第一話 王太子の婚約者に選ばれた朝①
第一話 王太子の婚約者に選ばれた朝
エレオノーラがその朝、目を覚ましたとき、窓の外ではまだ庭師たちが噴水のまわりに落ちた花びらを掃いていた。春の終わりに近い朝で、夜の湿り気を含んだ風が薄い硝子越しに部屋へ触れ、天蓋の内側に垂らされた淡い布を、息をしているもののように静かに揺らしている。いつもなら、侍女が扉を叩く少し前に目を覚ますと、エレオノーラはその布の動きをしばらく見ていた。白い布の縁が持ち上がり、また落ちるのを見ているうちに、廊下の遠くで銀盆が鳴り、台所の方から湯を運ぶ足音が近づいてくる。屋敷の朝は、そうやって自分より先に目を覚ます人々の気配で始まるのだと、彼女は幼いなりに知っていた。
けれどその日は、扉を叩く音がいつもより早かった。しかも一度ではなく、控えめな音のあとに、少し間を置いて、もう一度、同じ強さで響いた。入室の許しを待つ侍女の礼儀としては正しいが、そこにいつもよりわずかな硬さがあったので、エレオノーラは寝台の上で半身を起こしながら、自分がまだ眠っている間に、屋敷のどこかで何かがもう決まってしまったのだと感じた。子どもに分かるような大きな騒ぎではない。廊下を走る者もいなければ、声を荒らげる者もいない。ただ、静かすぎるのだった。大きな家で働く者たちは、主人の家に重大な客がある朝や、王宮から使者が来る朝、音を消すように動く。音を消せば消すほど、その朝がふつうではないことだけが、部屋の隅に積もっていく。
「お嬢様、お目覚めでいらっしゃいますか」
扉の向こうから聞こえたのは、ナディアの声だった。まだ若い侍女で、母に選ばれてエレオノーラの身の回りにつくようになってから、まだ一年も経っていない。けれど、手つきは丁寧で、布を引くときも、櫛を通すときも、幼い主人の身体を物のように扱うことがなかった。エレオノーラはその声を聞いて、返事をしようとしたが、喉の奥が少し乾いていた。昨夜、母が寝台の横に座り、明日は早いですよ、と言いながら指先で額の髪を払ってくれたとき、自分は何も尋ねなかった。なぜ早いのか、どこへ行くのか、父はどうして食後に自分を呼ばなかったのか。聞けば答えてくれたかもしれない。だが、聞かないほうがよいこともあるのだと、エレオノーラは屋敷の中で少しずつ覚え始めていた。
「起きています」
声が思ったより細く出て、彼女はすぐに背を伸ばした。細い声で返事をしたからといって、誰かに叱られるわけではない。父は幼い娘に怒鳴るような人ではなかったし、母は声が震えたことを責めたりしなかった。それでも、ヴァルクレスト公爵家の子として扉の向こうに返す声は、相手が侍女であっても乱れてはいけない。そう教えられてきたわけではなかったが、父が家令に一言告げるときの声、祖母が客人の名を呼ぶときの声、母が王宮から届いた書状を読むときの声を聞いて育つうちに、言葉とは、その人の心だけでなく、その背後にある家の形まで連れて出てしまうものなのだと、エレオノーラは感じるようになっていた。
扉が開き、ナディアが湯を持った下働きの少女を伴って入ってきた。少女はまだ緊張しているのか、銀の水差しを置くときにほんの少し指を滑らせたが、ナディアが目だけでそれを制し、音が立つ前に受け止めた。二人の後ろから、衣装係の侍女が薄紙に包まれた礼装を運び入れ、さらに少し遅れて、髪結いを任されている年嵩の女が櫛箱を抱えて入ってくる。いつもの朝なら、寝室に入るのはナディアともう一人だけだった。湯で手と顔を清め、髪を梳き、簡素な朝のドレスに着替えて、母の私室で朝食を取る。それがエレオノーラの一日の始まりだった。これほど何人もの者が、まだ朝の光が浅いうちから部屋に並ぶのは、王宮へ上がる日か、公爵家に重要な客を迎える日だけだった。
「今日は、青のドレスではないのね」
寝台から下りるとき、エレオノーラは衣装係の腕にかかった布を見て、思わずそう言った。薄紙の隙間からのぞいていたのは、真珠を溶かしたような白に、淡い銀糸を織り込んだ礼装だった。子ども用のドレスではあるが、袖口や裾にはヴァルクレスト家の紋章に使われる月桂の意匠が小さく刺されている。華やかではあったが、子どもの愛らしさを見せるための衣装ではない。どこか、王宮の石床や高い天井に負けないよう、幼い身体に家の名をまとわせるための衣装に見えた。
