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婚約破棄された悪役令嬢は、白銀の大公に最愛を捧げられる  作者: ごゅみ
第一部 婚約破棄

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第二十四話 扉の中②

王妃府からの先触れが届いてからも、正式な書状はなかなか届かなかった。その間に、オルドリックは家令を通じて王宮へ確認の文を出し、アデライードは過去に王妃府から受けた教育記録の控えを取り寄せた。エレオノーラは直接そのやり取りのすべてを見るわけではない。けれど、父の書斎へ運ばれる封書の数が増え、祖母が午後の茶の時間を短く切り上げる日が続くと、王宮から届くはずの紙が、まだ来ていない今からすでに屋敷の中の時間を少しずつ変えていることは分かった。


数日が過ぎた夕刻、エレオノーラが学院の冊子を閉じ、机の端へ寄せた時だった。窓の外では庭の影が長く伸び、廊下の灯がひとつずつ入れられていくころ、ローレンの足音が近づいてきた。急ぎすぎてはいない。けれど、いつもの取次ぎよりも少しだけ歩幅が詰まっている。


「お嬢様。旦那様より、支度が整い次第、小書斎へお越しになるようにとのお言葉でございます。王妃府より正式な書状が届きました」


ナディアの手がそばで止まった。すぐに動きを戻し、机の上に置かれていた冊子を丁寧にそろえる。エレオノーラは寄せたばかりの冊子の上へ手を置いたまま、しばらく返事をしなかった。来ると分かっていたものだった。先触れもあった。父も祖母も条件を整えると言っていた。それでも、正式な書状という言葉が扉の外から入ってくると、紙の重さは急に実体を持つ。


「すぐに参ります」


声は落ち着いて出た。けれど立ち上がる時、膝に置いていた手が少し遅れた。ナディアはそれを見て、急かさずに、家族の前で正式な書状を確認するのにふさわしい上掛けを取った。布が肩にかかる。軽いはずの布なのに、今日は背筋をまっすぐにさせる重さがあった。


「お嬢様」


ナディアが、留め具を整えながら声を落とした。


「お手元の控えは、お持ちになりますか?」


エレオノーラは机の端を見た。王宮で書いた控えは、薄い革の挟みに収めてある。持っていかなくても、内容は覚えている。けれど、覚えているからこそ、紙としてそばに置きたかった。


「持っていきます」


「かしこまりました」


ナディアは控えを取り、両手で差し出した。エレオノーラが受け取ると、革の表面が指先に触れる。数日前よりも乾いた感触だった。その乾き方に、時間が経ったのだと分かる。


小書斎へ向かう廊下は、夕刻の灯を受けて静かだった。使用人たちの動きは変わらない。けれど、エレオノーラが近づくと、取次ぎの者が扉の前で深く礼をとり、すぐに内側へ声をかけた。扉が開く。中にはオルドリックとアデライードがいた。リュシアンはいない。父の机の上には、王宮の封蝋が押された書状と、それとは別にヴァルクレスト家側で整えた控えが重ねられている。


「お父様。お祖母様」


エレオノーラが礼をとると、アデライードは静かに頷いた。オルドリックは封の開かれた書状へ手を置く。


「王妃府から正式な打診が来た。先触れと大きくは変わらない。だが、文書になった以上、こちらも文書で条件を返す」


「はい」


「内容を確かめる。エレオノーラ、お前も聞きなさい」


父の声は低かった。紙を持ち上げる音が、小書斎の中へ落ちる。エレオノーラは椅子に座り、膝の上に控えを置いた。開かない。ただ、そこにあることを確かめる。


オルドリックは封の開かれた書状を手に取り、紙面へ一度目を落としてから読み上げた。


「王妃府ならびに王宮文書局の監督のもと、春季北方調整に関わる記録の一部確認を、王太子妃教育の一環として、エレオノーラ・ヴァルクレスト嬢へ打診する。確認対象は、施療所照合の写し、薬草受領記録の控え、王都倉庫より出される荷の目録、街道補修承認に関わる一部書類とする。神殿側記録については、王妃府を通じて閲覧範囲を定める。日程は王妃府が調整し、王太子殿下の婚約者としての公務を妨げぬよう配慮する」


