試用期間
金曜のパーティの前に、「顔合わせ」があった。蛭田と、その上役だという男・貴島。ホテルのラウンジで茶を飲むだけ、という触れ込みだった。
触れ込み通りだったのは、最初の二十分だけだ。
貴島は五十がらみの、爪の手入れだけ完璧な男だった。話の中身は空疎な業界自慢。だがテーブルの下で、奴の膝が、俺の膝に触れる位置まで詰めてきていた。俺は茶を取る動作で足を組み替え、距離を作った。三分後、また詰まる。また外す。水面下で、無言の陣取り合戦が続いた。
三十四年の刑事人生で、こんな張り込みは初めてだった。
「アヤちゃんはさ、彼氏いないの」
「いません」
「そっかそっか。じゃあ今夜、このあと空いてる? 上の階、部屋取ってあるんだよね」
直球が来た。断り方は訓練済みだ。角を立てず、しかし脈も残さず──のはずだったが、貴島は俺の返事を待たなかった。伝票を掴んで立ち上がり、俺の手首を、自然な動作で掴んだのだ。
「いいからいいから。三十分だけ。ね」
引かれる。力は、思ったより強い。この身体は、俺の三十四年が知っている「振りほどける腕力」を持っていない。それを、掴まれた瞬間に思い知った。頭の芯が冷えた。十四人は、こうやって消えたのか。
──だが、腕力がないなら、ないなりの武器がある。
俺はその場で膝から崩れた。貴島の腕にぶら下がる形で、床にへたり込む。
「……すみません、貧血で……病院、行かないと……吐きそう」
吐きそう、の一言は魔法の言葉だ。高い靴と高いスーツの男は、吐かれることを何より恐れる。貴島は火傷したように手を離した。ラウンジの店員が駆け寄ってくる。人目ができれば、こちらのものだ。
タクシーで撤収しながら、俺はイヤホンの向こうの小田切に報告した。
「──ああ、無事だ。手首の痕は……残ってるが、装備の内だろう」
『よくありません』
小田切の声は、聞いたことのない低さだった。
『真壁さん。手首を掴まれてから崩れるまで、四秒ありました。次は二秒で崩れてください。四秒あれば、部屋まで運ばれます』
その夜、セーフハウスの風呂で、手首の赤い痕を湯に沈めながら、俺は初めて実感していた。俺が三十四年間「事件」として書類で読んできたものは、こういう四秒の集積だったのだ。
お読みいただきありがとうございます。本作は全10話・毎日21時更新で完結まで走ります。
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