第二十三話 扉の先から
扉が開く前に、外側で控えていた侍女が一度、低く応じる声を出した。父の戻りを知らせる声ではなかった。続いて軽い衣擦れがして、先ほどとは別の若い侍女が盆を持って入ってくる。盆の上には新しい水差しと、湯気の細い茶器があり、その脇に小さく畳まれた布巾が添えられていた。エレオノーラが立ったままでいると、王妃府の侍女は盆を卓へ置き、深く礼をとった。
「お待たせしております。公爵閣下のお戻りには、もう少しお時間を頂戴するかと存じます」
「ありがとうございます」
エレオノーラはそう答えてから、もう一度椅子へ腰を下ろした。侍女が水差しを替える音は、先ほどより近く聞こえた。陶器が卓へ触れるかすかな音、布巾で杯の縁を確かめる指の動き、茶器の蓋がほんのわずかに鳴る音。控えの間の中では、それらの小さな音だけがゆっくり続いている。報告の間では、ひとつの言葉に文官の筆が止まり、王の視線が地図へ落ち、ヴィクトルの指が細い道を示した。ここでは、誰も地図を広げない。けれど、扉の向こうで人が呼ばれ、別の部屋で紙が動いている気配だけは、廊下の奥から薄く伝わってくる。
茶を勧められ、エレオノーラは礼を言って杯を受け取った。熱すぎないように整えられている。王妃府の者らしい気遣いだった。唇へ運ぶと、香りは淡く、喉を通るころには、報告の間で声を出したあとの乾いた感触が少しだけほどけた。だが、落ち着くために飲んでいるはずなのに、指は杯の縁をいつもより丁寧になぞってしまう。父が戻らない時間が長くなればなるほど、エレオノーラの手元には余計な動きが増えた。
机の上の白い紙は、まだ白いままだった。筆も戻した位置から動かしていない。書けば、さきほどまで聞いていたことを自分の中へ整えられるかもしれない。けれど、整えてしまえば、まだ扉の向こうで形を変えているものまで、自分の都合のよい線で囲ってしまう気がした。父は、焦るなと言った。誰がその言葉を受け取り、どこへ持っていくのかを見ることだ、と。その声を思い出すと、筆を取ろうとする手は止まる。エレオノーラは代わりに、閉じた控えの端へ指を置いた。
廊下で、今度は少し重い足音がした。侍従の靴音だろう。控えの間の前で止まらず、少し先で止まり、低い声が二つ重なった。扉越しでは言葉までは聞き取れない。けれど、返答の間合いだけで、急ぎの伝言ではなく、誰かを別の部屋へ案内する前の確認だと分かる。やがて足音は遠ざかり、廊下の奥で扉が開く音がした。その音が閉じるまで、エレオノーラは杯を持ったまま動かなかった。
「お茶をお替えいたしましょうか?」
控えていた侍女の声に、エレオノーラはようやく杯の中へ目を落とした。ほとんど減っていない。
「いいえ、このままで十分です。ありがとうございます」
「かしこまりました」
侍女はすぐに下がった。余計に話しかけない。そのことがありがたくもあり、かえって扉の向こうへ耳が向いてしまうのを止められなくもあった。エレオノーラは息を整え、控えの紙を開いた。薬草、受領、補給荷と施療荷を分けた線。そこへ視線を落とすと、アレクシスが寄進を増やすことへ目を向けた時の声が戻ってきた。
アレクシスの声には、責めるところがなかった。困っているところへ多く送ればよいと考える明るさは、彼らしいものだった。幼いころから、アレクシスは見えたものへすぐに手を伸ばそうとする。誰かが困っていると言えば、助けたいと思う。その気持ちは軽く扱ってはいけない。けれど、今日の報告の間で、ヴィクトルの指が示していたのは、手を伸ばす先だけではなく、そこへ届くまでの道だった。王都、神殿、中継所、施療所。アレクシスの善意と、ヴィクトルの見ている道の長さが、同じ地図の上で並んでいた。
