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婚約破棄された悪役令嬢は、白銀の大公に最愛を捧げられる  作者: ごゅみ
第一部 婚約破棄

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第三話 ヴィクトル・アシュベル②

式典の三日前、王宮へ上がったエレオノーラは、王妃の小書斎でアレクシスと並んで発音の確認をした。小書斎といっても、公爵家の大きな客間ほどの広さがあり、壁には地図と古い誓約書の写しが掛けられている。王妃は窓際の椅子で刺繍を手にしながら二人を見守り、女官が少し離れた場所に控えていた。アレクシスは書板に書かれた北方大公家の名を見て、眉を寄せていた。


「アシュベル、なら簡単なのに、古い称号がつくと急に難しくなる」


「北方の古語に近い響きだと、母が申しておりました」


「君の母上は、何でも知っているな」


「何でもではございません」


「では、君が何でも知っている」


「わたくしも、何でもは知りません」


「でも、僕が困ることはだいたい知っている」


アレクシスは悪気なく言った。エレオノーラは書板を見ていた目を少し上げた。彼は笑っていた。彼女を褒めているつもりなのだ。困ったときに助けてくれる相手がいることを、嬉しいこととして言っている。それは分かる。分かるのに、父の声が胸の奥で小さく戻ってきた。お前が代わりに立つわけではない。殿下が読むべき言葉は、殿下が読まねばならない。


「殿下が、覚えておかれるほうがよいと思います」


エレオノーラは、できるだけ穏やかに言った。アレクシスはきょとんとした。


「だから、君に聞いている」


「はい。ですから、今ここで覚えられるように、何度かご一緒に」


「本番で間違えそうになったら、君が見ていてくれるだろう」


彼は軽く言った。その瞬間、エレオノーラは返事に迷った。見ていることはできる。合図を送ることもできるかもしれない。けれど、本番で彼女が口を出すことはできない。王太子が読むべき言葉を、公爵令嬢が代わりに補うようなことになれば、それは彼自身のためにもよくない。そう思うのに、アレクシスの顔はあまりに明るく、彼女を信じている様子だったので、真正面から否定する言葉がすぐには出なかった。


王妃の針が布を通る音が、かすかに聞こえた。エレオノーラはその音で、自分が黙りすぎていたことに気づいた。


「殿下がご自身で読めるように、わたくしも見ております」


妥協した言い方になった。アレクシスは満足したように頷き、また書板へ目を落とした。王妃は何も言わなかった。けれど、刺繍をする手がほんの少しだけ止まっていたことを、エレオノーラは見落とさなかった。その沈黙が何を意味しているのかまでは分からない。王妃は息子を案じたのかもしれないし、エレオノーラの答えを聞いていたのかもしれない。ただ、その場に置かれた小さな歪みは、誰かが声にしないかぎり、静かな布の下へ隠れてしまうものなのだと、彼女はぼんやり感じた。


式典の日、エレオノーラの支度は朝から始まった。ナディアはいつもより慎重に髪を梳き、衣装係は深い青に銀糸を重ねた礼装を広げた。白薔薇の間で初めて王太子に引き合わされた日の白とは違う。南庭の若葉色とも違う。青はヴァルクレスト家に伝わる色のひとつで、光の当たり方によって夜明け前の空のようにも、湖の底のようにも見える。まだ七歳の身体に着せるには少し大人びていたが、王太子の近くに立つ公爵令嬢としては過不足がないと、祖母が選んだ。


鏡の前に座るエレオノーラの髪は、いつもより高く結い上げられた。灰金の髪に銀の細いリボンが編み込まれ、耳元には小さな青い宝石が揺れる。幼い顔立ちを飾りで覆いすぎないように、ナディアは何度も位置を確かめた。頬にはまだ子どもらしい柔らかさがある。けれど、青い礼装が首元を包み、髪が額からすっきりと上げられると、鏡の中の少女は、ただ可愛らしいだけではなかった。


長い睫毛の影が青灰色の瞳に落ち、光を受けるたびにその瞳は水晶の奥に霧を含んだように澄んだ。小さな鼻梁はまだ成長の途中でありながらすでに形よく、唇は何かを言いかけてもすぐに選び直す癖のせいで、いつも少し静かに結ばれている。肌は白く、朝の光が触れると、陶器よりも柔らかく、花びらよりも淡い血色を返した。幼い美しさだった。けれど、気安く頬をつついて笑うような愛らしさではない。手を伸ばす前に、自分の指が触れてよいものかを考えさせる、整いすぎた美しさだった。


衣装係の侍女が、ほんのわずかに手を止めた。すぐに動きを戻したが、ナディアはその一瞬を見た。エレオノーラ自身も、鏡越しに気づいた。美しい、と誰かが言ったわけではない。けれど、言葉が出る前に息を整える気配が部屋に生まれた。幼い主人を値踏みするように聞こえてはいけない。公爵家の娘を飾り物のように扱ってはいけない。そうした遠慮が、侍女たちの沈黙の中にあった。