ナディアは、湯を浸した布を絞りながら、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
「奥方様がお選びになりました。王宮の白薔薇の間で、国王陛下と王妃殿下にお目通りなさるとうかがっております」
国王陛下と王妃殿下。その呼び名が部屋の中に置かれたとたん、下働きの少女の肩がさらに小さくなった。髪結いの女は何も言わずに櫛箱を開けたが、櫛の歯が絹の内張りに触れる音が、いつもよりはっきり聞こえた。エレオノーラは手を差し出し、ナディアが指先から順に拭ってくれるのを見下ろした。湯は熱すぎず、冷たくもなかった。侍女たちがきちんと整えてくれた温度だった。それなのに、手のひらの内側が自分のものではないように遠い。今日は王宮へ行くのだと思うと、胸が跳ねるより先に、指の関節が少し強張った。
「お父様も、ご一緒に」
「はい。旦那様はすでに朝の書斎においでです。家令のローレンが馬車の支度を見ております。大奥様も、奥方様のお部屋にいらっしゃいます」
祖母までいると聞いて、エレオノーラはもう、それがただの挨拶ではないのだと分かった。アデライード・ヴァルクレストは先代公爵夫人であり、いまも社交界でその名を聞けば、老いた貴族たちでさえ背筋を正す女性だった。孫娘を可愛がってはいたが、甘やかす人ではない。朝早くから母の部屋にいるなら、今日の支度は母だけのものではなく、家の女たちが揃って送り出す意味を持っている。
肌を清められ、薄い下着を重ねられ、柔らかな胴衣を整えられるあいだ、エレオノーラは何度か尋ねようとした。今日、自分は何をするのですか。国王陛下は、わたくしに何をお求めになるのですか。王妃殿下の前では、どの礼をすればよろしいのですか。問いはいくつも喉元まで上がってきたが、侍女たちの前で言葉にすることができなかった。彼女たちは家に仕える者で、エレオノーラの支度を整えるためにいる。子どもの不安を受け止めるためではない。そう思ったわけではなかったが、そう思うより早く、体が黙るほうを選んでいた。
髪を結われるために鏡台の前へ座ると、磨かれた銀鏡の中に、まだ幼い自分の顔が映った。頬は子どもらしく丸く、目も大人たちのように静かではない。けれど、その顔のまわりに髪が持ち上げられ、細い編み込みが作られ、真珠の小さな飾りが一つずつ差し込まれていくと、鏡の中の少女は、いつものエレオノーラから少しずつ離れていった。庭で母と花の名を覚える子どもではなく、父の書斎の前で足音を抑えて待つ子どもでもなく、誰かの前へ差し出されるために整えられていく公爵家の娘になっていく。
その変化を見ているうちに、胸の奥に小さな硬いものが生まれた。怖いのかもしれないと、彼女は思った。けれど怖いと言ったら、何が怖いのかを説明しなければならない。国王陛下が怖いのか、王妃殿下が怖いのか、王宮が怖いのか、今日何が決まるのか分からないことが怖いのか。どれも少しずつ違う気がして、ひとつの言葉にできなかった。だからエレオノーラは、鏡の中の自分を見ながら、膝の上で指を揃えることだけに意識を向けた。
「お嬢様、きつくはございませんか」
ナディアが背中の留め紐を整えながら尋ねた。声は仕事のための静かさを保っていたが、鏡越しに目が合うと、そこにわずかな心配があった。エレオノーラはその心配を見てしまったので、すぐに頷いた。
「大丈夫です」
言ってから、背中が本当は少し苦しいことに気づいた。礼装は体に合っている。苦しいのは布ではなく、息のほうだった。それでも、一度大丈夫と言ったあとで訂正するのは、侍女たちを困らせる気がした。ナディアはそれ以上尋ねず、ただ指先で留め紐の位置をほんの少しだけ緩めた。気づかれたのだと分かり、エレオノーラは鏡の中で目を伏せた。礼を言うべきか迷ったが、言えば、自分が苦しかったことを認めることになる。幼い意地ではなく、そういうことを口にしてよい場と、口にしないほうが場が保たれる場があるのだと、彼女はもう学び始めていた。
支度が終わるころ、母のセシリアが部屋へ入ってきた。侍女たちは一斉に礼をとり、空気が少しやわらかくなった。母はいつも、部屋の温度を変える人だった。高い身分にふさわしい所作を持ちながら、近づいてくるときの足音には、誰かを追い詰める硬さがない。隣国から嫁いできた人で、王都の貴婦人たちとは少し違う色をまとっていると、祖母が言っていたことがある。エレオノーラには、その違いが何なのかまだよく分からなかったが、母の声を聞くと、部屋の壁が少し遠のくような気がした。
