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婚約破棄された悪役令嬢は、白銀の大公に最愛を捧げられる  作者: ごゅみ
第一部 婚約破棄

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プロローグ

第一部 プロローグ


王立学院の大広間には、朝から磨き上げられた銀の燭台と、春の白い花が並べられていた。高い窓から入る光はまだやわらかく、床に敷かれた深紅の絨毯の上で、貴族の子女たちの靴音だけが抑えられて響いている。卒業を祝う式典にふさわしく、空気は華やかであるはずだった。けれどエレオノーラ・ヴァルクレストは、その華やぎの底に、わずかに濁ったものが沈んでいるのを感じていた。


それは、誰かが声高に告げたものではない。笑い声が近づくたびに急に細くなること、視線がこちらへ触れる前に避けられること、数日前まで自然に挨拶を交わしていた令嬢たちが、今日は扇の陰で言葉を切ること。そのひとつひとつは、取り立てて責めるほどのものではなかった。けれど、あまりにも同じ方向へ揃いすぎていた。


エレオノーラは、胸元の小さな飾りに指を触れた。亡き母が遺した真珠のブローチだった。式典用の礼装に合わせるには控えめすぎると侍女のナディアは一度だけ迷ったが、エレオノーラが身につけたいと告げると、それ以上は何も言わず、ただ襟元の布を整えてくれた。母のセシリアは、生前よく言っていた。人の目がある場所ほど、背筋を伸ばしなさい。けれど、背筋を伸ばすことと、心を殺すことは同じではありません、と。


その言葉を、本当に理解できたことはなかった。エレオノーラは幼いころから、王太子の婚約者として育てられてきた。泣く前に考えること、怒る前に言葉を選ぶこと、傷ついたと見せる前に場の意味を読むこと。それらは彼女の身を守る鎧であり、同時に、いつの間にか彼女自身を囲む壁にもなっていた。誰かに慰めを求めるより先に、次に取るべき手順を探す癖は、もう簡単には抜けない。


壇上では、学院長が来賓席へ向かって一礼していた。王家の紋章を縫い取った垂れ幕の下に、王太子アレクシス・ルクシアの席がある。その隣には、本来ならエレオノーラが並ぶはずだった。少なくとも、正式な婚約が続いている以上、式典における席次はそう定められていた。


だが、そこに彼女の椅子はなかった。


代わりに、少し後ろの列に、公爵家令嬢としての席が用意されている。席次の変更について、学院側から事前の説明はなかった。朝、案内係が目を伏せながら場所を示したとき、ナディアは一歩前に出かけたが、エレオノーラは小さく首を振って止めた。今ここで騒ぐことに意味はない。席を移されたという事実は、静かに受け取ればよかった。受け取ったものは、後で名をつけることができる。


アレクシスは、まだ来ていなかった。遅刻というほどではないが、式典の直前まで姿を見せないのは珍しい。彼は人前に立つことを好む人だった。光の当たる場所で微笑み、民の未来を語り、周囲の期待を自分のものにする術を知っている。けれど、その未来を実際に動かすための細かな書類や、貴族同士の利害をほどく手紙や、予算の行き先を定める計算は、いつもエレオノーラの前に積まれていた。


嫌だったわけではない。少なくとも、そう思おうとしてきた。婚約者として、いずれ王太子妃となる者として、国を支えるのは当然だと教えられていた。アレクシスが華やかな場に立つなら、自分はその足元を崩れないよう固める。それが二人の役割なのだと、長い間、疑わずにきた。


けれど近ごろ、彼はエレオノーラの言葉を聞かなくなっていた。政務の遅れを指摘すれば、責められているような顔をした。予算案の危うさを伝えれば、民を信じていないのかと問い返した。聖女候補として学院に迎えられたミリア・フェルトンがそばにいるとき、彼の表情はとくにやわらいだ。ミリアは、難しい話をしなかった。アレクシスの理想に目を輝かせ、すごいです、優しいのですね、と素直に言った。彼はそのたびに、救われたように笑った。


エレオノーラには、その笑みを責める言葉が見つからなかった。


大広間の入口がざわめいた。何人もの視線が同時に動き、空気がひとつの方向へ流れる。アレクシスが入ってきたのだと、振り返らずともわかった。彼が歩くとき、人々は自然に道を空ける。王太子としての存在感は、彼の努力だけで得たものではない。生まれた瞬間から与えられたものがあり、誰もがそれを前提として彼を見る。


だが、その隣にいる少女を見たとき、さすがに広間のざわめきは一段深くなった。


ミリア・フェルトンは、淡い水色のドレスを着ていた。平民出身の聖女候補としては十分に上質な装いだが、王族の隣に立つには軽い。けれど彼女自身は、その軽さを知らないのか、あるいは知っていても気にしていないのか、頬を紅潮させ、アレクシスの袖にそっと指を添えていた。触れていると言い切るほどではない。けれど、離れているとも言えない距離だった。


エレオノーラの周囲で、何人かが息をのむ気配がした。誰かがこちらを見る。哀れむ目、好奇の目、確かめる目。自分がどう反応するかを待っている視線が、いくつも肌に触れた。


彼女は顔を上げたまま、膝の上で重ねた手に力を入れなかった。布地に皺を寄せれば、それだけで周囲は意味を作る。震えれば、負けたのだと言われる。笑えば、強がっていると囁かれる。怒れば、やはり悪女だと頷かれる。


