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婚約破棄された悪役令嬢は、白銀の大公に最愛を捧げられる  作者: ごゅみ
第一部 婚約破棄

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第二十四話 扉の中①

屋敷へ戻るころには、王都の春の光は朝よりも濃くなっていた。馬車の窓から見える街路の木々は、風を受けるたびに若い葉を揺らし、石畳の上には薄い影が流れていく。エレオノーラは膝の上に置いた控えの紙を両手で押さえていたが、もうその紙を開こうとはしなかった。王宮の控えの間で何度も触れた端は、手袋越しにも少しやわらかくなっているように思えた。薬草、受領、照合。そこに書いた文字は変わらないはずなのに、屋敷へ戻る道の揺れの中では、朝に王宮へ向かった時よりもずっと遠い場所から持ち帰っているもののように感じられた。


向かいに座るオルドリックは、馬車の中で長く言葉を置かなかった。王宮で伝えるべきことは伝えた、という沈黙だった。問いを避けているわけではない。けれど、馬車の揺れと車輪の音の中で、これ以上の言葉を急いで重ねるべきではないと知っている人の沈黙でもあった。エレオノーラも、聞き返さなかった。アレクシスが神殿施療院とミリアの実地活動へ向かうこと、自分には北方調整の記録補佐が打診されていること、マルヴィン侯爵の名が父の口から出たこと。そのどれも、言葉にすればするほどすぐ形が決まってしまいそうで、まだ胸の中で折らずに持っていたかった。


馬車が屋敷の門をくぐると、庭の空気が王宮とは違う匂いを運んできた。磨かれた石床と紙と墨の匂いではなく、土と水と、朝に替えられた花の匂いがする。玄関前で馬車が止まり、従僕が扉を開けた。オルドリックが先に降り、エレオノーラへ手を差し出す。その手に支えられて地面へ足を下ろした時、王宮の廊下で聞いた足音がまだ耳の奥に残っていたことに気づいた。自分はもう屋敷へ戻っている。それでも、王宮の奥で誰かが扉を開け、別の紙を持って別の部屋へ入っていく気配は、控えの紙と一緒に手元へついてきているようだった。


玄関広間にはローレンが控えていた。黒い家令服を隙なく整え、礼をとる角度もいつもと変わらない。だが、オルドリックの顔を見ると、目だけが一度わずかに動いた。


「旦那様。大奥様が小書斎にてお待ちでございます」


「分かった。エレオノーラも来なさい」


「はい」


ナディアが近くで控えていた。エレオノーラの外套を受け取り、手袋の具合を確かめるように指先へ目を落とす。その動きはいつも通り丁寧だったが、エレオノーラが控えの紙を手放さないことに気づくと、何も言わずに半歩だけ下がった。エレオノーラは小さく頷き、父の後ろについて小書斎へ向かった。


廊下を歩くうちに、屋敷の音が少しずつ戻ってくる。遠くで扉が開く音、侍女が布を運ぶ足音、どこかの部屋で低く交わされる使用人たちの声。王宮の音とは違う。けれど、今日のエレオノーラには、どの音もただの生活の音ではなく、屋敷という一つの家が、外から持ち帰られた話を受け止めるために静かに身構えている音のように聞こえた。


小書斎の扉が開かれると、アデライードは窓に近い椅子に座っていた。エレオノーラが礼をとると、祖母はすぐに椅子を示した。


「戻りましたね。まず座りなさい。立ったまま聞く話ではないでしょう」


「はい、お祖母様」


オルドリックは机のそばに立ち、ローレンが扉の外へ下がるのを待ってから、王宮で伝えられたことを順に話した。エレオノーラは椅子に腰を下ろし、控えの紙を膝の上へ置いたまま聞いた。春季北方調整が王都側で正式に進められること。ヴィクトルが王都に残ること。アレクシスは神殿施療院の春季慰問とミリアの実地活動確認へ向かう話が進んでいること。そしてエレオノーラには、春季北方調整の記録補佐が打診されたこと。


アデライードは途中で遮らなかった。オルドリックの声が終わっても、すぐには何も言わない。窓の外で庭の葉が揺れ、机の上に置かれた硝子の文鎮の中で光が少し動いた。エレオノーラは祖母の横顔を見つめた。厳しい言葉が来るのか、それともすぐに拒むと言うのか、自分でも何を待っているのか分からないまま、膝の上の紙へ触れていた。


