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婚約破棄された悪役令嬢は、白銀の大公に最愛を捧げられる  作者: ごゅみ
第一部 婚約破棄

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第二十一話 北方報告①

毎日三話ずつ更新できるよう努めてまいりましたが、なかなか難しいため、今後は二話ずつの更新に変更させていただきます。

大変申し訳ありません。

また、投稿時間を決めてしまうと焦ってしまい、再び投稿ミスが起きてしまう可能性があるため、時間は決めず、その都度更新いたします。

申し訳ありませんが、何卒よろしくお願いいたします。

王宮へ向かう朝、エレオノーラの机には、いつもの学院用の冊子よりも先に、王宮から届いた席次の控えが置かれていた。


薄い朝の光が窓から入り、紙の端を静かに照らしている。昨夜のうちにナディアが替えた花はまだ水を吸っていて、白い小さな花弁が、机の上の書類へ影を落としていた。王宮の印が押されたその紙は、茶会の名簿とも、学院の講話の席次とも違う重さを持っているように見えた。エレオノーラはすぐには手を伸ばさず、封の開かれた控えの上に並んだ名前を目で追った。


国王陛下、王妃陛下、王太子殿下、第二王子殿下、北方大公閣下。王宮の主要な官、財務と軍務に関わる者、王家に近い貴族たち。そして、少し離れた位置に、ヴァルクレスト公爵家の席があった。父オルドリックの名の下に、エレオノーラの名も記されている。幼いころ、王妃の許しを得て控えの席に座った北方報告では、自分の名がこんなふうに紙へ残ることはなかった。あの日は、母の斜め後ろで、聞き取れた言葉だけを胸の中へ落としていくことしかできなかった。


そのあと自室へ戻って紙に書いた幼い文字は、今もこの机の端に置かれている。けれど今日、エレオノーラの前にあるのは、忘れないために自分の手で書いた小さな紙ではなく、王宮が整えた席次の控えだった。そこに名があるということは、聞くことだけを許された子どもの席ではない。王太子殿下の婚約者として、いずれ王家の隣で受け取るべき報告の場に、今朝は自分の席が用意されている。


エレオノーラは、息を急がせないようにして紙へ手を伸ばした。指先が王宮の印のすぐそばへ触れる。冷たい紙の感触は、思っていたより薄く、しかし動かすには少しだけ慎重さがいる。席次そのものが重いわけではない。重くしているのは、そこに並ぶ名と、その名の間に置かれた距離だった。


「お嬢様、お支度の布をお持ちいたしました」


背後でナディアの声がした。エレオノーラが顔を上げると、侍女は腕に青灰のドレスを掛け、もう片方の手に手袋と飾りを載せていた。王宮小書斎で北方の春の話を聞いたときの装いに近いが、今日はさらに余分な光を抑えている。報告の場へ出る服であって、社交の広間へ出る服ではない。けれど、王太子殿下の婚約者として席につく以上、ただ地味であればよいというわけでもなかった。


ナディアは机の上の席次へ目を落とし、すぐに視線を戻した。


「王宮からの控えを、旦那様がお確かめになるとのことでございます。お支度が整いましたら、先に書斎へお越しくださいませ」


「お父様はもうご覧になったの?」


「はい。今朝、王宮から届いたものをローレンがすぐにお持ちいたしました。旦那様は、席の位置と同席者を確認なさったあと、お嬢様にも出立前に一度見せるようにと仰せでございました」


「お祖母様は?」


「先ほど書斎へお入りになりました。おそらく、旦那様とご一緒にご確認なさっているかと」


その言葉を聞きながら、エレオノーラは席次の控えをもう一度見た。幼いころの北方報告では、母と王妃の近くに座ることが、自分に許された安全な場所だった。分からない言葉を聞いても、分かったふりをせず持ち帰ればよいと父に言われ、ナディアには聞こうとする顔でいればよいと言われた。あの日の自分は、分からないまま持ち帰るだけで精一杯だった。


今日は、分からないものを分からないと知るだけでは足りないのだろう。前日にヴィクトルから聞いた北方の春の話が、まだ手の奥に残っている。橋を見ること。道を開くこと。砦へ最初の荷を入れること。薬草の量だけでなく、誰が扱い、どこで記録を残すのかを見ること。王宮の書類では一語に削られるものの下に、雪解け水や泥や荷馬車の重さがあること。今日の北方報告では、それらが王宮の前に置かれる。自分はそこに、ただ幼い記憶を抱えて座るのではない。


