第12話:親子
王都から馬車を走らせること数時間。喧騒から遠く離れたヴェイン領の西部に、豊かな自然に抱かれた美しい避暑地がある。
鏡のように澄み切った広大な湖の畔に、白亜の壁と青い屋根が特徴的な壮麗な別荘が静かに佇んでいた。緑豊かな木立を吹き抜ける風は心地よく、鳥のさえずりが穏やかな時の流れを告げている。
ここは、ヴェイン公爵家が代々所有する休養のための邸宅だ。現在、王都の本邸を離れた先代のヴェイン公爵とその妻が、第一線を退き、ここで悠々自適な隠居生活を送っていた。
テラスには、見事な透かし彫りが施された白いテーブルと椅子が置かれている。
初老の男性——ヴェイン公爵は、王都の流行を取り入れた香り高い紅茶を楽しみながら、目の前に座る自らの息子の姿を、どこか信じられないような思いで見つめていた。
「——で? わざわざこんな遠くまで呼び出しておいて、話って何? 父さん」
金色の髪を風に揺らしながら、フローリス・ヴェインは不満げに唇を尖らせた。
フローリスの手元にも美しいティーカップが置かれているが、彼はそれを一口も飲もうとせず、テーブルの上に組んだ指先でトントンとせわしなくリズムを刻んでいる。
その態度からは、「早く帰りたい」というオーラが隠しきれないほどに溢れ出していた。
先代公爵は、息子の露骨な態度に苦笑しながら、ゆっくりとティーカップをソーサーに置いた。
「そう邪険にするな。当主としての仕事の進捗と……キアラ殿との新婚生活が順調かどうか、少し気になっただけだ。王都から離れて暮らしている身としては、お前たちがうまくやっているのかどうか、手紙だけでは測りかねるところもあってな」
「順調も何も、最高に決まってるでしょ!」
『キアラ』という名前が出た瞬間、先ほどまでの不機嫌さが嘘のように、フローリスの表情がパッと花が咲いたように明るくなった。
彼を取り巻く気怠げなオーラは瞬時に消え去り、代わりにピンク色のハートマークが目に見えるのではないかというほど、甘く蕩けた空気がテラスを満たす。
「順調どころか、俺の人生の絶頂期だよ! キアラちゃんは今日も世界一可愛いし、綺麗だし、俺は毎日朝起きて彼女の顔を見るたびに惚れ直してるんだから! 照れて怒る顔も、美味しそうにご飯を食べる顔も、全部が愛おしくてたまらないんだ。あー、半日離れただけでもう胸が苦しい……早く帰ってキアラちゃんをぎゅーって抱きしめたいなぁ……」
両手で頬を包み込み、体をくねらせながらデレデレに頬を緩ませる息子。
その姿を見て、先代公爵は「……相変わらずだな」と、頭痛を堪えるように深いため息をついた。
(これが、あのフローリスだというのか……)
先代公爵の脳裏に浮かぶのは、ほんの数年前までの息子の姿だ。
かつてのフローリスは、王都の社交界でその名を知らぬ者はいないほどの、稀代の遊び人であった。美しい容姿と甘い言葉で数多の令嬢たちと浮き名を流し、特定の婚約者を作ることもなく、「結婚なんて窮屈な真似、俺はまっぴらごめんだね」と豪語しては、夜な夜な街へ遊び歩いていたのだ。
父親として何度叱責しても、のらりくらりと躱されるばかりで、手を焼いていた放蕩息子。
それが今や、親の呼び出しにすら「妻に早く会いたいから」という理由で文句を言い、妻の側から片時も離れようとしない重度の愛妻家(あるいは妻への依存症)に成り果てている。
親として、彼が身を固めて落ち着いたことには安堵しているものの、あまりの変わりように驚きを隠せないのが本音であった。
「……夫婦仲が良好なのは何よりだが。領地運営の方はどうだ? 私から公爵位と領地を丸ごと引き継がせてしまったが、若輩のお前に任せて、大きな問題は起きていないか?」
先代公爵が真面目な顔つきで公務の話に切り替えると、フローリスは気怠そうに肩をすくめた。
「問題なんてないよ。父さんが心配してた南部の魔法インフラの整備も、東部の農地の視察も、全部完璧に終わらせてるから」
「何? もう終わらせたのか? あのインフラ整備は、魔力回路の設計だけでも数ヶ月はかかると魔法省の役人が言っていたはずだが……」
「あんなの、俺が現地に行ってちょっと術式を書き換えて、地脈の魔力と同期させたら一瞬だったよ。半日もかからなかった。農地の視察だって、土壌の魔力バランスが崩れてただけだから、新しい魔法具を配置して最適化しておいた」
