第二話 君がいてくれると助かる①
王宮から戻った日の夜に見た白薔薇の間は、眠りに落ちたあとも、エレオノーラの中でしばらく光を失わなかった。夢というほど形を持つものではなく、瞼の裏に淡い金糸の絨毯が浮かび、王妃の胸元の白い薔薇が揺れ、アレクシスが砂糖菓子を半分に割った指先だけが、ほかの何よりもはっきり残っている。朝になると、侍女が寝室の帳を開ける音で目を覚ましたが、目覚めた瞬間にも、彼が言った約束だ、という声がまだ耳の奥にあった。声そのものは遠くなっているのに、その言葉を思い出すと胸の奥が少し温かくなり、同時に、温かくなる自分を誰かに見られてはいけないような気がして、エレオノーラは寝台の中でそっと指を曲げた。
手袋の跡は、薄くなっていた。赤かったところはもうほとんど消えている。それなのに、昨日そこに跡があったことを指が覚えているようで、布団の下で手を握ると、王宮の廊下の白い石や、母の手の温かさや、父の低い声まで一緒に戻ってきた。困ったと言ってよいのですよ、と母は言った。助けることに慣れすぎて、相手が自分で立つ機会まで奪ってはならない、と父は言った。支えることと消えることは違う、と祖母は言った。どれも大事な言葉なのだと分かる。けれど、大事な言葉ほど、すぐには自分の中で場所が決まらなかった。三つの言葉は、エレオノーラの胸の中で、それぞれ別の重さを持ったまま置かれていた。
その朝も、屋敷はいつも通りに動き出した。寝室の扉が叩かれ、ナディアが湯を運び、髪を梳き、淡い青の朝のドレスを用意する。昨日の白い礼装とは違い、袖口の刺繍も控えめで、リボンも柔らかい。けれど、その柔らかさを身につけても、エレオノーラはもう昨日までとまったく同じ子どもに戻れたわけではなかった。廊下で会う使用人たちの礼は、昨日より深くなりすぎないように整えられていたが、それでも彼らの目が、昨日王宮へ上がったお嬢様を見る目になっていることは分かった。誰も何も言わない。言わないからこそ、その沈黙の中に、これから家の中で自分を見る視線が少しずつ変わっていくのだという気配があった。
母の私室で朝食を取るときも、セシリアは無理に王宮の話をさせなかった。果物の皿を少し手元へ寄せ、エレオノーラが自分で食べられる分を選ぶのを待ってくれる。昨日、あまり食べられなかったことを覚えているのだろう。母はそういうことを、言葉にしないまま覚えていてくれる人だった。エレオノーラは小さく切られた梨をひとつ口に運び、その甘さが舌に広がるのを感じながら、砂糖菓子の味を思い出した。王宮の菓子はもっとさらりと崩れる甘さだった。アレクシスが半分に割ったとき、少しだけ粉が落ちた。その粉を気にして、女官が指先だけを動かしたことまで思い出す。
「また、王宮へ参りますか」
問いは、考えてから出したつもりだった。けれど、言葉にしたあとで、母がカップを持つ手をわずかに止めたのを見て、自分が思っていたよりも早くそのことを知りたがっていたのだと気づいた。セシリアはすぐに答えなかった。窓の外では、温室へ向かう庭師が鉢を運んでいる。朝の光が硝子に当たり、部屋の中に薄く反射していた。
「いずれ、またお招きがあるでしょう」
「いずれ、というのは、すぐではないのですか」
「王宮にも、公爵家にも、整えなければならないことがあります。大人たちが決めることもありますし、あなたと殿下がお会いする場所や時間も、きちんと選ばれます。婚約者同士になるからといって、好きなときに好きなように会うわけではありません」
母の声はやわらかかったが、その言葉の中には王宮の廊下のような決まりがあった。エレオノーラは頷いた。好きなときに好きなように会うわけではない。それは当然のことなのだろう。王太子と公爵令嬢である自分たちは、庭で遊ぶ子ども同士ではない。そう思うと、昨日の小さな卓で交わした約束が、急に頼りないものに思えた。彼は次に庭で話そうと言った。自分もそう返した。けれど、その庭へ行くには、王妃の許しや、父の予定や、王宮の侍従の案内や、侍女の支度や、馬車の手配が必要になる。約束とは、言うだけではそこへ辿り着けないものなのだと、エレオノーラは初めて知った。