「ナディア」


「はい」


「今日の飾りは、報告の場に合うように整えてください」


ナディアは静かに頷き、ドレスを衣装台へ広げた。布が朝の光を受けて、淡く沈んだ青を返す。エレオノーラは席次の控えを閉じ、机の上でずれないように端をそろえた。


ナディアが衣装台の前で布の落ち方を確かめ、襟元に合わせる飾りを選び直しているあいだ、エレオノーラは鏡の前へ移った。背後でドレスの布が持ち上げられ、衣擦れの音が静かに続く。朝の光は窓辺からゆっくり入り、机の上の席次の控えを白く照らしていたが、エレオノーラはもうその紙へ手を伸ばさなかった。


支度が整うころ、窓の外の光は少し強くなっていた。ナディアが髪を後ろでまとめ、飾りを差す。耳元へ落ちる髪はいつもより少なく、首元はすっきりしている。ナディアが最後に手袋の縫い目を確かめ、静かに一歩下がった。


「お支度、整いました」


「ありがとう」


エレオノーラは席次の控えを手に取り、部屋を出た。廊下へ出ると、屋敷の朝の音が聞こえる。従僕が遠くで扉を開ける音、侍女が花器の水を替える音、階下から上がってくる低い声。いつもの屋敷の朝だが、王宮へ向かう前の緊張が、床を踏む足に少しだけ重さを加えていた。ナディアは半歩後ろにつき、余計な言葉をかけずに歩調を合わせる。


父の書斎の前で取次ぎが済むと、扉が開いた。オルドリックは机のそばに立っていた。黒に近い深い色の上着を身につけ、すでに外出の支度を終えている。アデライードは窓に近い椅子に腰かけ、手にした扇を開かずに膝の上へ置いていた。机の上には王宮からの席次の控えがもう一部、そして王妃府から届いた小書斎の承認に関する写しが重ねられている。


エレオノーラは礼をとった。


「お父様、お祖母様。お支度が整いました」


「入りなさい、エレオノーラ」


父の声は低く、いつも通りだった。けれど、机の上の紙へ置かれた指には、出立前に確認しておくべきものを一つも取り落とさないという硬さがあった。エレオノーラが近づくと、オルドリックは席次の控えを向けた。


「王宮から届いた席次だ。お前の席は、私の後ろではなく、王太子殿下の婚約者として王妃陛下の視線が届く列に置かれている」


エレオノーラは紙へ目を落とした。父の名の近くに、自分の名がある。けれど、そこは父の影に隠れる位置ではなかった。王妃の席からも、王太子の席からも、視線が届く。紙の上のわずかな距離が、今朝は実際の床の上へ移るのだと思うと、指先に力が入り、エレオノーラは紙を折らないようにそっと持ち直した。


「承知いたしました」


「今日、お前がすべてを理解する必要はない」


オルドリックはそう言ったあと、一拍だけ間を置いた。幼いころにも、父は同じようなことを言った。分からぬものは、分からぬまま聞け。分かった顔をして持ち帰るな。けれど、今日の声はあの日と同じではない。幼い娘を守るための言葉ではなく、王宮の場に出る者へ向ける確認だった。


「だが、今日のお前は、分からないまま聞いて帰るだけでは足りない。北方大公が王宮へ上げる言葉が、王太子妃となる者にどう関わるのか、その入口に座る。質問をする場ではないかもしれない。発言を求められないかもしれない。それでも、何が削られ、何が残され、誰がどこを聞き落とすのかは見なさい」


エレオノーラは、父の言葉をすぐに返せなかった。胸の奥に、昨日の小書斎で聞いた声が重なる。項目になったものの下に何が残っているかを忘れないこと。書類の一行を、ただ一行として見ないこと。父もまた、同じところを見ているのだと分かった。けれど父は、ヴィクトルのように北方の現場を語るのではない。王宮で公爵として、娘がどこへ座るのかを見ている。


「はい。聞き落とさないようにいたします」


「聞き落とさない、という言葉に力を入れすぎると、かえって耳は狭くなりますよ」


アデライードが静かに口を挟んだ。エレオノーラが祖母を見ると、アデライードは扇を開かないまま、落ち着いた目でこちらを見ていた。


「あなたは、一度覚えた言葉を大切にしすぎるところがあります。覚えているものがあるのはよいことです。けれど、その言葉に寄りかかって聞けば、今日初めて出てくるものを取り落とします。聞き覚えのある言葉だけを拾うのではなく、その間に入ってくる声も聞きなさい」