「お嬢様」


ナディアが、最後に手袋を差し出した。


「苦しくはございませんか」


エレオノーラは鏡の中の自分から目を離し、手袋へ指を入れた。布は柔らかく、手首の締めつけもない。


「大丈夫です。今日は、息ができます」


そう答えると、ナディアは一瞬だけ目を細めた。笑ったと言うには控えめだったが、彼女が安心したことは分かった。エレオノーラは立ち上がり、スカートの裾が整えられるのを待った。鏡の中で青い礼装が静かに広がる。自分が美しいのだと母は言った。美しさは自分を黙らせるものではないとも言った。けれど今日のように人々の前に立つ日は、その美しさも家の名と一緒に扱われるのだろう。そう思うと少し怖かったが、彼女は怖いという言葉を急いで退けず、そのまま胸の中に置いた。


王宮の儀礼の間は、高い窓から斜めに光が入り、壁に掛けられた旗の刺繍を鈍く輝かせていた。王家の旗、古い盟約を示す旗、北方の山と星を縫い取ったアシュベル家の旗。広間の床は磨かれていて、人が歩くたびに衣の裾がかすかに映る。エレオノーラは母と父に伴われて入り、決められた席の近くで礼をとった。いつもの茶会とは違い、そこには多くの目があった。大貴族たちの目、廷臣たちの目、王宮の女官や侍従の目。彼らはアレクシスを見るだけでなく、その近くに立つ小さな婚約者にも目を向けた。


視線が触れるたびに、エレオノーラは背筋を伸ばした。伸ばしすぎてはいけない。肩に力が入れば、祖母にあとで指摘される。けれど、力を抜きすぎてもいけない。王太子の近くに立つ者として、だらしなく見えることは許されない。そんなことを考えていると、アレクシスが少し離れた場所から彼女を見つけ、小さく笑った。彼は今日、白と金を基調にした礼服を着ていた。金の髪は王宮の光をよく拾い、晴れた空のような青い瞳は、緊張の中でも人目を惹く。彼は華やかな少年だった。整った顔立ちそのものも美しかったが、それ以上に、笑った瞬間に周囲の空気まで明るくしてしまう力があった。


エレオノーラは、その明るさに少しだけ安心した。彼が笑うと、自分も落ち着く。けれど同時に、彼が袖口の飾りに指を触れているのに気づいた。緊張しているときの癖だ。彼はまだ北方大公家の古い称号を不安に思っているのだろう。エレオノーラは、自分の唇が動かないように気をつけながら、視線で書板に書いた音の区切りを思い出した。今ここで何かを言うことはできない。彼が読むのだ。父の言葉を胸の中で繰り返す。殿下が読むべき言葉は、殿下が読まねばならない。


式典が始まると、広間のざわめきは薄くなった。国王が言葉を述べ、北方の防衛と王国の安寧について触れたあと、アシュベル家の一行が進み出る。先頭に立つ大公は、王都の貴族たちとは異なる硬さをまとっていた。豪奢ではあるが過剰ではない礼服、雪と星を象った徽章、そして王に対する礼の中にも失われない家の誇り。その後ろに、まだ少年の姿があった。


エレオノーラは、その少年を見た瞬間、広間の光が少し変わったように感じた。


ヴィクトル・アシュベル。北方大公家の嫡男。十三歳だと、事前に父から聞いていた。アレクシスより年上で、すでに北方の儀礼にも出るようになっていると。けれど、聞いていた年齢と、目の前に立つ姿はうまく結びつかなかった。彼はたしかに少年だった。大人の男ほど背が高いわけではなく、頬や輪郭にもまだ成長の途中の余白がある。けれど、その美しさは、年若さを理由に軽く見られるものではなかった。


白銀の髪は、王宮の陽を受けても金色には寄らず、雪原に落ちた朝の光のように静かに艶めいていた。額から流れる髪の線は乱れず、長い睫毛の下にある氷青の瞳は、周囲のざわめきや視線を少しも急がせない。高い鼻梁、薄く整った唇、まだ少年らしさを残しながらも崩れのない輪郭。その顔立ちは、ただ美しいだけではなく、見る者に不用意な言葉を許さない冷ややかな品格を持っていた。アレクシスの美しさが春の光のように人を近づけるものなら、ヴィクトルの美しさは、冬の朝に抜かれた剣のようだった。冴えて、静かで、触れれば指先のほうが傷つきそうなのに、目を逸らせない。


広間の何人かが、ほんの一瞬、息を呑んだのが分かった。王都の貴婦人たちは、北方大公家の若君は人目を引くと噂していたのかもしれない。けれど、実際に王宮の光の中へ立つと、その噂は少し軽すぎるように思えた。十三歳の少年に対して、美しいという言葉を大人の男へ向けるのと同じ重さで使うのは不思議だったが、ほかの言葉では足りなかった。


ヴィクトルは、王へ礼をとったあと、ほんのわずかに顔を上げた。その視線が一度、広間を渡る。誰かに媚びるものでも、誇示するものでもない。ただ、そこにいる者たちの位置と空気を静かに測るような目だった。その目が、アレクシスの近くに立つエレオノーラを一瞬捉えた。見られた、と彼女は思った。けれど、これまで王宮で向けられてきた視線とは違った。美しい礼装の公爵令嬢を見る目でも、王太子の婚約者として値踏みする目でもない。彼女がそこにどのように立っているか、その立ち方そのものを見る目だった。


エレオノーラは、無意識に指をそろえた。

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