けれどそれを比べてはいけない。比べてしまえば、どちらかを軽くするようで、胸の奥が少し痛む。アレクシスは、分かろうとしていた。彼が「増やす前に届いているかを見るのか」と呟いた声には、遅れて理解した時の戸惑いがあった。その戸惑いを、エレオノーラは嫌いではない。けれど、彼が気づくためには、いつも誰かが横から道を示さなければならなかった。今日、それをしたのはヴィクトルの報告であり、ユリウスの確認であり、自分の言葉だった。
杯を卓へ戻すと、茶器の縁が小さく鳴った。エレオノーラはその音に少しだけ肩を落ち着け、王宮の庭へ視線を向けた。若葉の影は窓辺の石床をゆっくり移っている。父が入った別室の中では、いま何が話されているのだろう。春季北方調整の範囲、王宮文書局、財務局、商務、神殿側の記録担当。報告の間で出た言葉がそのまま並んでいるのか、それとも別の名が加わっているのか。エレオノーラには見えない。見えないからこそ、勝手に決めてはいけない。女官も、誰の手を通るのか気をつけるようにと言った。
扉の外で、若い声がした。はっきり聞こえたわけではない。けれど、王宮侍従が誰かを呼ぶ時の改まった響きのあとに、少し明るい返事が続いた。エレオノーラは顔を上げかけて、途中で止めた。王妃府の控えの間で、扉の外の声に反応しすぎるのはふさわしくない。けれど、耳は勝手にその声を追ってしまう。明るく、どこか人を安心させようとする温度。その響きに触れた瞬間、報告の間で少し困ったように笑っていた青い瞳が、胸の奥へ戻ってきた。
エレオノーラは視線を落とした。控えの紙の上には、さきほど自分が書いた薬草と受領の文字がある。扉の外の声はもう遠ざかっていたのに、その明るさだけが、報告の間で聞いたアレクシスの声と重なって残った。施療所、神殿、慈善視察。今日の報告の中に出てきたその言葉は、どれもアレクシスが手を伸ばしやすい場所へ続いている。
エレオノーラは、控えの紙の端を押さえた。自分はどうだろう。さきほど発言したからといって、何かがすぐに変わるわけではない。王太子の婚約者として慈善視察の草案と寄進目録を見ている。学院の講話の席次も、茶会の名簿も、施療院への寄進も、どれもアレクシスの隣に立つためのものだった。けれど今日、エレオノーラが口にした言葉は、アレクシスの隣に立つためだけの言葉ではなかった。
扉の向こうの廊下が、また静かになった。さきほど通った声はもう遠い。エレオノーラは息を吸い、卓の上の白い紙を見た。書きたいことはいくつもある。けれど、どれもまだ自分の言葉として定まらない。王都を出た量。届くまで見ること。誰の手を通るのか。アレクシスの善意。ヴィクトルの報告。ユリウスの確認。王妃の沈黙。それらを一度に書こうとすれば、かえって何かを落とす。
エレオノーラは筆を取らず、代わりに控えの紙をそっと閉じた。紙の角が卓に触れ、少しだけ音を立てる。その音が思ったより大きく聞こえて、エレオノーラは指先を止めた。控えの間では、些細な音までよく聞こえる。報告の間の大きな沈黙とは違う。ここでは、自分が杯を置く音も、紙を閉じる音も、呼吸の浅さも、逃げ場なく自分へ返ってくる。
「エレオノーラ様」
控えていた侍女が、扉のほうを見たまま声をかけた。エレオノーラが顔を上げると、侍女は一歩だけ扉へ近づいていた。外側で、誰かが声を潜めている。今度は通り過ぎる足音ではない。控えの間の前で止まっている。
侍女が扉を少し開け、外の者と短く言葉を交わした。侍女の背筋が少し改まり、扉の開き方も先ほどより丁寧になった。
侍女がこちらへ向き直った。
「エレオノーラ様、ヴァルクレスト公爵閣下がお戻りでございます」
エレオノーラは立ち上がった。膝に触れていたドレスの布が静かに落ちる。控えの紙を持つべきか一瞬迷い、机の上に置いたままではいられず、手に取った。紙の端は、先ほど何度も押さえたせいで少しだけ温かくなっている。扉の向こうで、父の低い声が聞こえた。王妃府の侍女が扉を大きく開く。
