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婚約破棄された悪役令嬢は、白銀の大公に最愛を捧げられる  作者: ごゅみ
第一部 婚約破棄

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第二十ニ話 扉の先、扉の中

報告の間を出ても、エレオノーラの耳には、まだ羽根ペンが紙を擦る音が残っていた。王宮の廊下は先ほどより明るく、窓から入る春の光が石床の上に細い四角をいくつも落としている。オルドリックは隣で黙って歩いていた。報告の間では一度も振り返らなかった父の背中が、今は横にある。エレオノーラは手にした控えの紙を胸元へ寄せ、折れないように指を添えた。


王妃府の侍女が、曲がり角の少し先で足を止めていた。薄い青灰の衣をまとい、両手を前で重ねている。エレオノーラとオルドリックが近づくと、侍女は深く礼をとった。


「ヴァルクレスト公爵閣下、エレオノーラ様。王妃陛下より、お二方には少し王妃府の控えの間でお待ちいただきたいとのことでございます」


オルドリックの足が、そこで静かに止まった。


「ただいま、陛下が数名の方をお呼びになっております。北方報告に関わる追加の確認であると伺っております」


「私もか」


「はい、公爵閣下には、ほどなく別室へお入りいただくことになるかと。エレオノーラ様には、王妃府側の控えの間でお待ちいただくようにとのお言葉でございます」


エレオノーラは、控えの紙を持つ手に少し力が入るのを感じた。紙の端が手袋の中の指へ当たる。オルドリックは侍女の言葉を聞き終えると、すでに呼ばれた先へ向かう顔になっていた。エレオノーラはその横顔を見てから、自分の案内される控えの間の扉へ目を移した。報告の間で声を出した時の緊張はまだ喉の奥に残っているのに、次に開かれる扉の向こうへ、そのまま一緒に持っていくことはできなかった。


「承知した。案内を」


「かしこまりました」


侍女が歩き出し、エレオノーラは父の隣を進んだ。廊下は報告の間から離れるにつれて、紙と墨の匂いが薄くなり、窓辺に置かれた花の匂いが近くなる。けれど、控えの紙を胸に抱えたまま歩いていると、その花の匂いの中にも、さきほどの地図の上に置かれた小さな印が残っているようだった。北方の施療所、街道の中継所、谷沿いの枝道、砦へ向かう補給荷。線と点でしかなかったものが、ヴィクトルの声を通ったあとでは、紙の中へ戻りきらない。


案内された控えの間は、広すぎず、窓が二つある静かな部屋だった。薄い青の掛け布が置かれた椅子、低い卓、その上の水差しと小さな杯。壁際には書き物に使える細い机があり、新しい紙と筆が整えられている。エレオノーラはその机へ目を向け、すぐに視線を戻した。


控えの間へ入っても、オルドリックはすぐに侍女へ娘を預けなかった。扉が閉まる前に、エレオノーラの名を低く呼ぶ。


「エレオノーラ」


「はい」


「ここで待ちなさい。呼ばれぬ限り、部屋を出る必要はない。王妃府の者がついている」


エレオノーラが頷くと、オルドリックは侍女へ視線を向けた。


「娘を頼む」


「承っております、公爵閣下」


侍女が深く礼をとる。オルドリックが部屋を出ると、扉は音を立てないように閉じられた。厚い扉の向こうで父の足音が遠ざかり、その音が廊下の気配に紛れるころ、控えていた侍女が静かに近づいた。


「エレオノーラ様、お掛けくださいませ。お茶をお持ちしてもよろしゅうございますか?」


「ありがとうございます。けれど、今は水を少しいただけますか」


「かしこまりました」


侍女はすぐに杯へ水を注いだ。水差しの口から細く落ちる音が、部屋の中へ静かに広がる。エレオノーラは椅子に腰を下ろし、控えの紙を膝の上に置いた。杯を受け取ると、冷たさが手袋越しにも伝わった。報告の間で言葉を置く前、自分の指が手袋の中で冷たくなっていたことを思い出す。今もその冷たさは少し残っている。けれど、あの時のように声を出す前の冷たさではなかった。


水を一口飲むと、喉の奥に残っていた張りが少しゆるんだ。王都の目録では百束、神殿の配分表でも百束、けれど北方の施療所では七十束。自分の声で言った数字が、まだ耳の奥に残っている。あの瞬間、室内の呼吸が止まった。エレオノーラは杯を膝の上へ戻し、控えの紙へ目を落とした。


エレオノーラは筆を取らず、控えの紙を閉じた。けれど、机の上に置いたあとも、指先はすぐには離れなかった。紙の端を押さえていると、報告の間で自分がどこに力を入れて書いたのかが、指の下から戻ってくるようだった。薬草の字は少し濃く、受領と書いた横の線は細く曲がっている。補給荷と施療荷を分けたところだけ、墨がわずかに溜まっていた。


窓の外で若葉が揺れ、その影が卓の端まで届いた。閉じた控えの上を薄く通り過ぎる影を見ていると、王宮の庭の明るさの奥に、さきほど地図の上で見た細い道が重なった。ここでは葉が動いている。けれど北方では、同じ春の光の下で、水を含んだ土が車輪を止め、橋の上で荷を下ろす者がいる。エレオノーラはその場所を見たことがない。見たことがないのに、ヴィクトルの声が指した線だけは、閉じた紙の向こうでまだ消えずにいた。