事も無げに言う息子に、先代公爵は絶句した。
フローリスは昔から魔法において天才的な才能を持っていたが、面倒くさがってその力を真面目に振るうことは少なかった。
それが今、公爵としての職務にその規格外の才能をフル活用しているのだ。
「……だが、書類仕事や決裁はどうしている? あれだけ広大な領地だ。いくら現場の処置を魔法で済ませても、事務処理の量は膨大だろう」
「あー、書類ね。まあ、俺は机に向かってチマチマ計算したり文字を書いたりするのは嫌いだからさ。魔力を使って光の速度で三割だけ重要な決裁を終わらせて、残りの細々とした雑務は全部優秀な側近に丸投げしてるよ。『あとはよろしく!』ってね」
「おい、それは当主としてどうなのだ……。側近が過労で倒れるぞ」
「いいじゃん、ちゃんと回ってるんだから。それに、俺はキアラちゃんと一秒でも長く一緒にいるための努力は惜しまないんだ。書類なんかに構ってる暇があったら、キアラちゃんとお茶したり、庭を散歩したりする時間に充てたいの!」
胸を張って堂々と『職務放棄(一部)』を宣言するフローリスに、先代公爵は再びこめかみを押さえた。
しかし、現実としてヴェイン領はフローリスの代になってからというもの、彼の天才的な魔法技術の応用によって、かつてないほどの豊かさと安定を誇っている。インフラは整い、農作物の収穫量は上がり、領民の生活は向上しているのだ。
側近の苦労には同情するが、動機はどうあれ、フローリスは公爵としての責務を十二分にいや、歴代当主の中でも群を抜く成果で果たしていると言わざるを得なかった。
「……まあ、領地が潤い、民が安らかに暮らせているのなら良しとしよう。しかし、お前がここまで真面目に公爵としての役割を果たすようになるとはな。昔のお前なら、領地の視察すらサボって女の子と遊びに出かけていたというのに」
先代公爵の言葉に、フローリスは少しだけ真面目な顔になり、手すりの向こうに広がる静かな湖面を見つめた。
「……俺だって、最初はこの地位を押し付けられて、心底うんざりしてたんだよ」
風が木々を揺らし、湖面に細かな波紋が広がる。
フローリスの脳裏には、数年前のヴェイン公爵家を揺るがした騒動が蘇っていた。
「優秀で、真面目で、誰が見ても完璧な次期当主だった上の兄貴が……その座を蹴って、身分違いの恋人と駆け落ちしてから、もう何年も経つよね」
「ああ……そうだな」
先代公爵の顔にも、苦い影が落ちた。長男の出奔は、厳格な公爵家にとって前代未聞のスキャンダルであり、同時に致命的な後継者不足を招いた事件だった。次男はすでに他家への婿入りが決まっており、引き戻すことはできない。
結果として、最も当主に不向きと思われていた、遊び人で自由奔放な三男——フローリスに、白羽の矢が立つことになったのだ。
「末っ子で、公爵家の重圧なんて背負うことなく、一生気楽に自由に生きていくはずだった俺に、いきなり『次期公爵』なんて重い責任がのしかかってきてさ。おまけに、国と家の均衡を保つためだとか言って、顔も知らない堅苦しいモーランド公爵家の令嬢との政略結婚まで決められて。……あの時は本当に、自分の人生が終わったと思った。最悪の気分だったよ」
当時のフローリスにとって、兄の駆け落ちによる後継者問題は、自分の気ままな青春と自由なライフスタイルを根こそぎ奪い去る、理不尽な災難でしかなかった。
親の決定に逆らえず、すべての運命を呪いながら、渋々顔合わせのホテルに向かったあの日——。
「でもね」
フローリスは振り返り、パッと花が咲いたような、心からの笑顔を父親に向けた。
その黄金色の瞳は、湖面のきらめきを反射して眩しいほどに輝いている。
「今は、あの兄貴にすっごく感謝してるんだ」
「……感謝、だと?」
「そうだよ。だって、優秀な兄貴がすべてを投げ打って逃げてくれて、出来の悪い俺が公爵になったおかげで……俺は、キアラちゃんに出会えたんだから!」
フローリスの声には、一切の迷いも淀みもない。
「もし、兄貴がそのまま真面目にヴェイン家の跡継ぎとして残ってたら? ヴェイン公爵家とモーランド公爵家の同盟のための政略結婚は、俺じゃなくて、次期当主である兄貴とキアラちゃんの間で結ばれていたかもしれないでしょ?」