やがてアデライードは、低く息を吐いた。


「北方調整そのものは、断る話ではありませんね」


その言葉は、エレオノーラの胸へまっすぐ入ってきた。拒むという答えではなかった。けれど、受け入れなさいと急かす声でもなかった。


「母上」


オルドリックが呼ぶと、アデライードは息子へ目を向けた。


「分かっています。打診をそのまま飲めと言っているのではありません。けれど、そこで学ぶものは確かにあります。エレオノーラが今日、報告の間で口にしたことが王宮に残ったのなら、その続きを見る機会でもあるでしょう」


エレオノーラは、膝の上の控えを見た。祖母の言葉は、王宮で言われたものとは違っていた。王太子妃教育の一環。地方統治の記録に触れさせたい。その言葉も間違ってはいないのかもしれない。けれど祖母は、エレオノーラが今日何を聞いたかを見ている。自分が口にしたことの続きを見る機会。そう言われると、北方調整の記録補佐という言葉が、少しだけ別の重さを持った。


「私は……嫌だとは思っておりません」


言葉にするまで、少し時間がかかった。アデライードもオルドリックも急かさない。だからエレオノーラは、自分の声がどこで詰まるのかを確かめながら続けた。


「今日の報告で、私にはまだ分からないことが多くありました。王都を出た量と、施療所で受け取られた量が違うかもしれないこと。補給荷と施療荷と商人荷を同じ許可にしてしまえば、必要なものが先に届くとは限らないこと。言葉としては聞きましたが、実際の記録がどう残され、どこで照合されるのかは、まだ見ておりません。見ることが許されるなら、見たいと思います」


言ってから、エレオノーラは自分の指が紙の端を強く押していたことに気づいた。指先を少しゆるめる。声は震えていないはずだった。けれど、心のどこかで、別の言葉も同時に揺れている。


「ただ……」


そこで声が止まった。アレクシスの名を出すべきか迷った。出さないままにすれば、きれいに済む。北方調整を学びたい。それだけで話はまとまる。けれど、胸の奥に残っている小さな引っかかりを隠したままでは、祖母の前で顔を上げられない気がした。


「アレクシス殿下のお側で、慈善視察や寄進目録を整えるものだと思っておりました。神殿施療院のことも、春の慈善視察の草案も、これまで私が確認してきたものです。殿下がそこへ向かわれることは自然だと分かります。けれど、そこに私の名がないことを、何も思わずには受け取れませんでした」


小書斎の中が静かになった。外から鳥の声が一度聞こえ、すぐに遠ざかる。オルドリックは何も言わなかった。アデライードは、膝の上で重ねていた指を少しだけ動かした。


「それを言えたなら、よろしい」


「よろしい、のでしょうか」


「ええ。嫌ではないものと、痛まないものは同じではありません。北方調整を見たいと思うことと、王太子殿下のお側にあると思っていたものが、別の場所へ流れていくように感じることは、同時にあってよいものです。どちらかだけを正しいものとして残す必要はありません」


エレオノーラは、祖母の言葉をすぐに返せなかった。痛みというほど大きなものではない。けれど、何もないふりをできるほど小さくもない。その曖昧なものを、祖母は消さずに置いてくれた。エレオノーラは控えの紙へ目を落とした。自分が見たいと思ったものはここにある。けれど、慈善視察の草案と寄進目録も、自分の手が触れてきたものだった。


その時、廊下の向こうから足音が近づいてきた。軽く、少し急いでいる。ローレンが外で低く何かを告げる声がし、そのあと、待ちきれなかったように高めの声が重なった。


「父上!お祖母様!姉上はもうお戻りですか!」


オルドリックが眉をわずかに動かした。アデライードは目元だけで、来ると思っていました、という顔をした。扉の外でローレンが静かに制している気配があったが、リュシアンの声はそこで止まらなかった。


「お見舞いではありません!お祝いでもありません!ですが姉上が王宮からお戻りになったなら私は確認しなければなりません!今日の姉上は王宮でどれほど素晴らしく聞きどれほど正しく言葉を置かれたのか私はまだ聞いておりません!」


「リュシアン」


オルドリックの低い声が扉へ向いた。


「入る前に、呼吸を整えろ」


「整えました!」


「今の声は整っていない」


「ではもう一度整えます!」


扉の向こうで、本当に深く息を吸う音がした。エレオノーラは思わず控えの紙から顔を上げた。胸にあった硬いものが、ほんの少しだけ揺れる。アデライードがローレンへ入室を許すと、扉が開き、リュシアンがきちんと礼をとって入ってきた。姉を見つけた瞬間、礼の形を崩さないまま、顔だけが明るくなった。


