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婚約破棄された悪役令嬢は、白銀の大公に最愛を捧げられる  作者: ごゅみ
第一部 婚約破棄

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第三話 ヴィクトル・アシュベル①

王宮の南庭で隣国語の発音を直した日から、エレオノーラの机の上には、母の国の言葉で書かれた薄い教本と、王宮の庭に植えられている花の名前を写した紙が置かれるようになった。最初は、次にアレクシスに尋ねられたとき、もう少し落ち着いて答えられるようにというだけのつもりだった。けれど、王宮からの招きが二度、三度と重なり、そのたびにアレクシスが彼女の覚えてきたことを面白がり、知らなかったことを知るたびに目を輝かせるものだから、いつの間にかエレオノーラは、自分の勉強机に向かう時間の中で、これは自分のために覚えていることなのか、それとも殿下のために覚えていることなのかを分けられなくなっていた。


分けられないことを、悪いとは思わなかった。七歳の彼女にとって、誰かの役に立てるというのは、ただ自分の中に灯りがともるようなものだった。王太子殿下が知らないことを、自分が知っている。けれどそれは、彼を見下ろすための知識ではない。彼が困ったときにそっと差し出せるものだ。アレクシスが礼法の順番を忘れかけたとき、エレオノーラが視線だけで次の動きを示すと、彼は少しだけ肩の力を抜く。隣国の使者の名をうまく発音できなかったとき、彼女が母から教わった音をゆっくり分けて言うと、彼は同じように繰り返して笑う。その笑顔を見ていると、彼女が朝早くから書き写した花の名も、夜に眠気をこらえながら読んだ文字も、全部がそこで報われるような気がした。


セシリアは、そうした娘の変化を止めはしなかった。ただ、夜に燭台の火を増やそうとするエレオノーラの手が、ほんの少し急いでいるときには、そっと本の端を押さえた。


「今日はここまでになさい」


「でも、次に殿下がまたお尋ねになったら」


「次にお尋ねになったとき、知らないことがあってもよいのです。あなたは殿下の書庫ではありません」


母の声は叱るほど強くなかった。けれど、静かな言葉ほど胸に残ることがある。エレオノーラは教本の頁に指を置いたまま、母の顔を見上げた。セシリアは笑っていなかったが、怖い顔でもなかった。心配しているときの母は、いつも少しだけ遠くを見ているような目をする。今見ている娘の顔だけではなく、その先に続くものまで見ようとしている目だった。


「殿下のお役に立てるのは、よいことではありませんか」


「よいことです。けれど、よいことだからこそ、あなたが息を止めてまで続けるものではありません」


息を止めているつもりはなかった。エレオノーラはそう言いかけたが、言葉にする前に、手元の教本を見た。隣国語の文字が細かく並び、蝋燭の光で少し滲んでいる。読み始めたときには楽しかったはずなのに、いつの間にか、次に間違えてはいけないという気持ちが頁の上に重なっていた。アレクシスが困ったときに助けられなかったら、彼はがっかりするだろうか。君がいてくれると助かる、と言った声は変わってしまうだろうか。そう思うと、もう一行だけ、もうひとつだけ、と指が文字を追い続けてしまう。


「息を止めているように、見えますか」


「少しだけ」


母はそう答え、エレオノーラの髪に触れた。夜のためにほどかれた灰金の髪は、昼間に結い上げられていた跡をまだ淡く残して、肩のあたりで柔らかく波打っている。幼いころの髪は光に透けやすく、暖炉の火を受けると金よりも白く、月の光を受けると銀よりも柔らかく見えた。セシリアはその髪を手のひらに少しだけ乗せ、まるで壊れものを確かめるように指を滑らせた。


「あなたは、きちんとしようとすると、顔まで静かになるのです」


「静かな顔は、よくないですか」


「よくないわけではありません。ただ、あなたはとても整った顔立ちをしているから、黙っていると、まだ幼いのに近寄りがたいほど大人びて見えることがあります」


エレオノーラは、思わず鏡のほうを見た。夜の硝子には暖炉の火が映っていて、自分の顔ははっきり見えない。けれど、母の言葉を聞いたあとでは、王宮で女官たちが自分を見る目や、貴族の夫人たちが褒める前に一瞬だけ言葉を選ぶ気配が思い出された。可愛らしいという言葉より、立派ですね、よくお出来になりますね、という言葉を向けられることが多い。子どもとして抱き寄せられるより、王太子の婚約者として眺められることが増えている。自分の顔がそうさせているのだと言われても、まだよく分からなかった。ただ、髪を結い上げ、礼装を着せられ、背筋を伸ばして王宮の廊下を歩くとき、周囲の目が自分に触れてすぐ離れることは知っていた。