「別の声、ですか?」


「同じ橋の話を聞いても、北方大公が見るもの、王が見るもの、王太子殿下が受け取るもの、文官が紙へ残すものは違います。あなたは、自分が覚えた言葉だけを拾えばよいのではありません」


アデライードの声は厳しかったが、突き放してはいなかった。エレオノーラは、自分が手の中で席次の控えを少し強く持っていたことに気づき、紙を折らないよう指先をゆるめた。幼いころの紙は、忘れないために必要だった。けれど今日、手にしている紙は別のものだ。王宮の席次。そこに並ぶ名。そこから始まる声の違い。自分は、ひとつの言葉をただ握りしめに行くのではない。


「お祖母様、私が発言を求められた場合は、どのようにお答えすればよいでしょうか」


「求められた内容によります」


アデライードは、当然のことのように答えた。


「分かることなら、分かる範囲を超えずに答えなさい。分からないことなら、分からないまま飾らず、確認が必要であると申し上げなさい。大切なのは、王太子殿下の婚約者として、分からないことを隠すために美しい言葉を置かないことです」


「はい」


「それから、沈黙が必要な場では沈黙を選びなさい。黙ることと、聞いていないことは同じではありません」


オルドリックが小さく頷いた。


「母上の言う通りだ。今日、お前が黙っている時間は長いだろう。だが、黙って座っているだけなら誰でもできる。聞いている沈黙であることを忘れるな」


その言葉は、エレオノーラの背中に静かに置かれた。聞いている沈黙。幼いころ、分からない言葉を心の中で繰り返していた自分の沈黙とは違う。あのころは、言葉をこぼさないように抱えていた。今日は、言葉がどこで形を変えるのかを見るために黙る。そう思うと、胸の奥にあった緊張は消えないまま、少しだけ形を変えた。


「お父様、お祖母様。今日の席で聞くべきことを、きちんと聞けるよう努めます」


アデライードは目元だけをわずかにやわらげた。


「そのくらいでよろしい。聞くべきことをすべて拾おうとして、両手いっぱいに抱え込まないことです。あなたは、一度大切だと思ったものを、必要以上に強く持とうとするところがあります」


「はい」


「返事はよろしい。あとは、歩き方です。王宮の廊下で、考え込みすぎて裾を踏まないように」


オルドリックが低く咳払いをした。


「母上、それは昨日も言っていた」


「昨日も今日も必要です。王宮で転んでからでは遅いでしょう」


「転ばせるつもりはない」


「あなたが気合で止められるものではありません」


父と祖母の声が、ほんのわずかに馬車の中のやり取りを思い出させた。エレオノーラは、笑ってはいけないと思いながら、口元が少しだけゆるむのを感じた。緊張した朝でも、父と祖母は父と祖母のままだった。そのことが、王宮へ向かう前の胸を少しだけ軽くした。


ローレンが扉の外から出立の支度が整ったことを告げた。オルドリックは席次の控えを折らずに革の薄い挟みに収め、エレオノーラへ渡した。


「馬車の中で、もう一度目を通しておきなさい。王宮に着けば、席は紙ではなく実際の場になる」


「承知いたしました」


エレオノーラはそれを受け取った。紙の重さは変わらない。けれど、書斎に入る前よりも、自分の手の中で少しだけ落ち着いているように感じた。ナディアが廊下で待っており、エレオノーラの手元を見て一度だけ深く礼をとる。言葉はない。けれど、その目は朝の支度で交わしたすべてを覚えている。


玄関広間へ向かう廊下では、屋敷の者たちが静かに控えていた。朝の床は磨かれ、階段の手すりには新しい花が控えめに結ばれている。王宮へ向かう日だからか、屋敷の空気はいつもより少し早く整えられていた。扉に近い柱のそばで、小さな足音が一つ止まる。エレオノーラが視線を向けると、リュシアンがそこに立っていた。すでに朝の支度を整えており、きちんとした装いをしている。けれど、目だけは今にも何かを言いたそうに輝いていた。


オルドリックが先に気づき、低く名を呼んだ。


「リュシアン」


「お見送りだけです、父上」


「それを告げる前に、朝の挨拶をなさい」


アデライードの声は静かだったが、リュシアンはそれ以上言い募らなかった。


リュシアンはすぐに背筋を伸ばした。さきほどまで柱のそばで今にも駆け寄りそうにしていた勢いを、どうにか胸の内側へ押し込めたように見えた。まずオルドリックへ、次にアデライードへ、順を乱さずに礼をとる。