「姉上!お戻りなさいませ!王宮の方々は姉上のお話をきちんと聞きましたか!聞いたのですね!そうでなければ父上がこのようなお顔で戻られるはずがありません!姉上がただ美しく座っているだけではないことを王宮がようやく少しでも理解したなら私は今日の王宮を少しだけ評価してもよいです!」


「リュシアン」


オルドリックの声が落ちる。


「少しだけ、という言い方を王宮に向けるな」


「ではかなり慎重に評価します!」


「評価しなくてよい」


アデライードが口元をわずかに押さえた。笑ったわけではない。けれど、完全に厳しい顔でもなかった。エレオノーラは弟の勢いに少し驚きながらも、声をかけた。


「リュシアン、今は王宮からの打診について話していたのです」


「打診ですか!姉上にですか!」


「春季北方調整の記録補佐です。王太子殿下は、神殿施療院の慰問と、聖女候補の実地活動確認へ向かわれるそうです」


リュシアンは一瞬だけ目を丸くした。それから、驚くほど明るく顔を輝かせた。


「北方調整!姉上が!それは素晴らしいです!王太子殿下が神殿へ行かれるならそれはそれでよいのではありませんか!殿下には殿下のお役目があります!姉上には姉上にふさわしいお役目があります!姉上をただ王太子殿下の横にすえるだけなど私はそもそも納得しておりません!もちろん隣に立って微笑まれるだけでも王国の花が全部負けますが!姉上は記録を読めます!数字も見られます!人が聞き流したところを拾えます!北方の橋も薬も施療所も姉上が見るならその紙はただの紙ではなくなります!」


「リュシアン、声を落としなさい」


「はい父上!ですが私は嬉しいです!姉上が北方調整を見ることは大切です!私はそれを誰にも小さく言わせたくありません!」


「リュシアン」


今度はアデライードの声だった。


リュシアンはぴたりと口を閉じた。勢いで進んでいた肩が、少し下がる。それでも目はまっすぐだった。


「お前の姉を大切に思う気持ちは分かります。けれど、王太子殿下は姉の婚約者です。その立場を軽んじる言葉を、家の中であっても粗く扱ってはなりません」


リュシアンは唇を引き結び、少しだけ目を伏せた。


「はい。お祖母様」


声は先ほどより小さかった。けれど、リュシアンの目はまだ納得していなかった。アレクシスを王太子として軽んじているわけではない。けれど、姉の夫になる人として受け入れているかと問われれば、リュシアンはおそらく迷わず首を横に振る。エレオノーラは、その正直すぎる目を見て、叱るべきか慰めるべきか分からないまま、少しだけ困ったように微笑んだ。


「リュシアン、私は殿下のお役目を軽く思ってはいません。神殿施療院へ向かうことも、民の前へ出ることも、大切なことです」


「分かっています姉上!分かっています!ですが姉上が北方調整を見ることも大切です!私はそれを誰にも小さく言わせたくありません!」


その言葉には、さきほどまでの勢いとは違う熱があった。リュシアンは姉を褒めたいだけではない。姉がしてきたことを、誰かの横にあるものとして薄く扱われることが嫌なのだ。エレオノーラは胸の奥が少し温かくなり、それと同時に、弟の言葉に甘えすぎてはいけないとも思った。リュシアンの明るさは救いになる。けれど、王宮からの打診をただ喜ぶだけで受け取るには、まだ見るべきものが多い。


「ありがとう。けれど、まだ決まったわけではありません。お父様が、ヴァルクレスト家として持ち帰ってくださいました」


「父上!」


リュシアンは父へ向き直った。


「それはとても正しいです!姉上のお役目は王宮が勝手に決めてよいものではありません!姉上がどこに座り何を見るかは姉上とヴァルクレスト家がきちんと考えるべきです!」


「お前が言うと、王宮への抗議文のようになる」


「必要なら書きます!」


「必要ない」


オルドリックの返事は低かったが、どこか少しだけ疲れたような温度も混じっていた。アデライードが静かにリュシアンを見た。


「お前は、姉が北方調整へ関わることを喜ぶのですね」


「はい!お祖母様!姉上は昔から北方の言葉を忘れませんでした!橋!砦!道!薪!薬!冬!姉上の机にあった紙を私は見たことがあります!もちろん勝手に見たわけではありません!姉上が見せてくださった時です!あの言葉が今の姉上の手元へ戻ってくるなら私は嬉しいです!それに姉上が王太子殿下の横にただ置かれるより北方調整の記録を見るほうがずっと姉上らしいです!私はそちらのほうがよほど安心できます!」


