第一話 王太子の婚約者に選ばれた朝⑤
公爵家の屋敷が見えてくるころ、空は朝より高くなっていた。門の前では家令ローレンが待っており、馬車が止まると従僕たちがすばやく足台を置く。屋敷の中へ戻ると、使用人たちの空気が朝とは少し違っていた。緊張が解けたわけではない。むしろ、何かが正式に始まったことを、誰もが知っているようだった。彼らはエレオノーラを見て、いつもより深く礼をした。今朝までと同じお嬢様であるはずなのに、その礼の深さが少し変わっただけで、自分の周囲の空気まで変わったように感じる。
母の私室で遅い朝食が用意された。銀器は温められ、白い皿には小さく切った果物と柔らかなパンが載せられている。だが、エレオノーラはあまり食べられなかった。緊張が解けたせいなのか、王宮で飲んだ甘い茶のせいなのか、砂糖菓子の半分がまだ舌に残っているせいなのか、自分でもよく分からなかった。母は無理に食べさせず、温かいミルクだけを勧めた。カップを両手で持つと、手袋を外した指に陶器の温度が伝わった。その温かさでようやく、自分の手が冷えていたことを知る。
食後、祖母が部屋へ来た。彼女は王宮での出来事をすでに聞いているのだろう。エレオノーラをしばらく見てから、いつものように厳しい声で言った。
「今日の礼は悪くありませんでした」
「ありがとうございます」
「ただし、殿下に名を呼ばれたとき、少し顔が緩みました」
母が横で小さく笑った。エレオノーラは頬が熱くなるのを感じたが、祖母は責めるというより、覚えておきなさいという顔をしていた。
「人に名を呼ばれて嬉しいと思うことは、恥ではありません。けれど、嬉しいと思った顔を誰にどこまで見せるかは、これから学ばなければなりません」
「はい、お祖母様」
「あなたはこれから、多くの者に見られます。王太子殿下の婚約者として、ヴァルクレスト公爵家の娘として、いずれ王家へ入るかもしれない者として。見られることに慣れなさい。ですが、見られるためだけに生きてはなりません」
朝にも似た言葉を聞いた気がした。支えることと消えることは違う。見られるためだけに生きてはならない。祖母の言葉は難しい。けれど、難しいからこそ、きっと大事なのだろうとエレオノーラは思った。彼女はカップの中の白いミルクを見た。表面に窓の光が映り、少し揺れている。その揺れを見ながら、アレクシスの笑顔を思い出した。彼は自分の名前をきれいだと言った。約束だと言った。また会おうと言った。
その約束を守るために、自分は何をすればよいのだろう。
幼いエレオノーラは、まだ恋を知らなかった。王家と公爵家の結びつきがどれほど重いのかも、婚約者として隣に立つ年月が自分をどんなふうに変えていくのかも知らなかった。ただ、その日から自分の時間の一部が、王宮へ、アレクシスへ、まだ見たこともない未来へ向かって流れ始めたことだけは分かった。屋敷の朝に聞いていた銀盆の音も、母の指の温かさも、父の低い声も、祖母のまっすぐな言葉も、すべてがその流れの岸に並び、自分を送り出しているようだった。
夕方近くになって、ナディアが礼装を解きに来た。真珠の飾りを一つずつ外し、編み込まれた髪をほどき、白いドレスを薄紙の上へ戻していく。布から解放されると、肩が少し軽くなった。ナディアは何も言わずに温めた布で首筋を拭い、手袋の跡が残った指をそっと見た。
「赤くなっております」
言われて見ると、指の付け根に細い跡がついていた。手袋が合わなかったのではない。自分で何度も力を入れていたからだった。エレオノーラはその跡を隠すように手を握りかけたが、ナディアが軟膏を持ってきたので、そのまま手を開いた。
「痛みますか」
「いいえ」
今度は、本当に痛くはなかった。ただ、跡があることが少し不思議だった。王宮で笑ったこと、アレクシスが砂糖菓子をくれたこと、名を呼ばれたこと、約束したこと。明るい記憶ばかりを思い出そうとすればできるのに、手には緊張の跡が残っている。楽しかったはずなのに、力を入れていた。怖いだけではなかったのに、手は冷えていた。
ナディアは軟膏を指先に取り、丁寧に塗った。侍女の手は温かく、母の手とは違う。母の手が包むものなら、ナディアの手は整えるものだった。どちらも、エレオノーラがその日失くしたくない温度だった。