扉の向こうで足音が近づいた。エレオノーラは顔を上げる。侍女は動かなかった。足音は控えの間の前を過ぎ、遠ざかっていく。父の歩幅ではないと分かったあとも、紙を押さえていた指は離れなかった。


しばらくして、別の侍女が静かに入ってきた。王妃府の女官長に近い年嵩の女性で、白髪の混じる髪をきちんとまとめ、淡い青の衣を乱れなく着ている。エレオノーラはすぐに立ち上がった。


「エレオノーラ様、そのままで結構でございます」


「いいえ。王妃府の方をお迎えするのに、座ったままではいられません」


そう答えると、女官はほんの少しだけ目元をやわらげた。


「王妃陛下より、お待ちの間にお困りのことがないか確かめるよう申しつかっております」


「お心遣いをありがとうございます。こちらで落ち着いて待たせていただいておりますので、どうかご安心くださいませ」


女官は頷き、机の上に置かれた控えと、まだ使われていない筆へ一度だけ目を落としたあと、エレオノーラへ視線を戻した。


「先ほどのご発言について、王妃陛下はお聞き届けでいらっしゃいました」


胸の奥が、一度だけ強く鳴った。エレオノーラはすぐに返事をせず、女官の続く声を待った。


「陛下は、王太子殿下のお言葉を折らず、しかし届くところまで見る必要を示した、とお受け取りでございます」


女官の声は静かだった。王妃本人の言葉ではないからこそ、エレオノーラは、その一語ずつを急いで飲み込まないように聞いた。


「恐れ入ります。私は、殿下のお考えを否定したかったわけではございません」


「そのように受け取られております」


その返事がすぐに返ってきて、エレオノーラはようやく少し深く息を吸えた。アレクシスの言葉を折りたいのではなかった。困っている場所へ多く送ろうとする気持ちを否定したかったのでもない。ただ、その荷が本当に届くまでを見なければならないと言いたかった。


「ただ、エレオノーラ様」


女官の声が、わずかに低くなった。


「王宮では、正しい言葉であっても、どの席で、誰が、どの順で述べたかによって、別の意味を持つことがございます。先ほどのお言葉は必要なものでした。けれど、必要であったからこそ、これから誰の手を通るのかにもお気をつけくださいませ」


エレオノーラは、手袋の内側で指先が少し冷たくなるのを感じた。報告の間で口にした言葉は、もう自分の前にだけあるものではない。王宮の紙へ移り、文官の手へ渡り、父が呼ばれていった別室の中へ入っていく。その途中で、同じ言葉が同じ形のまま残るとは限らない。


「心に留めます」


「王妃陛下も、そのことを案じておいでです」


報告の間で、神殿側の協力という言葉が出た時、王妃の視線がわずかに深くなった。その意味を、エレオノーラはまだ知らない。けれど、王妃が何もない場所を見ていたのではないことだけは、女官の声から伝わってきた。


「何かございましたら、こちらの侍女へお申しつけくださいませ」


「ありがとうございます」


女官は深く礼をとり、音を抑えて部屋を出ていった。扉が閉じると、控えの間には水差しの近くでかすかに揺れる光と、廊下を通る遠い足音だけが残った。エレオノーラは椅子へ戻り、机の上の控えへ目を落としたが、すぐには手を伸ばさなかった。父は別室に入っている。王妃は案じている。国王は北方報告をその場で終わらせず、ヴィクトルは王都に残ることになった。ひとつずつ考えようとすると、どれも別々の重さを持って胸の中へ落ちてきて、紙へ書き留めるにはまだ早かった。


扉の外で、また足音がした。今度は一人ではなく、低い声が短く交わされ、布の擦れる音が控えの間の前を過ぎていく。エレオノーラは顔を上げたが、扉は開かない。足音が遠ざかってからも、廊下の向こうでは別の扉が開き、すぐに閉じられた。王宮の中で誰かが呼ばれ、誰かが別の部屋へ入り、そこで話されたことがまた別の紙へ移されていく。今朝、自分の名が席次の紙に置かれていたように、この奥のどこかで、誰かの役目も少しずつ置き直されているのかもしれなかった。


エレオノーラは杯へ手を伸ばした。水は先ほどよりぬるくなっていたが、喉を通る感触を確かめると、報告の間から続いていた緊張が少しだけ下へ降りた。自分は何を聞き、何を言い、何をまだ知らされていないのかを考えようとして、机の上の白い紙へ目を移す。筆を手に取ったものの、王都を出たもの、届くまで見ること、言葉が誰の手を通るのか、そうしたものを今ここで書けば、まだ動いているものを無理に閉じ込めてしまう気がして、エレオノーラは筆先を紙につけないまま戻した。


扉の外の気配が、今度は近くで止まった。控えていた侍女が姿勢を正す。エレオノーラも杯から手を離し、ゆっくり立ち上がった。父が戻るのか、それとも別の知らせなのかはまだ分からない。けれど、廊下の向こうで止まった沈黙が、それまで通り過ぎていった足音とは違う重さを持っていることだけは分かった。

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