エレオノーラは息を止めかけた。幼いころの紙のことを、リュシアンがそんなふうに覚えているとは思っていなかった。橋、砦、道、薪、薬、冬。忘れるな。あの紙は、幼い自分が分からないまま持ち帰った言葉だった。今日、王宮で聞いた報告は、その言葉の続きを見せた。今、王宮からの打診は、その続きを記録の中で見るかもしれないところまで近づいている。


アデライードはリュシアンをしばらく見ていたが、やがてエレオノーラへ視線を移した。


「リュシアンの言い方は少し騒がしいですが、覚えていること自体は間違いではありません。あなたは、北方の言葉を一度持ち帰りました。今日もまた、別の形で持ち帰っている。ならば、受けるかどうかを考える時に、自分が何を見たいのかを抜きにしてはなりません」


「はい」


「王太子殿下の隣にいることも、北方調整の記録を見ることも、どちらか一つだけであなたを決めるものではありません。けれど、王宮から来た話を受けるなら、ただ流れに従って座るのではなく、自分の目で見るために座りなさい」


その言葉は、説教ではなかった。椅子に座ること、記録を見ること、紙を読むこと。そのすべてが、ただ与えられた場所にいるだけではなく、自分の目で見ることへつながっているのだと、祖母は言っている。エレオノーラは膝の上の控えを静かに押さえた。


「私は、見たいです」


今度は、先ほどよりはっきりと言えた。


「北方調整を、見たいです。今日の報告で聞いたことが、どの紙へ移り、どこで承認され、どの荷に変わるのかを見たいと思います。殿下のお側を離れるように感じることが、まったく痛まないわけではありません。けれど、それだけで北方調整を見ないことにするのは、違うと思います」


言い終えると、小書斎の中の空気が少しだけ変わった。オルドリックは目を細め、アデライードは静かに頷いた。リュシアンは口を開きかけたが、祖母の視線に気づいて必死に閉じた。その努力が顔に出すぎていて、エレオノーラは今度こそ少し笑いそうになった。


「リュシアン、言ってよいですよ」


エレオノーラがそう言うと、リュシアンは目を輝かせた。


「姉上はやはり素晴らしいです!痛むことも見たいことも両方きちんと言えるのですから!私は姉上が北方調整を見ることに大賛成です!王宮の方々には姉上がどれほど真剣に紙の向こうを見る方かしっかり分かっていただきたいです!」


「そこまでにしなさい」


オルドリックが言うと、リュシアンはすぐに姿勢を正した。


「はい父上!」


その返事にも勢いがあり、ローレンが扉の外でわずかに身じろぎした気配がした。小書斎に少しだけ空気が戻る。重い話が軽くなったわけではない。けれど、息ができる隙間ができた。


その隙間に、廊下から静かな足音が近づいた。ローレンが扉の外で取次ぎを告げる。


「旦那様。王妃府より、後日あらためて正式な書状を届けるとの先触れがございました」


オルドリックはすぐに返事をしなかった。エレオノーラは控えの紙を持つ手をゆっくり閉じる。話していたものが、まだ正式な書状ではなく、その前触れとして屋敷へ届いたのだと分かった。アデライードも背筋をわずかに伸ばす。


「分かった。受け取っておけ」


「かしこまりました」


ローレンの足音が扉の外から遠ざかる。小書斎の中には、また静けさが戻った。正式な文はまだ届いていない。けれど、後日届けられるという先触れが来た以上、王宮の中で話はもう次の紙へ移されているのだろう。エレオノーラは膝の上の控えを見下ろした。王宮で書いた文字は、まだ自分の手元にある。けれど、王宮のどこかでは、別の筆が、別の紙に、自分の名を書こうとしている。


オルドリックが静かに言った。


「正式な書状が届くまでに、こちらの条件を整える。今日はここまでだ」


「はい、お父様」


エレオノーラは頷いた。アデライードも小さく頷き、リュシアンは何か言いたそうにしたが、今度は自分で息を吸ってこらえた。その様子を見て、エレオノーラは少しだけ目元をやわらげた。


まだ何も決まっていない。けれど、何も始まっていないわけでもない。王宮から持ち帰った控えの紙と、王妃府からの先触れ。その二つの間で、北方調整という言葉は、もうエレオノーラの中にただの報告としてではなく、これから自分が見に行くものとして残り始めていた。

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