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婚約破棄された悪役令嬢は、白銀の大公に最愛を捧げられる  作者: ごゅみ
第一部 婚約破棄

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第二十一話 北方報告②

「本年の冬越え、および雪解け後の北方街道、砦、補給、施療記録について、ご報告申し上げます」


ヴィクトルの声が落ちると、王宮の文官が一斉に筆を構えた。紙の上をまだ走っていない羽根ペンの先が、卓の光を細く受けている。エレオノーラは、自分の前に置かれた控えの紙へ目を落としそうになって、すぐには筆を取らなかった。報告の間の冷えた空気の中で、父の書斎で聞いた低い声が、言葉としてではなく背筋の奥へ戻っていた。


ヴィクトルは、地図の北端へ指を置いた。そこには細い線で街道が引かれ、その途中に小さな黒い印がいくつも置かれている。王都から見れば線でしかない道。幼いころのエレオノーラには、そこがどれほど遠いのかも、線の途中にある谷がどんなふうに人の足を止めるのかも分からなかった。今も、実際にその道を歩いたわけではない。けれど昨日、小書斎で開かれた地図の上に置かれたヴィクトルの指と、彼の声がひとつひとつの順番をほどいていった時間を思い出すと、ただの線ではなくなっていた。


「本年の冬は、北東砦から第三山道にかけて積雪が例年より長く残りました。主街道そのものの閉鎖期間は前年と大きく変わりませんが、枝道の一部、特に谷を挟む村への道は、雪解けの水で路肩が削られ、荷馬車の通行を止めた箇所がございます」


文官の筆が紙を擦る音がした。北東砦、第三山道、枝道、谷、荷馬車。言葉は整っていた。ヴィクトルは声を荒げず、どこかを訴えるために感情を乗せることもせず、王宮の場にふさわしい速さで報告を進めていく。だからこそ、エレオノーラはその静けさの下で、音の厚みが変わるところを聞こうとした。王宮の報告として整えられた言葉の奥に、昨日聞いた泥や水や車輪の重さが沈んでいる。


「橋梁については、大橋二つに大きな損傷はありません。ただし、村道にかかる木橋七つのうち三つは補修を終え、二つは仮橋、残る二つは水位が下がるまで荷を人手で渡す処置を取っています。砦への補給は、冬前の備蓄が予定量を保ち、兵の食糧に不足は出しておりません。薪と塩については、一部の小砦で余裕が薄くなりましたが、春の第一便で補いました」


アレクシスが、わずかに身を乗り出した。華やかな金髪が窓から入る光を受け、明るく映る。彼は真剣に聞いていた。聞いていないわけではない。けれどその目は、ヴィクトルの指が一瞬止まった仮橋の印よりも、報告全体が大きな不足なく済んだというところへ先に向かったように見えた。


「つまり、冬越えそのものは大きな損害なく終えられたということか?」


アレクシスの声は明るさを抑えていたが、それでもどこかほっとした響きが混じった。エレオノーラは、その声を責めたいとは思わなかった。王太子として、民に大きな飢えや兵の不足がなかったことを喜ぶのは間違いではない。けれど、言葉の先がそこだけに置かれた瞬間、地図の上で仮橋の印が少し遠ざかったように感じた。


ヴィクトルはアレクシスへ向き直り、礼を崩さないまま答えた。


「王太子殿下の仰せの通り、冬そのものは越えております。ただ、北方では冬を越えたことと、春に届くことは同じではありません。雪の下で保たれていた道が、水を含んだ途端に崩れることがあり、冬のあいだ閉じていた村へ、春になったからすぐ荷が入るとは限りません。損害を出さずに越えた場所ほど、春の最初の確認を怠ると、次の冬に響きます」


アレクシスは目を瞬かせ、少しだけ姿勢を直した。


「そうか……冬の報告で終わりではないのだな」


「はい。雪解け後の確認までを含めて、北方の冬越えと見ております」


ヴィクトルはそう言ってから、地図の中央より少し西へ指を移した。そこには砦と街道をつなぐ線のそばに、赤い小さな印が三つ置かれている。エレオノーラは、控えの紙へその位置を書き写そうとして筆を取ったが、ヴィクトルの声が橋の損傷から、そこを通る荷の順番へ移ったところで、紙へ目を落とすのをやめた。印だけを写せば、あとで場所は追える。けれど、今この場で、どの荷が先に通され、どの荷が後ろへ回されるのかを聞き落とせば、その印がなぜ赤く置かれているのかまでは残らない。エレオノーラは筆を紙の上に置かず、指の中で静かに支え直した。


