第一話 王太子の婚約者に選ばれた朝②
「今日、あなたは殿下とお会いします。殿下が優しい方なら、その優しさを大切になさい。殿下が分からないことに困っていたら、助けて差し上げてもよいのです。でも、エレオノーラ、あなたが困ったときにも、困ったと言ってよいのですよ」
困ったと言ってよい。その言葉は、やさしいはずなのに、エレオノーラの胸には少し難しいものとして残った。困ったと言えば、誰かが助けてくれる。母はそう言っている。けれど、今日のように家中が静かに動き、父が書斎で待ち、祖母が朝から支度を見に来る日に、自分が困ったと言ったら、皆がこれほど整えてくれたものを乱すことにならないだろうか。そう考えると、母の手を握り返したい気持ちと、きちんと座っていなければならない気持ちが、胸の中で同じ場所を取り合った。
扉が再び叩かれ、家令のローレンが入室を求めた。父の用意が整った知らせだった。母が手を離す。離れたところが急に冷えるように感じて、エレオノーラは指先をほんの少し曲げたが、手袋の布が動いただけで、母の温かさは戻らなかった。
廊下へ出ると、屋敷はすでに王宮へ向かう朝の形になっていた。階段の下では従僕が外套を持ち、玄関広間の奥には御者と護衛の騎士が控えている。普段は食堂へ運ばれる銀器の音や、厨房でパンを切る音が遠くに聞こえるのに、その日はどの音も扉の向こうへ押し込められたように小さい。使用人たちは壁際に下がり、主人一家が通るたびに礼をとる。幼いエレオノーラには、その礼が自分へ向けられているのか、父へ向けられているのか、家の名へ向けられているのかが、まだうまく分けられなかった。ただ、たくさんの目が伏せられるたびに、自分はこの家の一部として見られているのだと感じた。
書斎の前で父が待っていた。オルドリック・ヴァルクレストは、朝の光の中でも影を濃く持つ人だった。重々しいというより、何かを軽く扱わない人なのだと、幼い娘は思っている。彼は濃紺の礼服に公爵家の徽章をつけ、手には封をした書状を持っていた。国王へ差し出すものなのだろう。封蝋にはヴァルクレスト家の紋章が押されている。
父はエレオノーラの姿を見て、しばらく黙っていた。その沈黙に、彼女は背中を伸ばす。叱られる前ではない。評価される前でもない。父が何かを言う前の沈黙には、言葉を軽くしないための重さがある。
「よく整っている」
父はそう言った。褒め言葉としては短い。けれど、父の声で言われると、それだけで部屋中の侍女たちが朝から積み上げてきた支度が認められたようだった。エレオノーラは礼をした。
「ありがとうございます、お父様」
「今日、王宮で何を聞かれても、急いで答える必要はない。問われた言葉を聞き、意味を考え、それから答えなさい。沈黙は不作法ではない。考えずに口にした言葉のほうが、あとで人を傷つける」
父の言葉は、母の言葉とは違う場所に届いた。母は、困ったと言ってよいと言った。祖母は、支えることと消えることは違うと言った。父は、言葉はあとで人を傷つけると言った。三人の言葉は、どれも違う形をしていたが、その日のエレオノーラの中では一つの重さになった。王宮へ行くとは、綺麗なドレスを着て、王族に挨拶をするだけではない。何を言い、何を言わないかまで見られる場所へ行くことなのだ。
馬車へ乗るとき、従僕が足台を置き、ナディアが後ろから裾を捌いた。父が先に乗り、母が続き、エレオノーラは母の向かいに座ることになった。祖母は別の馬車で後から王宮へ向かう。幼いころから、母の隣に座るときは自然に母の袖に手を寄せていたが、その日は向かい合わせの席で、膝の上に手をそろえなければならなかった。馬車が動き出すと、石畳の振動が座席を通って体に伝わり、手袋の内側で指が少し汗ばんでいく。
屋敷の門を出ると、外の世界の音が戻ってきた。朝の市場へ向かう荷車の車輪、パンを焼く店の煙、通りの端で水を撒く者の掛け声、貴族の馬車を見て道を空ける人々の衣擦れ。エレオノーラは窓の外を見たいと思ったが、母の前で落ち着かなく動くのはよくない気がして、顔だけを少し向けた。王都の朝は、屋敷の中とは違っていた。そこでは誰もヴァルクレスト家の沈黙に合わせて音を消してはくれない。人々は自分の一日を始めていて、その中を公爵家の馬車が、紋章を掲げて進んでいく。
「エレオノーラ」
母に呼ばれて顔を戻すと、セシリアは窓から差し込む光の中で娘を見ていた。
「はい」
「殿下にお会いするのが怖いですか」
父が隣にいる。御者台の向こうには従者がいる。馬車の外には護衛がついている。その中で、母はとても静かに尋ねた。エレオノーラはすぐに大丈夫ですと言いかけたが、朝、ナディアにそう言ったあとで背中の留め紐を緩められたことを思い出した。母も、きっと気づく。大丈夫と言ってしまえば、また誰かが気づかないふりをしてくれるかもしれない。気づかないふりをさせることは、嘘ではないのだろうか。けれど、怖いですと言ったら、父はどう思うだろう。ヴァルクレストの娘が、王太子殿下に会うことを怖がっているなどと。
迷っている間に、馬車が緩く曲がり、身体がほんの少し横へ傾いた。エレオノーラは膝の上の手に力を入れ、手袋の縫い目が指先へ当たる感覚を頼りにした。
「怖いのかどうか、まだ分かりません」
ようやく出た言葉は、あまり立派ではなかった。けれど母は頷いた。
「分からないなら、それでよいのです。分からないものを急いで別の名前にしなくてよいのですよ」
父は何も言わなかった。叱られなかったことに安堵しながら、エレオノーラは父が窓の外ではなく、自分の手元を見ていることに気づいた。父は、彼女が手袋の縫い目を押さえていることを見ていたのかもしれない。けれど、その手をほどけとは言わなかった。ただ、しばらくしてから、視線を王宮の方へ戻した。