父の声が紙から離れると、小書斎の中にしばらく沈黙が残った。エレオノーラは、膝の上の控えへ指を置いた。施療所照合の写し。薬草受領記録。王都倉庫。街道補修。報告の間では地図の上にあったものが、今は王妃府の書状の中で並んでいる。並べられると、整って見える。だが、整って見えるからこそ、どこまで見られるのか、どこから見られないのかも、同じ紙の中に隠れているようだった。


オルドリックは、ヴァルクレスト家側で整えた控えを開いた。こちらから返す条件は、先日話した通りだと低く告げてから、書面の上を指で押さえる。王妃府の監督下であること。文書局の写しを扱う範囲を事前に示させること。神殿側記録へ触れる場合は、閲覧日、閲覧者、写しの所在を残すこと。ヴァルクレスト家にも、エレオノーラが確認した文書名の控えを残すこと。王太子妃教育および王太子殿下の婚約者としての公務と衝突する場合は、王妃府を通じて事前に日程を調整すること。父の声は一つずつ確かめるように続き、条件は、エレオノーラを王宮の紙の前へ一人で立たせないための形になっていた。


「それでよろしいでしょう」


アデライードが言った。


「加えて、初回は必ず王妃府の女官または文書局の官が同席すること。エレオノーラ一人に、判断を預けないこと」


オルドリックは頷いた。


「入れてある」


その言葉に、エレオノーラは膝の上の控えへ置いた指を少しだけ曲げた。守られているのだと分かる。けれど、守られているから軽いわけではない。むしろ、父と祖母がここまで条件を重ねるからこそ、自分が触れるものがただの学びではないことが見えてくる。


「エレオノーラ」


父が名を呼んだ。


「改めて聞く。受けるか?」


前にも問われた。自分は受けたいと言った。けれど、今日の問いは同じではない。先日は先触れだった。今は王宮の正式な紙が机の上にある。自分の名がそこに書かれ、父が返す条件も整えられている。


エレオノーラは控えを開いた。薬草、受領、照合。自分の字がそこにある。王宮の報告の間で、喉の奥の緊張を押さえながら書いた字だった。紙を見ていると、あの時のヴィクトルの声、ユリウスの確認、アレクシスの戸惑った声が、同じ部屋に戻ってくるようだった。けれど、ここはヴァルクレスト家の小書斎で、目の前にいるのは父と祖母だ。今、答えるのは自分だった。


「受けたいと思います」


言うと、声は思っていたより静かに落ちた。


「ただし、お父様とお祖母様が整えてくださる条件のもとで。私は、王宮から求められたからそのまま従うのではなく、今日聞いたものがどの紙に残り、どこで止まり、どこで荷へつながるのかを、自分の目で確かめたいと思います」


アデライードの目元がわずかにやわらいだ。オルドリックはすぐには頷かなかったが、その沈黙は否定ではなかった。父は書状を机へ戻し、エレオノーラの顔を見た。


「分かった。ヴァルクレスト家として、その条件を添えて受ける」


「はい」


「ただし、無理をして整った顔を作る必要はない。分からぬ文書は分からぬと言いなさい。見てはならぬものを見せられそうになれば、そこで止まりなさい。王宮の紙は、きれいに整っているほど、どこへ運ばれるか分かりにくいことがある」


「承知いたしました」


アデライードが続けた。


「それから、王太子殿下の側のことを、自分の中で乱暴に処理しないことです。神殿へ向かわれることも、民の前へ立たれることも、王太子としての務めです。けれど、あなたがそこから外されたように感じた痛みを、恥じる必要はありません。痛みを隠して平気な顔をすれば、あとで聞くべきものを聞き落とします」