「殿下は、覚えていらっしゃるでしょうか」
声が少し小さくなった。言ってから、そんなことを心配している自分が恥ずかしくなる。王太子殿下は多くのことを覚えなければならない。自分と交わした庭の約束だけを大切にしているわけではない。そう思うのに、母の前ではその不安がこぼれてしまった。
セシリアは、娘の顔をしばらく見てから、静かに微笑んだ。
「覚えていらっしゃるかもしれませんし、忘れてしまわれるかもしれません」
あまりにも正直な答えだったので、エレオノーラは一瞬、何と言えばよいか分からなかった。母は慰めるために、きっと覚えていますよ、とは言わなかった。その代わり、カップを置き、エレオノーラの手元へ視線を落とした。
「けれど、エレオノーラ。誰かが忘れたからといって、あなたが覚えていたことまで無意味になるわけではありません。あなたが大切に覚えていたいなら、覚えていてよいのです」
その言葉は、王宮へ行く前に聞いた、困ったと言ってよいのですよ、という言葉とどこか似ていた。母はいつも、エレオノーラの中にあるものを、すぐに正したり消したりしない。怖いのか分からないと言えば、そのまま持たせてくれる。約束を覚えているか不安だと言えば、不安そのものを恥にしないでくれる。エレオノーラは、母の言葉を受け取りながら、けれど自分はたぶん、忘れられることが怖いだけではないのだと思った。自分が覚えていたものを、相手が軽く扱ったとき、どう顔を作ればよいのか分からないのだ。昨日、王宮で笑った顔を祖母に指摘されたように、嬉しいときの顔にも学ぶべき形があるなら、忘れられたときの顔にも、きっと正しい形があるのだろう。
その日から、エレオノーラは朝の勉強のあと、少しずつ王宮での作法を復習するようになった。祖母は、正式な婚約の調印までは浮かれてはならないと言い、王妃殿下の御前での礼、王太子殿下と歩くときの位置、庭で茶をいただくときに手袋を外す場合と外さない場合の違い、王族から個人的な言葉をかけられたときに、どこまで私的な返事をしてよいかを教えた。覚えることは多かった。けれど、昨日まではただ難しい決まりとして聞いていたものが、今は少しだけ形を持っていた。王宮の廊下。白薔薇の間。アレクシスの笑顔。砂糖菓子。次に庭で話せるときに、という自分の言葉。決まりは、もう紙の上のものではなく、その約束の場所へ行くための道のように思えた。
数度の手紙が王宮と公爵家の間を行き来した。エレオノーラがその中身をすべて知ることはなかったが、父の書斎に置かれた封筒の色や、家令ローレンが王宮の使者を迎えるときの足取り、母が祖母と交わす短い会話から、少しずつ物事が整えられているのを感じた。ある午後、王妃から正式な招きが届いた。白薔薇の間ではなく、王宮の南庭で、王妃同席のもと、アレクシスと茶を共にするというものだった。南庭には季節の花が植えられ、王族の子どもたちが散策する場所でもあると、母が教えてくれた。
招きが届いた日、エレオノーラはすぐに喜びを顔に出さないようにした。祖母が同じ部屋にいたからではない。アデライードは、喜ぶなと言う人ではなかった。ただ、嬉しいと思った顔を誰にどこまで見せるかは、これから学ばなければなりません、と言われたことが、まだ耳に残っていた。だからエレオノーラは、書状を読んだ母の顔を見て、父が小さく頷くのを見て、それからようやく自分の膝の上で手をそろえた。手袋はしていなかったが、指に力が入りすぎないようにする。嬉しいときほど、体が先に動くのだと、あの日、王宮で知ったばかりだった。
「お受けしてよろしいのですか」
「もちろんです」
母が言った。父も、書状を手に取って封蝋を確認しながら頷いた。
「王妃殿下のお招きだ。お前は礼に従って伺えばよい」
礼に従って伺えばよい。それは短い言葉だったが、エレオノーラには少し心強かった。自分の気持ちだけで行くのではない。王妃殿下のお招きがあり、父が受け、母が支度を整え、家がその場へ送り出す。そう考えると、胸の中の喜びが勝手に走り出さず、きちんと道の上に置かれる気がした。




