第一話 王太子の婚約者に選ばれた朝③
王宮の門は、公爵家の屋敷の門よりも高かった。白い石で築かれた外壁は朝の光を受けてまぶしく、門兵たちの鎧は磨かれている。馬車は一度止まり、従者が名を告げ、門番が紋章を確認する。ヴァルクレスト公爵家の馬車を知らぬ者など王宮にはいないはずだが、それでも手続きは行われる。父がいつか言っていた。高い家ほど、手続きを軽んじてはならない。軽んじてよいと思った瞬間に、家の名は自分の都合のために使われる、と。
白薔薇の間へ向かうまでの廊下は長かった。床は磨かれ、壁には王国の歴代君主の肖像画が並んでいる。エレオノーラは父の少し後ろ、母の隣を歩いた。先導する侍従は足音をほとんど立てない。廊下の途中で行き交う廷臣たちは、父を見ると深く礼をとり、エレオノーラへも視線を向けた。子どもだからといって、無邪気に見られているわけではない。彼らは、公爵家の娘を見ている。もしかすると、未来の王太子妃になるかもしれない少女を見ている。自分がまだ何も言っていないうちから、人々の中で自分の意味だけが先に進んでいるようで、彼女は足を止めたくなったが、母の衣擦れがすぐ隣にあるので、その音に合わせて歩き続けた。
白薔薇の間には、すでに国王夫妻がいた。国王は父よりも柔らかい顔をしていたが、椅子に座っているだけで部屋の中心がそこに定まる人だった。王妃は淡い金の髪を結い、白い薔薇をかたどった飾りを胸に留めている。その少し横に、少年が立っていた。エレオノーラより少し年上に見える。光を受けやすい金の髪と、よく動く青い目を持ち、礼服を着ていても、じっと立っていることに退屈しているのが分かるほど、指先がそわそわと袖口に触れていた。
あの方が、王太子殿下。
そう思った瞬間、王妃が少年の肩へ軽く手を置いた。少年ははっとしたように姿勢を正し、エレオノーラのほうを見る。その目が合ったとき、彼は少し笑った。用意された王族の微笑みではなく、退屈な儀式の中で同じ年頃の相手を見つけた少年の笑みだった。その笑みを見て、エレオノーラの胸に詰まっていた息が少しだけ動いた。
父が進み出て礼をとる。母も続き、エレオノーラも教えられた通りに膝を折った。床に視線を落としたとき、王宮の絨毯の模様が屋敷のものとは違うことに気づいた。白薔薇の蔓が淡い金糸で織り込まれている。そんな細かなところを見てしまったのは、顔を上げるまでのわずかな時間を、何かで埋めたかったからかもしれない。
「顔を上げなさい、エレオノーラ嬢」
国王の声は低かったが、恐ろしいものではなかった。彼女が顔を上げると、国王は父へ視線を向け、それから王妃へ、最後に王太子へ目を移した。
「アレクシス。こちらがヴァルクレスト公爵の息女、エレオノーラ嬢だ」
少年は一歩前へ出た。歩き方は堂々としていたが、最後の半歩で少し足がずれた。すぐに立て直したので、ほとんど誰も気づかなかったかもしれない。けれどエレオノーラは見ていた。見てしまった。王太子も、間違えるのだと思った。間違えたことにほっとしたと言えば不敬なのかもしれないが、完璧なものを前に立たされるより、少し足をずらした少年を前にしたほうが、息がしやすかった。
「アレクシス・ルクシアだ」
彼はそう名乗り、少し遅れて、王妃に教えられていたのを思い出したように片手を胸へ添えた。挨拶としては、わずかに順番が逆だった。エレオノーラは自分の番が来たことを知り、礼をとった。
「エレオノーラ・ヴァルクレストにございます。王太子殿下にお目にかかれましたこと、光栄に存じます」
言い終えて顔を上げると、アレクシスはぱっと明るい顔をした。
「すごいな。間違えないんだね」
その言葉に、部屋の空気が一瞬だけ止まった。王妃が小さく息を吸い、父の表情は変わらず、母の目だけが少しやわらいだ。エレオノーラは、これは答えてよい言葉なのか迷った。王太子殿下が口にしたものでも、正式な問いではない。けれど無視するには、あまりにも素直に向けられた声だった。
「わたくしも、先ほどまで何度も練習いたしました」
そう答えると、アレクシスは驚いたように目を丸くし、それから笑った。
「君も練習するのか。僕だけだと思っていた」
僕だけ。その言葉が、エレオノーラには少し不思議に聞こえた。王太子殿下も、練習をする。王太子殿下も、間違えないように誰かに見られながら立っている。そう思うと、目の前の少年は、遠い王宮の光の中にいる人ではなく、同じように大人たちの前へ出されている子どもに見えた。
「アレクシス」
王妃がたしなめるように名を呼んだ。少年はすぐに口を閉じたが、エレオノーラに向けた目の明るさは消えなかった。国王はその様子を見て、深くは笑わず、しかし悪いものではないと受け取ったようだった。父と国王のあいだで、婚約についての言葉が交わされる。正式な調印は後日、王家の評議と公爵家の確認を経て進めること、両家の結びつきが王国の安定に資すること、若い二人は今後、王宮と公爵家の監督のもとで交流を重ねること。大人たちの声は丁寧で、どの言葉も磨かれていた。エレオノーラにはすべての意味は分からなかったが、その言葉の中に自分とアレクシスの名が何度も置かれるたび、自分の未来が少しずつ紙の上へ写し取られていくように感じた。