「施療所の記録に移ります。北方大公領内の主な施療所十二箇所について、冬前に薬草、包帯布、乾燥食、燃料を配分しました。冬のあいだ、大きな疫病の広がりはありません。ただし、雪解け後の最初の確認で、受領記録と実際の残量に差が見られた施療所が三箇所ございます」


その時、王宮側の文官の一人が顔を上げた。年は五十前後だろうか。頬は痩せ、きちんと結ばれた襟元と、薄い灰色の上着がいかにも王宮の事務を長く扱ってきた人物に見える。彼はすぐに口を挟まず、まず国王へ視線を向け、許しを得るようにわずかに頭を下げた。国王が頷くと、その文官は落ち着いた声で言った。


「北方大公閣下、その差というのは、記録上の誤記でございましょうか?それとも、輸送途中の遅延によるものと見てよろしいのでしょうか」


ヴィクトルの指が、地図の上で止まった。その動きは大きくない。けれどエレオノーラには、その指先が紙の上の村ではなく、実際の施療所の扉の前で止まったように見えた。


「現時点では、両方の可能性があります。冬前に北方大公家から出した記録、街道中継所の通過記録、村役人が受け取った記録、施療所で薬棚へ入れた記録を照合していますが、王都側から神殿施療所へ渡された薬草については、王都を出た量と、施療所が受け取った量をつなぐ記録が薄い箇所があります」


施療所、薬草、記録。並んだ言葉を追ううちに、エレオノーラは紙の上へ落とした筆先が、一画だけ濃くなるのを見た。王宮の墨と封蝋の匂いの奥を、熱を含んだ薬湯の苦さがごく短くかすめる。水差しを替える陶器の音と、廊下を急ぐ足音が、遠いところで一度だけ重なった。エレオノーラはまぶたを伏せかけ、すぐに地図へ視線を戻した。卓の上では、北方街道の細い線が、施療所の印へ続いている。


ヴィクトルは、報告書を一枚めくった。


「このため、春季北方調整のあいだ、王都から北方の神殿施療所へ送られる薬草について、王都を出た時点の量だけでなく、中継所の通過、施療所での受領、実際に薬棚へ入れた時刻まで、北方側の記録と王宮側の記録を照合できるよう、臨時の承認を願い出ます」


室内の空気が、ほんのわずかに動いた。誰かが咳をしたわけではない。椅子が大きく鳴ったわけでもない。ただ、王宮の文官たちの筆が一瞬遅れ、財務に関わる席の一人が、隣の者と目だけを交わした。エレオノーラは、その沈黙を聞いた。ヴィクトルの願いは、ただ北方へ薬草を多く送ってほしいというものではない。送ったことにするのではなく、届いたことを見たい、という願いだった。


先ほどの文官が、もう一度口を開いた。


「大公閣下、北方の事情は承知いたしました。しかし、王都から各地へ出る薬草や寄進物について、受領後の記録まで王宮側で照合するとなれば、前例となります。他領からも同様の求めが出る可能性があり、王宮文書局、財務局、神殿側の記録担当にかかる負担も小さくありません。北方大公家の記録が十分に整っているのであれば、まずは大公家の中で照合を進め、その結果のみを王宮へ報告する形では不足でございましょうか?」


言葉は丁寧だった。北方を侮っている口調ではない。けれど、その丁寧さが、地図の上にあった谷や仮橋や施療所の扉を、もう一度紙の中へ戻そうとしているようにエレオノーラには聞こえた。王宮の負担。前例。他領との均衡。どれも軽い言葉ではない。王宮を動かすには必要な考え方なのだと、エレオノーラも知っている。茶会の名簿一つでも、一家だけを特別に扱えば別の家の視線が生まれる。寄進目録でも、ひとつの施療院だけを厚くすれば、理由を問われる。王宮は、善意だけで動かせる場所ではない。


それでも、今の言葉の中には、届かなかった薬草をどこで探すのかがなかった。


ヴィクトルはすぐには答えなかった。地図の上から指を離し、王宮の文官へまっすぐ顔を向ける。彼の横顔は、王都の光の中でも崩れない。怒りを見せてはいなかった。苛立ちを声に乗せてもいない。けれど、譲る場所と譲らない場所をすでに分けている静けさがあった。


「北方大公家の中で照合できるものは、すでに進めています。ですが、王都から神殿施療所へ渡される薬草については、大公家が最初の封を確認する立場にありません。王都の記録では出たことになっている。北方の村では届いたことになっていない。その間を北方だけで追えば、王都側の記録に触れられない箇所が残ります」