エレオノーラは、膝の上の紙を見た。慈善視察の草案も、寄進目録も、自分が目を通してきた。アレクシスが神殿施療院へ向かうことを否定したいわけではない。ミリアを責めたいわけでもない。それでも、自分の名がそこにないと聞いた時、胸の奥に小さく残ったものは確かにあった。


「はい。平気なふりだけで済ませないようにいたします」


その返事をした時、扉の外で小さな足音が止まった。取次ぎを待つ気配ではない。もっと遠慮がちで、けれど中の声を聞き逃すまいとしている気配だった。オルドリックが扉へ目を向ける。


「リュシアン」


扉の向こうで、はっきり息を呑む音がした。


「……父上。入ってもよろしいでしょうか?」


「聞いていたな?」


「聞こえてしまいました!」


「では、聞いていたのだな」


「……はい!聞いていました!」


アデライードが小さく息を吐いた。エレオノーラは少しだけ目を伏せた。扉が開くと、リュシアンはきちんと礼をとって入ってきた。前回よりも声は抑えようとしている。けれど、顔には隠しきれない明るさが浮かんでいた。


「姉上!正式な書状が来たのですね!?そして姉上は受けるのですか?条件つきで!父上とお祖母様がきちんと条件をつけてくださるなら私はさらに安心です!姉上が北方調整の記録補佐に携わるなら、王宮の方々にも姉上をただの婚約者席の飾りのように扱わないでいただきたいです!」


「リュシアン」


オルドリックの声が低くなる。


「王宮の者に無礼な言い方をするな」


「はい父上!無礼ではなく礼を尽くして申し上げます!」


「口調を改めろ」


リュシアンは少しだけ口を閉じたが、すぐに姉へ向き直った。


「でも私は本当に嬉しいです!姉上は王太子殿下の横にただすえられるだけの方ではありません!神殿へ行くことが殿下のお役目なら、殿下が行けばよいのです!姉上は北方の橋も薬も記録も、きちんと受け止めて考えられる方です!もちろん私は姉上がどこにいらしても素晴らしいと思っていますが、北方調整の記録補佐に携わる姉上は、とても姉上らしいです!」


アデライードの目がリュシアンへ向いた。リュシアンはすぐに背筋を伸ばす。


「……王太子殿下への礼は失っておりません」


「ぎりぎりです」


「はい!」


その返事には反省よりも勢いが多かった。エレオノーラは、今度は少しだけ笑ってしまった。声には出さなかったが、唇の端がゆるむ。リュシアンはそれを見て、さらに明るい顔になった。


「姉上が笑われました!では今日は良い日です!」


「よい日かどうかは、返書を出してからだ」


オルドリックが低く言うと、リュシアンは慌てて口を閉じた。アデライードの目元がわずかにやわらぎ、小書斎の空気が少しだけほどける。王宮の書状は机の上にあり、条件を返す文もまだ未完成だ。何も軽くはなっていない。それでも、息をできる場所が家の中にあることを、エレオノーラは確かに感じた。


オルドリックは、ローレンを呼び、条件を添えて受ける旨の返書を整えるよう命じた。ローレンは書状を受け取り、必要な控えを確認してから静かに下がった。扉が閉まると、アデライードはエレオノーラへ視線を戻す。


「初回の日程は、王妃府から改めて来るでしょう。それまでは、今日の控えをもう一度読み直しておきなさい。ただし、読みすぎて紙の中へ沈まないこと。紙の外にあるものを見るために読むのです」


「はい」


エレオノーラは控えを閉じた。革の挟みを両手で包むと、指先に馴染んだ感触が返ってくる。


小書斎を出たあと、自室へ戻るまでの廊下で、リュシアンは何度も何かを言いたそうにしては、父の言葉を思い出したように口を閉じた。結局、自室の前まで来たところで、耐えきれなくなったらしい。