「わたくしは、怖い顔をしているのでしょうか」


「怖いのではありません。美しいのです」


母は、とても自然に言った。エレオノーラはそれを聞いて、耳のあたりが熱くなるのを感じた。家族に褒められることはあったが、美しいと言われることにはまだ慣れていなかった。まして母の声でそう言われると、衣装や礼法を褒められるのとは違い、自分自身を見られたようで、どう返せばよいのか分からなくなる。


「けれど、その美しさは、あなたを黙らせるためのものではありません。誰かに見られるためだけのものでもありません。あなたの顔も、あなたの声も、あなたの考えも、全部あなたのものです」


母の言葉は、暖炉の火よりゆっくり届いた。エレオノーラは本を閉じた。もう少し読みたい気持ちはあったが、母がこういう言い方をするときは、それ以上続けてはいけないのだと分かっていた。セシリアは燭台の火を少し落とし、寝台へ入るよう促した。エレオノーラは母に手を引かれながら、王宮でアレクシスが自分を見て笑う顔を思い出した。彼は彼女の美しさを褒めたことはまだなかった。名前がきれいだとは言った。教えるのが上手いとも言った。君がいてくれると助かる、とも言った。それらはどれも嬉しかった。けれど母が言った美しいという言葉だけは、そのどれとも違う場所に置かれ、エレオノーラはその夜、眠る直前まで、自分の顔も声も考えも自分のものなのだという言葉を、何度も静かに思い返した。


それからしばらくして、王宮で小さな式典が行われることになった。北方大公家の一行が王都へ参内し、国境防衛に関する報告と、王家への新たな誓約を述べるためのものだと、父は説明した。式典といっても、国中の貴族を集める大祝宴ではない。国王夫妻、王太子、主要な大貴族、そして王宮に仕える高官たちが列席する、限られた場での儀礼だった。けれど、限られているからこそ、席次や言葉の順番、礼の角度には大きな意味がある。ヴァルクレスト公爵家も出席することになり、エレオノーラは王太子の婚約者として、アレクシスの近くに立つことを許された。


許された、と父は言った。招かれた、ではない。その違いをエレオノーラはすぐには理解できなかったが、祖母は支度の前に教えた。


「王宮において、王太子殿下の近くに立つことは、好意だけで許されるものではありません。あなたがそこに立つということは、王家がヴァルクレスト公爵家をその距離に置くと示すことです。もちろん、まだあなたは幼い。けれど、幼いから意味が軽くなるわけではありません」


また幼いと言われた。けれど、その言葉はエレオノーラを軽んじるためではなく、幼い者が重い場所へ立つときに、周りの大人たちが何を見ているのかを知らせるためのものだった。彼女は祖母の前で礼をとり、式典での動きを何度も確かめた。アレクシスは、北方大公家の名を読み上げるとき、家名の発音を間違えないよう練習しているという。北方の古い家名には、王都の言葉にはない響きが残っている。王妃からの使いを通じて、エレオノーラにもその発音を一緒に確認してほしいと伝えられた。


「殿下が、わたくしに」


「王妃殿下からのお言葉だ」


父は書状を閉じながら答えた。オルドリックの表情はいつも通り硬かったが、娘を見下ろす目にはわずかな注意があった。エレオノーラが喜ぶことを、父はもう知っているのだろう。けれど、喜びすぎることを見逃すつもりもないのだと思った。


「エレオノーラ」


「はい、お父様」


「殿下を助けることは、務めの一つになるだろう。だが、お前が代わりに立つわけではない。殿下が読むべき言葉は、殿下が読まねばならない。お前はその準備を手伝うだけだ」


お前、と呼ばれた声は厳しかったが、不思議と嫌ではなかった。父が家の者や客人の前で娘の名を呼ぶときとは違う。父として、少し踏み込んでくる言葉だった。エレオノーラはそれを受け止め、頷いた。


「心得ております」


そう答えながら、彼女は本当に心得ているのだろうかと自分に問うた。アレクシスが困っていると、手を伸ばしたくなる。彼が笑うと、もっと助けたくなる。父が言う、代わりに立つわけではない、という言葉の意味は分かる。けれど、いざ彼が言葉に詰まったとき、自分の喉の奥から先に答えが出そうになるのを止められるだろうか。エレオノーラはそう考え、父の前で手を握りかけたが、握る前に指をほどいた。見られている気がしたからではない。自分で気づきたかったからだった。

今日はもう1話更新出来そうです

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