だから、ただ座っていた。


アレクシスは壇上へ上がる途中で、一度だけエレオノーラを見た。その目には迷いがあった。けれど、迷いは罪を止めるほど強くはない。彼はすぐにミリアへ視線を戻し、彼女が不安そうに見上げると、安心させるように小さく頷いた。


その仕草を見て、エレオノーラはようやく理解した。今日この場で何かが終わる。自分が積み重ねてきた年月も、王家と公爵家の間に結ばれていた約定も、彼の中ではすでに別の物語へ置き換えられている。そこではきっと、彼は囚われた心優しい王子で、ミリアは傷つけられた清らかな少女で、自分は二人の前に立ちはだかる冷たい婚約者なのだろう。


物語は、語る者に都合よく形を変える。けれど国を動かすのは物語ではない。署名、証言、記録、責任。そうした逃げ場のないものが、最後には人の言葉を縛る。


エレオノーラは、広間の端に控える学院の記録官へ目を向けた。マティアス・ロウは、式次第を記した書面を手に、いつものように目立たない位置に立っている。地味な男だった。貴族の子女たちが誰も注意を払わないほど、静かに仕事をする人だった。だが、式典の言葉は記録される。王太子が公の場で口にする言葉なら、なおさらだった。


アレクシスが壇上中央に立った。学院長が予定にない動きに戸惑ったように口を開きかけたが、王太子が片手を上げると、広間はすぐに静まった。王族の沈黙には、人を従わせる力がある。たとえそれが、正しさとは別のものであっても。


ミリアは壇の下に留められた。彼女の肩はかすかに震えていた。隣にいた令嬢のひとりが、その背を支えるように寄り添う。まるでこれから裁かれるのはミリアではなく、彼女を傷つけた誰かなのだと、すでに場が決めているようだった。


アレクシスの視線が、まっすぐエレオノーラへ向いた。


「エレオノーラ・ヴァルクレスト」


広間の奥で、誰かが小さく息を吸った。


名前を呼ばれた瞬間、エレオノーラは立ち上がった。椅子を引く音が大きくならないよう、手を添えて静かに戻す。歩き出す前に、襟元の真珠へ一度だけ指先が触れた。母の声が聞こえたわけではない。ただ、背筋を伸ばす感覚だけが、幼いころから身についた祈りのように体に残っていた。


絨毯の上を進む間、左右の視線が開いていく。誰も声をかけない。誰も止めない。かつて友人だと思っていたベアトリス・クラインの姿も見えた。彼女は何かを言いたげに唇を動かしたが、結局、目を伏せた。その沈黙が責めるべきものなのか、恐れと呼ぶべきものなのか、今のエレオノーラには決められなかった。ただ、その沈黙もまた、この場に残るのだと思った。


壇上の前で足を止め、一礼する。王太子に対する礼として過不足のない角度だった。婚約者としてではなく、公爵令嬢として。彼が何を告げるつもりであっても、こちらが礼を失えば、そこから先のすべてを相手に渡すことになる。


アレクシスは、その礼を受けても表情を緩めなかった。むしろ、彼女が取り乱さないことに苛立ったように、眉のあたりがわずかに動いた。


「君には、失望した」


その声はよく通った。練習された演説のように、広間の後ろまで届く声だった。


エレオノーラは答えなかった。問いではない言葉に返す必要はない。


「ミリアに対する数々の仕打ち、身分を盾にした威圧、学院内での孤立を招くような振る舞い。私はこれ以上、君の行いを見過ごすことはできない」


言葉が落ちるたび、広間の空気が動いた。ミリアが小さくしゃくり上げる音がした。取り巻きの令嬢が彼女の肩を抱く。アレクシスはその音を聞き、正しさを与えられたように顔を上げた。


エレオノーラは、静かに彼を見ていた。


数々の仕打ち。身分を盾にした威圧。孤立を招く振る舞い。どれも、形のない言葉だった。日付も、場所も、具体的な行為もない。けれど、感情を動かすには十分なのだろう。人はときに、証拠より先に涙を信じる。涙が嘘だと言いたいのではない。ただ、涙だけで他人の罪を定めるなら、そこに法も秩序もいらなくなる。


「よって、私はここに宣言する」


アレクシスの声が、少し大きくなった。


その瞬間、広間の後方で、別の視線がエレオノーラを捉えていた。北方大公ヴィクトル・アシュベルは、来賓席の端に近い場所で、腕を組むこともなく、ただ静かに立っていた。華やかな王都の貴族たちの中で、彼の礼服は色も飾りも抑えられている。それでも、誰より場に呑まれていなかった。


ヴィクトルは、泣いている少女ではなく、責められている令嬢のほうを見ていた。罪を暴かれた者の顔ではない。助けを求めることを許されないまま、それでも崩れまいとしている者の立ち方だった。王太子の言葉には熱があり、周囲の同調もある。だが、そこに肝心のものが欠けている。


証拠はどこにある。


彼は声には出さなかった。ただ、視線を記録官のほうへ移した。マティアスは筆を止めていない。王太子が何を言ったか、この場で誰がどんな顔をしたか、すべてではなくとも、少なくとも言葉は残る。


壇上で、アレクシスがエレオノーラを見下ろした。かつて婚約者として隣に立つはずだった男が、今は裁く者の顔をしている。


「エレオノーラ・ヴァルクレスト。私は君との婚約を破棄する」


初めまして、ごゅみと申します。


このような形で作品を投稿するのは初めてのため、至らない点もあるかと存じますが、少しでもこの作品を気に入っていただけましたら幸いです。


できる限り毎日更新していきたいと考えておりますので、よろしければお付き合いください。

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