「しかし、神殿側の記録もございます。王宮がそこまで踏み込むとなれば、神殿との調整も必要になります」


「必要だから願い出ています」


ヴィクトルの声は低く、地図の上に置かれた施療所の印から離れなかった。王宮の文官は目元を動かさなかったが、筆を持つ指に力が入り、羽根の軸がわずかにしなった。


アレクシスが、そこで口を開いた。


「薬草が足りないのであれば、王宮からの寄進を増やすことはできないのか?春の慈善視察でも施療院への支援は重視する予定だ。北方へ向けた寄進を厚くすれば、施療所の不安も軽くなるのではないか」


エレオノーラは、アレクシスの声に責めるものがないことを知っていた。困っている場所へ多く送ればよいと考える明るさは、彼らしいものだった。けれど、ヴィクトルの指は、薬草の束を示す欄ではなく、中継所と施療所を結ぶ細い線の上に残っている。アレクシスの隣では、ユリウスが顔を上げないまま手元の紙へ何かを書きつけ、筆先を一度止めてから、地図の中継所から施療所の印へ視線を移した。


ヴィクトルは王太子の席へ向き直った。礼の形は崩さないが、声は地図の線から離れない。


「王太子殿下のお心遣いに感謝申し上げます。薬草の総量が増えれば、救える者は確かに増えます。ただ、王都を出たものが、どこで止まり、どこで遅れ、どこで記録だけが先に進むのかを見なければ、増やした分も同じ道で薄くなります」


その言葉を聞いた時、エレオノーラの胸の奥で、何かが静かに重なった。王都を出たもの。途中で止まるもの。記録だけが先に進むもの。寄進目録の紙面では、数字はきれいに増えていく。神殿施療院への配分、薬草の束、包帯布、乾燥食、燃料。けれど王宮の紙に増えた数字は、施療所の棚で増えたとは限らない。王都で善いことをしたという記録が整っても、北方の村の薬棚が空なら、そこにいる者には何も届いていない。


エレオノーラは、自分の前の紙に筆を置いたまま、指を動かせなかった。発言を求められてはいない。王太子婚約者として座っているとはいえ、北方大公と王宮文官のやり取りへ、自分から口を挟むことが許される場かどうかを測らなければならない。父の言葉が戻る。質問をする場ではないかもしれない。発言を求められないかもしれない。それでも、何が削られ、何が残され、誰がどこを聞き落とすのかは見なさい。


聞き落とされようとしているのは、何だろう。


北方の道だろうか。施療所の棚だろうか。王都の負担だろうか。神殿との調整だろうか。どれもそこにある。けれど、今この場で王都の言葉として拾われていないものが一つある。王都が出したはずの薬草が、届かなかったとき、その損失は誰の帳簿にも現れないかもしれないということだ。届かなかった者の側だけが、それを空の棚として知る。王都は善意を記録し、神殿は配分を記録し、施療所は足りなさを抱える。帳簿の上で誰も失っていないものが、現場では失われる。


エレオノーラは、王妃の席へ視線を上げた。イザベラは何も言わない。ただ、エレオノーラを見ていた。声を出せと促す視線ではない。止める視線でもない。そこにあるのは、王太子の婚約者としてこの場に座らせた者が、今何を聞いたのかを見届ける目だった。


父は振り返らなかった。けれど、オルドリックの背中は、先ほどの書斎で言ったことを撤回していない。祖母なら、求められた内容によります、と言うだろう。分かる範囲を超えるな。美しい言葉で飾るな。沈黙が必要なら沈黙を選べ。けれど、黙ることと聞いていないことは同じではない。


エレオノーラは、椅子から立たなかった。まず、王族の席へ向けて深く視線を落とし、発言の許しを求める姿勢を取った。


「恐れながら、陛下。王太子殿下の婚約者として、また王妃府より春の慈善視察と施療院寄進目録の確認をお預かりしている者として、一点だけ申し上げてもよろしゅうございましょうか?」


室内の筆音が、そこで止まった。アレクシスが驚いたようにこちらを見た。ユリウスも顔を上げる。ヴィクトルは動かなかった。ただ、地図の横に立ったまま、エレオノーラの声がどこへ向かうのかを待っていた。


国王エドガルドは、しばらくエレオノーラを見た。重い青の瞳が、少女ではなく、王太子の婚約者として席に置かれた者を見る。エレオノーラはその視線から逃げず、しかし挑むこともしなかった。自分の言葉が、王宮の場を乱すためのものになってはいけない。ヴィクトルを庇うために感情だけで立てば、それは北方の願いをかえって軽くする。


「申してみよ」


国王の声が落ちた。

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