「姉上!」


「はい」


「私は王太子殿下を王太子殿下としては尊重しています!」


「ええ」


「ですが姉上の夫としてはまだ一切認めておりません!」


ナディアが背後で息を止めた。エレオノーラは一瞬、返事を失った。リュシアンはあまりにも真剣な顔をしている。


「リュシアン、それはお父様とお祖母様の前では言わないほうがよいと思います」


「はい!ですから今申し上げました!」


「今もあまりよくありません」


「ですが姉上には知っておいていただきたいのです!姉上が北方調整の記録補佐に携わることを私は喜んでおります!王太子殿下の横にいるより嬉しいと言えば叱られるので言いません!ですが心の中ではかなり言っています!」


「ありがとう。けれど、殿下への礼は忘れないでください」


「忘れません!礼は守ります!認めるかどうかは別です!」


エレオノーラは返す言葉を探した。リュシアンのまっすぐな目を見ていると、幼いころ、夜中に目を覚ました弟が、寝台の上で姉の名を呼んだことを思い出した。母の声を知らないリュシアンは、寂しいという言葉を覚えるより先に、部屋に誰がいるかを確かめる癖を持っていた。乳母や侍女がそばにいても、エレオノーラが扉の近くに立つと、泣きそうに強ばっていた顔が少しずつほどけた。


小さな手は、まだ上手にものを握れなかった。それでも、エレオノーラが差し出した指だけは離したがらなかった。寝かしつけの言葉も、母のように柔らかくはなかったかもしれない。ただ名前を呼び、ここにいると繰り返すことしかできなかった。それでもリュシアンは、その声を聞くと少しずつ呼吸を落ち着け、握った指をゆるめないまま眠った。


今のリュシアンはもう、寝台の上で姉の指を探す幼子ではない。礼を覚え、祖母に叱られれば言葉を飲み込み、父の前で背筋を伸ばす。それでも、姉が軽く扱われることを嫌がる時の目には、幼いころ、そこにいるかを確かめていた時と同じ必死さが残っていた。


エレオノーラは少しだけ笑い、弟の髪へ手を伸ばした。幼いころよりも少し硬くなった髪に指先が触れると、リュシアンは一瞬だけ目を丸くし、それから背筋を伸ばしたまま、どうにか口元を引き締めようとした。けれど、その努力はほとんど続かず、頬も目元も見る間にゆるんでいった。


「あなたがそう思ってくれていることは、覚えておきます」


リュシアンは、それだけで十分だったらしく、胸を張った。


「はい!」


ナディアが扉を開ける。エレオノーラは部屋へ入り、机の前へ向かった。夕刻に替えられた灯が、机の端を淡く照らしている。王宮の控えを机へ置き、その隣の小さな抽斗へ手を伸ばした。古い紙は、そこにある。幼いころ、自分の手で書いた紙。橋、砦、道、薪、薬、冬、忘れるな。


すぐには取り出さなかった。抽斗の取っ手に指をかけたまま、エレオノーラは机の上の控えを見る。王宮の紙。自分の字。これから届く王妃府の日程。北方へ向かう荷の目録。まだ見ていない記録。すべてが急に目の前に揃ったわけではない。けれど、ひとつずつ近づいている。


忘れるな。


その言葉は、誰かを思い出すためだけのものではなかった。橋がどこにあり、道がどこで止まり、薬が誰の手へ届き、記録がどこで途切れるのかを、途中で手放さないための言葉でもあった。


エレオノーラは抽斗から手を離し、王宮の控えをそっと閉じた。今日はまだ、幼いころの紙を取り出さない。今は、今の紙を読まなければならない。灯の光が机の端に落ち、控えの革を静かに照らしている。次に王宮へ向かう時、自分はただ聞き取れた言葉を持ち帰る子どもではない。王太子の隣で整えるだけの令嬢でもない。王宮の紙に書かれた数字と、北方へ届く荷の間にあるものを確かめるために、記録補佐としてその場へ加わるのだと、エレオノーラは静かに息を整えた。

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