第一話 王太子の婚約者に選ばれた朝④
謁見が一段落すると、王妃の勧めで、二人は部屋の奥にある小さな卓へ移された。完全に二人きりではない。王妃付きの女官が壁際に控え、母も離れた場所で王妃と話している。だが、国王や父の前から少し離れただけで、アレクシスは明らかに息をついた。
「君の家では、挨拶をたくさん練習するのか」
「はい。お祖母様が、礼は相手に差し出す最初の言葉だとおっしゃいます」
「礼が言葉なのか」
アレクシスは本当に不思議そうに言った。エレオノーラは、祖母の言葉をどう説明すればよいのか少し考えた。急いで答える必要はない、と父に言われたばかりだったので、すぐには口を開かなかった。するとアレクシスは、待っているあいだに卓の上の砂糖菓子へ手を伸ばしかけ、女官の視線に気づいて手を止めた。その仕草があまりに分かりやすくて、エレオノーラは笑いそうになったが、笑ってよいのか分からず、唇を軽く結んだ。
「相手を軽んじていないと、先に示すものなのだと思います。言葉を口にする前に、姿勢や目線で伝わることがあるから、と」
「なるほど」
彼は真面目な顔で頷いたが、次の瞬間にはまた砂糖菓子を見た。
「では、菓子を取る前にも礼がいるかな」
今度はエレオノーラも、少し笑ってしまった。大きな声ではない。けれど、朝からずっと胸の内側に張っていた糸が、その笑みでほんの少し緩んだ。アレクシスは、彼女が笑ったことを喜んだように、自分も笑った。王太子の笑顔は、部屋の光を集めるようだった。彼が笑うと、周囲の者たちが安心する。国王も王妃も、きっとこの笑みを大切に見ているのだろう。エレオノーラも、そのときはそう思った。この人が笑っていると、場がやわらぐ。自分がその助けになれるなら、それは悪いことではない。
「君は、僕よりいろいろ知っていそうだ」
アレクシスが言った。
「そのようなことはございません」
「でも、礼の意味を知っていた。僕は、先生に言われた通りにしているだけだ」
「わたくしも、教えられたことを覚えているだけです」
「覚えているなら同じだ。僕は、すぐ忘れる」
彼は悪びれずに言い、今度こそ女官の許しを得て砂糖菓子を一つ取った。王妃のほうを見ると、彼女は困ったように微笑んでいる。アレクシスは菓子を半分に割り、片方をエレオノーラへ差し出した。女官が一瞬動きかけたが、王妃が目で止めた。
「君にもあげる。今日は、僕も君も練習したのだから」
それは正式な礼儀として正しい行いではなかったかもしれない。けれど、エレオノーラは差し出された半分の砂糖菓子を見て、受け取らなければ彼を傷つけると思った。受け取れば不作法になるのかもしれない。迷っていると、母が遠くからこちらを見て、ほんの少しだけ頷いた。エレオノーラは両手でそれを受け取った。
「ありがとうございます、殿下」
「アレクシスでいい。だって、婚約するのだろう」
その言葉は、あまりにも簡単に口にされた。エレオノーラは、砂糖菓子を持ったまま、指先に力が入りそうになるのをこらえた。婚約。大人たちが丁寧に磨いた言葉で包んでいたものを、アレクシスは春の庭で花を摘むように言った。彼にとっても重大なことのはずなのに、怖がっているようには見えなかった。あるいは、怖がる前に笑える人なのかもしれない。
「では、殿下も、わたくしをエレオノーラとお呼びになるのですか」
「そうしたい」
彼はすぐに答えた。
「エレオノーラ。長いけれど、きれいな名前だ」
名前を呼ばれた瞬間、彼女は胸の奥が温かくなるのを感じた。家の者に呼ばれる名と、王太子に呼ばれる名は同じなのに、響きが違っていた。これから長い時間を共にする相手が、自分の名前をきれいだと言った。そのことは、幼い心には十分な明るさを持っていた。今日が怖いのかどうか分からないと母に言ったことを思い出し、少なくとも今は、怖いだけではないと思った。
