女になる訓練
囮訓練の教官は、小田切京花巡査、二十九歳。本件で唯一、俺の正体を知る連絡役だった。
初日、彼女はセーフハウスに段ボールを三箱運び込み、中身をベッドにぶちまけた。服、靴、化粧品、そして下着。俺は反射的に目を逸らした。
「目を逸らさない。今日からこれが真壁さんの……氷見アヤの装備品です。装備の扱いを知らない捜査官は死にます」
正論だった。正論だったが、五十八年間縁のなかった品々を「装備」と言い切られると、脳の処理が追いつかない。
訓練は容赦がなかった。歩き方。俺の歩幅は「機動隊です」と一蹴され、椅子の座り方は「取調室の刑事です」と駄目を出され、鏡の前で何百回もやり直した。ブラジャーのホックは三日目まで敵だった。ようやく着け方を覚えた日、小田切は俺の背中を見て真顔で言った。
「サイズが合ってません。測り直します」
「……必要か、それは」
「はみ出してます。囮が衣装で違和感を出したら終わりです。腕を上げて」
メジャーを持った部下に採寸される五十八歳の刑事。屈辱というより、もはや研修だった。俺は無になった。三十四年の張り込みで会得した無だ。
最終週、囮用の「戦闘服」が支給された。膝上のワンピース、肩の出るブラウス、丈の怪しいスカート。着て歩くと、脚と肩に外気が直接触れる。防御力ゼロの装備で敵陣に出ろというのか。
「真壁さん、こっちを見てください。──よし。仕上げに笑顔。金に困ってるけど、まだ世間を信じてる二十五歳の笑顔」
鏡の中で、目つきの悪い美人が、ぎこちなく笑った。小田切は五秒見つめて、ため息をついた。
「……笑うと、余計に強盗の下見みたいになりますね。無表情でいきましょう。クールな美人で通します」
かくして囮捜査官・氷見アヤの人物設定は「無口でクールな金欠美女」に決まった。俺の三十四年は、笑顔の一つも作れない顔を残しただけだった。
その夜、SNSに氷見アヤのアカウントが開設された。夜景の写真、安い居酒屋の写真、そして「もっと稼げる仕事ないかな」の一文。
餌は、撒かれた。
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