失踪者候補
定年まで、あと九十二日だった。
三十四年、現場を這いずり回った刑事の最後の九十二日なんてものは、書類の整理と、送別会の日程調整で消えていくはずだった。少なくとも、参事官室に呼び出されるまでは、そう思っていた。
参事官室には、三人いた。参事官と、警察庁から来たという肩書の長い男と、そして場違いに愛想のいい、白衣の女。白衣の胸元には『アルテミス医科学』とあった。聞いたことのない社名だった。
「真壁部長。単刀直入に言う。極秘任務だ」
参事官が滑らせてきたファイルを、俺は開いた。
女の顔写真が、十四枚並んでいた。全員二十代。全員、行方不明。期間は二年。共通項はただ一つ──失踪直前、SNS経由で「高収入パーティバイト」に応募していること。
「……継続捜査中の連続失踪。生安と一課の合同案件でしょう。なぜ俺に」
「内偵が二度、潰れた」
参事官の声が一段落ちた。
「女性捜査官を二名、応募者として接触させた。二名とも接触の直後、組織側が店も人員も丸ごと消した。手際が良すぎる。──漏れてるんだ、真壁。うちの中から」
部屋の空気が、張り込みの深夜三時の匂いになった。内通者。刑事が一番口にしたくない言葉だ。
「そこで、だ。名簿に存在しない捜査官が要る。警察のどの書類にも、共済にも、データベースにも載っていない人間。──真壁、お前は今日付で依願退職する。三日後、病死する。戸籍ごと消える」
「……は?」
「そして、こちらのアルテミス医科学の施術で、新しい身体と戸籍をもらう。二十五歳の、女のだ」
俺は、参事官の顔を三秒見て、警察庁の男の顔を三秒見て、白衣の女がにこにこしているのを三秒見た。誰も冗談を言っている顔をしていなかった。三十四年の経験が告げていた。これは本気の目だ。
「お断りします」
俺は即答した。「若いのを使ってください。俺は定年まで九十二日の爺です。囮なら、それらしい適性のある者が」
「適性はある。むしろお前しかいない」白衣の女が初めて口を開いた。「適合率九十四パーセント。この数値は稀です。それに──独身、ご家族なし、退職間際。"消えて"も、悲しむ方の少ない方が条件なんです」
悲しむ方の少ない方。ずいぶんな言われようだが、事実なので腹も立たなかった。それでも俺は首を縦に振らなかった。刑事の身体は、道具だ。だが道具にも、三十四年の型がある。今さら作り替えてどうする。
席を立ちかけた俺に、参事官が最後の一枚を滑らせた。
「十五人目だ。四日前に消えた」
写真を見て、俺の足は止まった。
美原ひかり。二十五歳。──知っている顔だった。二十年近く前、交番勤務の頃、団地の階段で膝を抱えていた小学生だ。親父が酒で暴れる家だった。俺は何度もあの子を交番で預かって、ノートの漢字の宿題を見てやった。字が綺麗だと褒めたら、次の週、もっと綺麗な字を見せに来た。数年前、街で偶然会ったときは、事務の仕事に就いたと笑っていた。真壁さんのおかげで曲がらずに済んだと、生意気なことを言った。
その字の綺麗な子が、十五枚目の写真になっていた。
「……最後の目撃は」
「新宿。パーティバイトの"面接"に向かう姿がカメラに残ってる。以後、携帯も金の動きも死んでる」
俺は立ったまま、しばらくファイルを見下ろしていた。それから椅子に座り直した。三十四年でいちばん重い着席だった。
「──施術とやらの説明を、最初から頼みます」
*
施術は三日間の昏睡を伴った。目が覚めたとき、真壁鉄雄は書類の上で死んでいて、ベッドの上には知らない女がいた。
病室の鏡の前に立つ。二十五歳の女が、こちらを見返してくる。白い肌、細い首、束ねれば背の中ほどまである黒髪。造作は、控えめに言って人目を引く部類なのだろう。ただ、目だけが違った。二十五歳の顔の中で、目つきだけが、三十四年間現場を見てきた男のままだった。
「眼光までは、施術で消せませんでした」白衣の女が申し訳なさそうに言った。「まあ……"目の力が強い美人"で通ると思います」
通るのか、それで。
参事官が病室に入ってきて、新しい身分証を寄越した。氷見アヤ、二十五歳、無職。家族なし、SNSは「高収入バイト」への憧れを匂わせる投稿が仕込み済み。
「囮の条件は揃ってる。若い、身寄りがない、金に困ってる、そして──人目を引く。連中が好んで攫う型に、寸分違わず合わせてある」
参事官は、鏡の中の俺を見て、静かに言った。
「今日からお前は、捜査官じゃない。──失踪者候補だ」
定年まで、九十二日。
俺は俺を殺して、餌になった。食いついてくるのは、十五人を消した化け物だ。
──上等だ。三十四年、待ち伏せだけは誰よりうまかった。
お読みいただきありがとうございます。本作は全10話・毎日21時更新で完結まで走ります。
続きが気になりましたら、ブックマークをお願いします。☆評価もワンタップでいただけると、大きな励みになります。




