラは立ち上がり、腰に帯びた短剣の柄を強く握りしめた。
これ以上、彼の甘い嘘に心を乱されてはいけない。彼が私に『溺愛する夫』を演じるなら、私も彼に『完璧に愛される妻』を演じてみせよう。そして、決して私の本当の心(本気の愛情)だけは明け渡してなるものか。
それが、彼がいつか元の自由な遊び人に戻る日が来た時、自分が傷つかないための唯一の防衛策なのだ。
(そうだ、私たちは所詮、政略結婚で結ばれたかりそめの夫婦。私は絶対に、あいつのことなんか好きにならない。絶対にだ!)
キアラが己の心に強固な城壁を築き上げ、悲壮なまでの決意を固めた、まさにその時だった。
「キアラーーーちゃーーーーん!!!!」
「——へっ?」
静かな森の空気を切り裂くような、バカでかい叫び声が響き渡った。
キアラが間の抜けた声を上げて振り返ると、庭園の入り口の茂みを物凄い勢いで掻き分け、金色の髪を振り乱したフローリスが突進してくるのが見えた。
「フ、フローリス!? お前、明日の夕方まで別荘にいる予定では……っ!」
「無理無理無理!! もう限界だった!! 父さんの顔見たら速攻で用件終わらせて、馬車なんか待ってられないから風の魔法でブーストかけてすっ飛んで帰ってきたよ!!」
よく見れば、フローリスの着ている上質なジャケットは風圧でボロボロになり、髪には木の葉がたくさん引っかかっている。
彼は息を切らし、滝のような汗を流しながらも、一直線にキアラの元へと駆け寄り、その細い体を勢いよく抱きしめた。
「うわあっ!? バカ、くっつくな! 汗臭いぞ!!」
「はあぁぁ〜〜……っ、キアラちゃんの匂いだぁ……生き返るぅ……。半日会えなかっただけで、俺、寂しくて死ぬかと思った……。やっぱり俺の命の源はキアラちゃんだよ……好き、大好き……っ」
キアラの首筋に顔を埋め、本気で泣きそうな声でスリスリとすり寄ってくる夫。
その力強い腕の温もりと、彼から伝わるバクバクと早鐘を打つ心臓の音が、キアラの全身を包み込む。
(こ、これが……『義務感』でできる演技だというのか……!?)
キアラの脳内で、先ほどまで必死に築き上げていた「政略結婚の防衛壁」が、フローリスの突撃によって音を立ててガラガラと崩れ去っていくのを感じた。
「離れろフローリス! 暑苦しい! 重い! 早く着替えてこい!!」
「え〜! 着替える前にキアラちゃん成分をフル充電させてよ〜! ちゅーしていい!?」
「するな!!」
ジタバタと暴れながらフローリスの頭をポカポカと叩くキアラだったが、彼女の顔はすでに茹でダコのように真っ赤に染まっていた。
口では文句を言いながらも、彼が予定を放り出してまで自分の元へ(しかも魔法を乱用してまで)帰ってきてくれた事実が、悔しいほどに嬉しかったのだ。
(ダメだ、私……。こんなの、絶対に絆されてしまう……っ!)
「キアラちゃん、ずっとここで俺のこと待っててくれたの? 可愛いなぁ、もう俺、キアラちゃんがいなきゃ生きていけない体にされちゃったよ」
「お前のそのふざけた頭を今すぐこの木刀で叩き割ってやろうか!!」
どこまでも純粋で重すぎる愛をぶつけてくるフローリスと、それを「高度な義務の演技だ」と必死に疑いながらも、抗いきれずに心が惹かれていくキアラ。
すれ違っているはずなのに、なぜか誰よりも密着している二人の騒がしい声は、夕暮れに染まるヴェイン公爵邸の庭園に、いつまでも温かく響き渡っていた。
少しずつ心が揺れ動くキアラ……
次は明日の20時です!よろしくお願いいたします!