入室した父の表情は、報告の間を出た時と大きくは変わらない。けれど、エレオノーラはすぐに足を踏み出せなかった。黒に近い上着の肩に、廊下の光が細く落ちている。目元は静かで、声を荒げた跡もない。だが、父が部屋の内側へ一歩入ったあと、ほんのわずかに呼吸を置いた。その短い間だけで、別室で交わされた話が軽いものではなかったことが伝わってきた。
「お父様」
エレオノーラは礼をとった。オルドリックは侍女へ目を向ける。
「少し娘と話す」
「かしこまりました」
侍女たちは深く礼をとり、控えの間の端へ下がった。完全に部屋を空けるわけではない。王妃府の控えの間である以上、必要な距離を置いて控える。それでも、父の声がエレオノーラへ届くには十分な静けさが戻った。
オルドリックは、まずエレオノーラの手元を見た。彼女が控えの紙を持っていることに気づいたのだろう。
「見直していたか」
「はい」
「それでよい」
その言葉を聞いて、エレオノーラは少しだけ指の力を抜いた。オルドリックは腰を下ろさず、窓から入る光の手前で、娘の顔を見ていた。
「陛下との確認は、先ほど終わった」
「はい」
「春季北方調整は、王都側で正式に進めることになる。橋、街道、砦、施療所、薬草、商人通行、倉庫、神殿側の記録。報告の間で出たものは、ほぼそのまま調整対象に入る」
エレオノーラは、控えの紙を持つ手を動かさなかった。報告の間で聞いた言葉が、父の口からもう一度戻ってくる。だが、同じ言葉なのに、今は違って聞こえる。報告の場では、まだ地図の上に置かれていたものが、別室を通って、王都側の正式な調整へ移ったのだ。
「北方大公閣下は……」
「王都に残る。これは報告の場で陛下が求め、北方大公も受けたことだ。そこは変わらない」
父の声は、確認するだけの落ち着いたものだった。エレオノーラはその言葉を聞きながら、報告の間で地図のそばに立っていた白銀の髪を思い出した。
王都の春の光の中でも、ヴィクトルは王都の人間には見えなかった。地図の上へ指を置く時も、王へ礼を向ける時も、彼の中には北方の雪解け水の速さや、砦へ届く荷の順番が、そのまま残っているように見えた。王都に残るというのは、ただ滞在するという意味ではない。北方で動いている春を、そのまま王宮へ持ち込むということなのだと、今は分かる。
オルドリックはそこで一度言葉を切った。窓の外では、遠くで馬車の車輪が石畳を鳴らしている。王宮の庭を抜け、別の棟へ向かうのだろう。控えの間の静けさの中では、その音まで薄く届いた。
「もう一つ、話がある」
エレオノーラは顔を上げた。父の声は変わらない。けれど、先ほど春季北方調整について告げた時よりも、少しだけ慎重に置かれている。
「今回の調整について、王宮側から役割の分担が提案された」
「役割、ですか?」
「ああ。王太子殿下には、春季の神殿施療院慰問、および聖女候補ミリア・フェルトンの実地活動確認を任せる方向で話が進んでいる」
ミリアの名が出た瞬間、報告の間とは別の空気が胸の奥へ戻った。春の講話の日、王太子席の近くで戸惑うように立っていた少女。アレクシスが、あの少女へ向ける時だけ少し柔らかくなる声。神殿施療、慈善、慰問。その言葉へアレクシスが強く反応することを、今日の報告でもエレオノーラは見ていた。
「……そうなのですね」
それしか言えなかった。父は頷く。
「王太子殿下が神殿施療院へ足を運ばれること自体は、王宮の者にも神殿の者にも受け入れられやすい。民の前へ出ること、施療の現場を見ること、聖女候補の働きを確かめること。どれも、王太子殿下の学びとして説明がつく」
エレオノーラは、控えの紙の端をそっと押さえた。神殿の施療院へ向かい、病人や貧しい者の前で言葉をかけ、まだ不慣れな聖女候補の働きを確かめる。そう聞けば、アレクシスが明るく頷く姿はすぐに思い浮かぶ。困っている者の前へ出ることを、彼はためらわない。ミリアが礼の形を少し崩しながら、それでも一生懸命に言葉を探しているところへ、彼が声をかける姿も想像できてしまう。慈善視察の草案も、寄進目録も、これまでエレオノーラが目を通し、整えてきたものだった。それなのに、父の声の中でその仕事は、アレクシスと神殿とミリアのほうへ移っていき、エレオノーラの名はどこにも添えられていなかった。