そう口にした瞬間、フローリスの瞳の奥に、ぞっとするような昏い光が宿った。
「……キアラちゃんが、俺以外の男の妻になるなんて。キアラちゃんに触れて、あの笑顔を独り占めできるのが、俺以外の男だったかもしれないなんて……そんなの、想像しただけで世界を滅ぼしたくなるくらいゾッとするよ」
「お、おい、フローリス……」
「だからね、俺に公爵の座を押し付けてくれて、本当にありがとう、父さん。俺をキアラちゃんの夫にしてくれて、本当に感謝してる。公爵の仕事なんて、キアラちゃんを幸せにするためならいくらでもやってやるさ。俺が持つすべての力と魔力は、彼女を守り、彼女の笑顔を見るためにあるんだから」
あまりにも重く、狂気すら孕んだ溺愛っぷりに、先代公爵は言葉を失い、若干引き気味に頷くしかなかった。
「お、おう……そうか。お前がそこまで言うのなら……」
父親としては、息子の愛が少しばかり(いや、かなり)重すぎることに一抹の不安を覚えつつも。
かつて運命を呪い、すべてに反発していた放蕩息子が、自分の置かれた立場を受け入れ、伴侶を得たことに心から感謝している様子に、親としての安堵も確かに感じていた。
結果はどうあれ、彼は立派に当主としての自覚を持ち、愛する者のために生きる強さを身につけたのだ。
「ところで、姉さんは元気にしてる? 嫁ぎ先で上手くやってるのかな」
空気を変えるように、フローリスがカップに残っていたすっかり冷めた紅茶を飲み干しながら尋ねた。
フローリスの姉は、彼とは違い昔からしっかり者で、フラフラと遊び歩く弟の素行をよく叱っていたものだ。
先代公爵は表情を和らげ、頷いた。
「ああ、お前の姉も息災だ。先日手紙が届いたが、あちらの侯爵家でも元気にやっているそうだよ。夫君とも仲睦まじく、領地の婦人たちのまとめ役として忙しくしているらしい。……たまには、お前からも手紙を出してやれ。昔はあれほどお前の素行を心配して、口うるさく小言を言っていたのだからな」
「あはは、確かに。姉さんにはよく怒られたなぁ。うん、わかったよ。キアラちゃんが選んでくれた美味しいお茶菓子でも一緒に添えて、近況報告を送っておく」
言いながら、フローリスは懐中時計を取り出した。
針が示す時刻を見た瞬間、彼の顔色が変わる。
「あっ! やばい、もうこんな時間! それじゃ、俺はこれで帰るね!」
フローリスは弾かれたように椅子から立ち上がった。
「あんまり遅くなると、キアラちゃんが俺の帰りを待ちわびて寂しがっちゃうから! 俺がいない間、寂しくて泣いてるかもしれないし!」
「……いや、キアラ殿が寂しがるというより、お前自身がキアラ殿のいない時間に耐えられないだけだろう」
「あはは、バレた? 正解! もうキアラちゃん成分が切れて倒れそう! じゃあね、父さん! 母さんにもよろしく言っといて!」
言うが早いか、フローリスの足元に風の魔法陣が展開された。
常人には到底扱えないような高度な術式を無詠唱で発動させると、彼は風のように身を翻し、テラスから飛び出していった。
愛する妻が待つ王都の本邸へと、文字通り飛ぶような速さで帰っていくその背中は、公爵としての威厳よりも、ただただ恋人に会いたくてたまらない青年のように軽やかだった。
テラスにポツンと取り残された先代公爵は、嵐が去った後のような静寂の中、すっかり冷めきった紅茶のカップを手に取った。
「……やれやれ。嵐のような奴だ」
先代公爵はゆっくりと紅茶をすすり、遠ざかっていく息子の気配の方角へ目を向けた。
「しかし、あの我が儘で手のつけられなかった放蕩息子を、あそこまで完全に手懐け、公爵としての仕事まで真面目にこなさせるようになるとは……。モーランド公爵家の令嬢というのは、よほど恐ろしく、そして底知れぬ手腕を持つ女傑なのだろうな。今度会う時は、粗相のないようにせねばなるまい」
隠居の身である先代公爵は、会ったこともない息子の妻に対し、一人静かに見当違いの畏怖と感心を深めるのであった。
(実際には、キアラ本人はフローリスの重すぎる愛情を「遊び人の暇つぶしだ」「義務感で構われているだけだ」と信じて疑わず、日々見事なまでのすれ違いを続けているのだが。のどかな別荘で暮らす先代公爵が、そのポンコツな真実を知る由もないのであった)
また明日の20時に投稿予定です!