「よく似合っていますね」
母はそう言い、鏡の中のエレオノーラではなく、椅子に座っている娘自身の顔を見た。衣装ではなく、顔を見た。そのことに気づいた瞬間、エレオノーラの胸の奥で硬くなっていたものが、ほんの少しだけ動いた。
「お母様、今日は、わたくしは何を申し上げればよろしいのでしょうか」
侍女たちの前では飲み込んだ問いが、母の前ではこぼれた。問いながら、自分の声が小さすぎたことを恥じたが、母はそれを笑わなかった。近づいてきて、髪飾りがずれていないかを見るように手を伸ばし、耳の近くの細い髪をそっと撫でつける。その指が頬に触れたとき、エレオノーラは自分の肌が少し冷えていたことを知った。
「まずは、陛下と王妃殿下にご挨拶を。お尋ねがあれば、答えられることを答えなさい。分からないことを分かるふりをしてはいけません。けれど、怖いからといって顔を伏せ続ける必要もありません」
「怖い顔をしていたら、よくないですか」
「怖い顔をしてしまう日もあります。でも、今日はあなたを見にいらっしゃる方がいますから、できれば、相手のお顔をきちんと見て差し上げなさい」
誰が、と聞く前に、母の背後で祖母の声がした。
「王太子殿下です」
アデライードは、いつの間にか部屋の入口に立っていた。侍女たちが再び礼をとる。年を重ねても背はまっすぐで、銀を帯びた髪は高く結い上げられ、黒に近い深紫のドレスには、控えめながら隙のない刺繍が施されている。祖母はエレオノーラを見ると、満足したように顎をほんの少し上げた。
「本日、あなたは王太子アレクシス殿下に初めて正式に引き合わされます。大人たちの間では、すでに多くの話が進んでおりますが、婚約とは書面だけで結ばれるものではありません。王家とヴァルクレスト家が結ぶものです。あなたはまだ幼い。けれど幼いからといって、何も分からない人形としてそこに立つわけではありません」
人形、と言われたとき、エレオノーラは膝の上の手を少しだけ見た。先ほどナディアが薄い手袋をはめてくれたばかりで、指先は白い布の中にきれいに収まっている。人形の手も、こんなふうに白くて小さいのだろうかと思いかけて、すぐにその考えをやめた。祖母は人形になるなと言っているのだ。怖がるなと言っているのではない。意味を知らないまま飾られるなと言っている。
「お祖母様、わたくしは、王太子殿下のお役に立たなければならないのですか」
問いは自然に出た。母がわずかに目を細めた。祖母はすぐには答えず、部屋の中にいる侍女たちへ一度視線を向けた。ナディアを含む侍女たちは、誰に言われるまでもなく、音を立てずに下がっていく。扉が閉まるまで、エレオノーラは自分が何か不作法なことを聞いたのかと不安になったが、祖母は叱らなかった。
「役に立つことは必要です。ですが、それだけを覚えてはいけません」
祖母は椅子に座るエレオノーラの前まで来て、子どもの目の高さに合わせることはしなかった。彼女はいつでも、相手が子どもであっても、自分の背の高さから言葉を下ろす。だがその言葉は冷たくはなかった。
「王太子妃となる者は、王太子殿下を支えるでしょう。いずれ王妃となるなら、国を支えることにもなります。けれど、支えることと、消えることは違います。あなたが何も考えず、何も望まず、ただ殿下のためだけに生きるなら、それはヴァルクレストの娘ではありません」
エレオノーラは、その言葉を全部は理解できなかった。支えることと消えることの違いは、大人たちには分かるのだろうが、幼い彼女にはまだ、誰かの役に立つことは良いことに思えたし、褒められればうれしい。父の書斎で手紙の封を色別に分けたとき、母の言語の本を覚えて発音を直されたとき、祖母の前で礼法を間違えずにできたとき、よくできましたと言われるたび、胸の中に温かいものが灯った。だから、自分が王太子殿下の役に立てるなら、それは誇らしいことのはずだった。
けれど、祖母が消えると言った瞬間、鏡の中で整えられていった自分の顔が思い出された。髪を結われ、ドレスを着せられ、家の紋をまとった自分が、少しずついつもの自分から離れていく感覚。あれが消えることなのか、あるいは違うのか、彼女にはまだ答えがなかった。
母は、祖母の言葉を受けるように、エレオノーラの手を取った。手袋越しでも、母の指の温かさは分かった。