「そして、お前には春季北方調整の記録補佐を打診された」
「……私に、ですか?」
「今日、お前は記録と受領の照合について陛下の前で発言した。王太子妃教育の一環として、地方統治の記録に触れさせたい、との仰せだ」
エレオノーラは、喉の奥で息を整えた。父の言葉を聞いていると、アレクシスは神殿施療院とミリアの実地活動へ向かい、自分には北方調整の記録補佐が打診されているのだと分かる。どちらも王宮の役目としては成り立つのに、なぜか胸の奥に小さく引っかかった。
「……お父様は、どうお考えですか?」
オルドリックは、すぐには答えなかった。娘の顔を見たまま、少しだけ視線を落とした。窓の外で風が若葉を揺らした。
「北方調整そのものは重要だ。お前が学ぶ価値もある。だが、誰がその役目を勧めたのか、なぜ今その配置を置くのかは、見誤らないほうがよい」
「進言なさった方がいるのですね」
「ああ」
父は短く答えた。
「マルヴィン侯爵だ」
その名を聞いた瞬間、エレオノーラは控えの紙を押さえる指へ少し力が入るのを感じた。グレゴール・マルヴィン侯爵。王太子派の有力貴族として国王の信任を受け、王宮では穏やかな物腰と、財務や神殿との調整に明るい人物として知られている。今日の報告の間にも列席していたが、北方大公の報告中に目立って口を挟むことはなかった。だからこそ、その名が父の口から出たことが、控えの間の空気を少し変えた。
「侯爵は、王太子殿下には神殿側との関係確認が必要であり、お前には北方調整の記録補佐が適任だと進言した」
「……それは、陛下の御前で?」
「王妃陛下も同席されていた」
エレオノーラは、胸の奥で王妃の沈黙を思い出した。報告の間で、神殿側の協力という言葉が出た時、王妃は何も言わなかった。ただ視線だけが少し深くなった。その意味を、今になって少しだけ理解する。
王妃は、おそらく危うさに気づいている。
けれど、北方調整そのものは必要だ。今日の報告を聞いたあとでは、橋も、施療所も、薬草も、王都の机の上だけで終わらせることはできない。そして、自分がそこへ関わる理由も、王宮の言葉としては十分に通ってしまう。
「私は……」
言葉が途中で止まった。何を言おうとしたのか、自分でもはっきりしない。嫌だと言いたいわけではない。北方調整に関わることそのものを拒みたいわけでもない。今日の報告を聞いたあとでは、むしろ、自分の耳で続きを聞きたいと思っている部分もある。
けれど、その分かれ方が何を生むのかを、まったく考えずにいられるほど幼くもなかった。
アレクシスはミリアのそばへ向かう。神殿施療院、慈善、慰問。その場所では、ミリアの未熟さは守るべきものとして映るだろう。そして自分は、ヴィクトルと同じ卓で、北方の記録と補給を追うことになる。
その形を、グレゴールは王宮の中へ静かに置いたのだ。
オルドリックは、娘がすぐに答えないことを責めなかった。
「返答はまだしていない。ヴァルクレスト家として、一度持ち帰ると伝えた」
エレオノーラは、ゆっくり息を吐いた。父がその場で即答しなかったことに、胸の奥が少しだけほどける。
「……ありがとうございます」
「礼を言うのは早い」
父の声は低いままだった。
「これはまだ打診だ。だが、王宮側はすでに動き始めている。お前も、そのつもりでいたほうがいい」
窓の外で風が動き、若葉の影が机の端を揺らした。エレオノーラは手の中の控えを見下ろす。薬草、受領、照合。今日、自分が書いた言葉の並びは変わっていない。けれど、それを読む場所は、もう報告前とは違ってしまった。
王宮の奥で決められていくものは、まだ正式な文書にはなっていない。それでも、アレクシスの向かう先と、自分に差し出された役目は、控えの紙の上で静かに離れはじめていた。