それからしばらく、二人は王妃と母の見守る中で話した。好きな本、苦手な勉強、王宮の庭にいる白い孔雀のこと、公爵家の温室で咲く青い花のこと。アレクシスは話すのが上手だった。ひとつのことを長く考えるより、次々に目に入ったものへ心を動かしていく。エレオノーラが言葉を選んでいる間にも、彼は次の話題へ行きかけることがあったが、彼女が口を開くと、ちゃんと戻ってきた。少なくともその日は、そうだった。
王宮を辞するとき、アレクシスは廊下まで見送りに出てきた。王太子としては異例ではないが、子ども同士の見送りとしては少し弾んでいた。彼は王妃に促されてきちんと礼をし、それからエレオノーラへ小さく手を振りかけ、途中で女官の目に気づいて手を下ろした。その慌てた仕草に、エレオノーラはまた笑いそうになったが、今度は礼をとることで隠した。
「また会おう、エレオノーラ」
「はい、アレクシス殿下」
「殿下はいらないのに」
彼が小さな声で不満そうに言ったので、エレオノーラは顔を上げた。周囲には大人たちがいる。父もいる。王妃もいる。ここで殿下を外すことはできない。できないけれど、彼が少し残念そうにしたことも、彼女には分かった。
「では、次にお庭でお話しできるときに」
そう言うと、アレクシスはぱっと笑った。
「約束だ」
約束という言葉も、彼は簡単に言った。けれどエレオノーラは、その簡単さを嫌だとは思わなかった。むしろ、その軽やかさが羨ましかった。自分が口にする前に重さを量ってしまう言葉を、彼は光の中へ放るように言える。その言葉を受け止め、形にし、必要なら支えるのが、自分の役目になるのかもしれない。そう思ったとき、彼女の中には怖さとは別のものが生まれた。誰かの役に立つことができるという期待。自分が学んできたことに意味があるのだという安堵。王太子殿下が笑ったときに、その笑みに少しだけ自分も関われたような、幼い誇らしさ。
帰りの馬車に乗り込むころには、朝の硬さは少し薄れていた。父は国王との話を胸の内で整理しているのか黙っていたが、その沈黙は来るときほど重くなかった。母はエレオノーラの顔を見て、何も聞かなかった。ただ、馬車が王宮の門を出て石畳の道へ戻ったとき、向かいの席からそっと手を伸ばし、娘の手袋の上に自分の指を重ねた。朝、部屋で離れた温かさが戻ってきて、エレオノーラはようやく、自分がずっと手を固くしていたことに気づいた。
「アレクシス殿下は、明るい方でした」
彼女がそう言うと、母は微笑んだ。
「そうですね」
「少し、間違えていらっしゃいました」
言ってから、王太子に対して失礼だったかもしれないと思い、エレオノーラは父のほうを見た。父は叱らず、ただ問い返した。
「何を」
「ご挨拶の順番を。でも、すぐに直されました。わたくしも、間違えないようにしようと思いました」
父はしばらく黙っていた。馬車の車輪が石を越え、座席が小さく揺れる。その揺れに合わせて、エレオノーラの膝の上の手も少し動いた。
「殿下が間違えることもあるだろう」
「はい」
「そのとき、お前が気づくこともあるだろう」
「はい」
「気づいたなら、助けることは悪くない。ただし、助けることに慣れすぎて、相手が自分で立つ機会まで奪ってはならない。これは難しいことだ。私にも、まだ難しい」
父が自分にも難しいと言ったので、エレオノーラは驚いた。父にも難しいことがあるのかと思った。父は何でも知っていて、何でも正しく判断できる人に見えていたからだ。だが、父は窓の外を見たまま、その言葉を取り消さなかった。
「覚えておきます」
そう答えたとき、エレオノーラは本当に覚えておくつもりだった。いつかアレクシスが困ったら、助けよう。けれど、助けすぎてはいけない。彼が自分で立つ機会を奪ってはいけない。父の言葉は、馬車の揺れと一緒に彼女の中へ入っていった。子どもの記憶は、ときに意味より先に音を残す。彼女はその日、言葉のすべてを理解したわけではなかったが、父の低い声と、母の手の温かさと、アレクシスが砂糖菓子を半分に割った指先の動きを、一つのものとして覚えた。