「ナディア」
「はい、お嬢様」
「わたくしは、今日から変わるのでしょうか」
ナディアの手が少し止まった。侍女が主人の未来について軽々しく答えることはできない。まして相手は公爵家の令嬢で、今日、王太子との婚約に向けて正式に引き合わされたばかりだ。それでもナディアは、すぐに当たり障りのない言葉で流さなかった。軟膏を塗り終え、清潔な布で指先を包みながら、低く答えた。
「お嬢様の周りは、お変わりになると思います」
「わたくしは」
「お嬢様が何をお選びになるかで、お変わりになることも、変わらずお持ちになるものも、きっとございます」
大人のような答えだった。けれど、大人たちの言葉の中で一日を過ごしたエレオノーラには、その答えが不思議と胸に残った。周りは変わる。自分も変わるかもしれない。けれど、変わらず持てるものもある。では、自分は何を持っていればよいのだろう。家の名か、礼法か、母の言葉か、父の教えか、祖母の誇りか。それとも、今日アレクシスが笑ったときに感じた、小さな温かさだろうか。
その夜、寝台に入っても、エレオノーラはすぐには眠れなかった。天蓋の布が朝と同じように揺れている。けれど朝とは違い、部屋の外には一日の終わりの音があった。廊下を歩く侍女の足音、遠くの扉が閉まる音、暖炉の火が落とされる前の小さなはぜる音。彼女は横になったまま、手袋の跡が残った指を胸の前でそっと曲げた。もう痛くはない。それでもそこに跡があったことを、体が覚えている。
王太子殿下は、明るい方だった。自分の名を呼んでくれた。砂糖菓子を半分くれた。次は庭で話そうと言ってくれた。思い出すと、胸の中が柔らかくなる。けれど同時に、父の言葉も戻ってくる。気づいたなら、助けることは悪くない。ただし、助けることに慣れすぎて、相手が自分で立つ機会まで奪ってはならない。
助けるとは、どこまでのことなのだろう。間違えた礼をそっと教えること。言葉に詰まったとき、代わりに説明すること。難しい書物を一緒に読むこと。王太子殿下が笑っていられるように、周りを整えること。幼いエレオノーラには、それらの境目がまだ分からなかった。ただ、もしアレクシスが困っていたら、自分はきっと助けたいと思うのだろう。彼が笑うと、場が明るくなる。その明るさを曇らせたくないと思うのだろう。
その思いが、いつか自分をどこへ連れていくのか、彼女はまだ知らなかった。知らないまま、天蓋の布がゆっくり揺れるのを見つめ、母が寝る前に言った、困ったと言ってよいのですよ、という声を思い出した。言ってよいのだと分かっていても、言わないまま済ませられるなら、そのほうがよいのではないかと思ってしまう自分がいる。その小さな癖が、今日一日で生まれたものではなく、もっと前から自分の中にあったのだと気づくには、彼女はまだ幼すぎた。
やがて廊下の足音が遠のき、屋敷が夜の静けさへ沈んでいく。エレオノーラは目を閉じた。瞼の裏に、王宮の白薔薇の間が浮かぶ。金糸の絨毯、王妃の白い薔薇、父の封蝋、母の手、祖母の声、そして、砂糖菓子を半分差し出す王太子の指先。どれもまだ新しく、どれもまだ傷ではなかった。むしろ、これから大切に育てていくもののように思えた。
だから彼女は、その夜、眠りに落ちる前にひとつだけ決めた。次に王宮へ行くときは、今日よりも落ち着いて挨拶をしよう。アレクシスがまた笑ってくれるなら、自分もきちんと笑い返せるようになろう。王太子の隣に立つことが自分の役目になるのなら、その役目を恥じないように学ぼう。そうすればきっと、父も母も祖母も安心する。公爵家の者たちも、自分を誇りに思ってくれる。アレクシスも、自分がいてよかったと思ってくれる。
幼い願いは、夜の中で静かに形を結んだ。誰かに命じられたものではなく、自分で選んだと思えるほどには温かく、けれど本当に自分だけのものだったかどうかを問い直すには、あまりにも早い願いだった。エレオノーラはその温かさを抱いたまま、ようやく浅い眠りへ沈んでいった。王宮の光も、砂糖菓子の甘さも、手袋の跡も、まだ何一つ失われていない夜だった。
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