「おはようございます、父上。おはようございます、お祖母様」


「おはよう、リュシアン」


エレオノーラの声を受けると、リュシアンは待っていたと言わんばかりに顔を上げた。礼の形は崩さないまま、けれど目だけがまっすぐエレオノーラへ向く。父と祖母への挨拶を終えたことで、もう自分を止めるものは何もないとでも言うように、その表情が一瞬で明るくなった。


「姉上!おはようございます!今日の姉上もたいへんお美しいです!昨日のお召し物も静かでお似合いでしたが今日のお召し物は北方報告の席に向かうための落ち着きがあってそれなのに姉上の美しさは少しも隠れておりません!むしろ控えめな装いだからこそ姉上のお顔立ちと姿勢と声の綺麗さがよく分かるのですから王宮の方々はどうか心を強く持っていただきたいです!本日は北方報告ですね?王宮の方々は姉上がその席にいらっしゃる意味をきちんと分かっているでしょうか?姉上はただ美しく座っているだけの方ではありません!もちろんただ座っているだけでも誰より美しいのですがそれだけでは足りません!姉上は王宮の書類を読めますし席次の意味も分かりますし人が聞き落とすところを拾えますし分からないことを分からないまま美しい言葉で飾ったりなさいません!そこが姉上の素晴らしいところです!ですが王宮の方々は姉上がお美しいからまずお顔やお姿に目を奪われてそこまで気づくのが遅れるかもしれません!もしそうなったら私は非常に不本意です!姉上の美しさは確かに王宮の灯りを受けるべきものですが姉上のすごさは灯りに照らされる前からすでにそこにあるのですから!」


「リュシアン」


父の低い声が落ちると、リュシアンはそこでようやく息を継いだ。止められなければまだ続けるつもりだった顔だった。


「分かっています父上。ですが姉上がただ飾りのように座っていると思われるのは私は納得できません」


「誰もそこまでは言っていない」


「言っていなくても思われる可能性があります」


「その可能性を朝の玄関で論じるな」


アデライードが静かに息を吐き、ローレンが表情を変えずに扉のほうへ視線を向ける。エレオノーラは、その明るい気配を胸に受け取り、王宮へ行く前に屋敷の空気をひとつ吸い込んだ。


馬車に乗り込むと、窓の外の若葉が朝の光を受けて揺れていた。三月中旬のデビュタントのころよりも、王都の春は濃くなっている。通りの木々には柔らかい葉が増え、石畳の端には雨の跡がまだ少し残っていた。オルドリックは向かいの席で席次の控えを開き、もう一度目を通している。エレオノーラは、その紙を見ながら、昨日の小書斎で開かれた北方の地図を思い出した。橋の印。砦の印。地図の上では小さいのに、言葉を聞くと急に重さを持った場所。


馬車が王宮へ向かって進むあいだ、父は長く黙っていた。やがて、紙を閉じて口を開く。


「エレオノーラ」


「はい」


「第二王子殿下の席も確認したな」


「はい。王太子殿下とは、少し離れたお席でした」


「春から政務見習いの席を増やしておられる。北方報告は、王子が学ぶ場として不足はない。王太子殿下とは座る位置も役割も違うが、目を向けられることはあるだろう」


ユリウス殿下の名を聞くと、エレオノーラは王宮の廊下で何度か見かけた淡金の髪の少年を思い出した。兄のように先に声で場を明るくする方ではなく、礼を返す前に相手の動きをよく見ている方だった。リュシアンが王宮で読書や盤上遊戯の席に加わる日には、遠くからその姿を見ることもあった。今日、その方が政務見習いとして同じ報告の席にいる。


「承知いたしました。殿下の御前でも、席に置かれた意味を忘れないようにいたします」


「それでよい」


馬車の外では、王宮へ向かう馬車が少しずつ増え始めている。北方報告は舞踏会ではない。けれど王宮へ入る馬車の家紋には、財務や軍務に関わる家、王家に近い貴族、北方との取引を持つ家もあるのだろう。華やかな社交の列ではなく、低い声で王宮へ向かう政務の列だった。


「ユリウス殿下は、よく見る方だ」


父が静かに言った。


「王太子殿下のように、場を明るく動かす方ではない。だが、黙っているから見ていないというわけではない。お前は、王子が年下だからといって、ただ礼を返す相手としてだけ見てはならない」


「はい。殿下が何をご覧になるのかも、気をつけております」


「それでよい」


馬車が王宮の門をくぐるころ、エレオノーラは手袋の指先をそろえた。胸元には小さな銀の飾りだけがある。デビュタントの夜とは違う支度の軽さが、王宮の門をくぐる馬車の揺れに合わせて静かに息づいていた。今日の自分は、王宮の報告の場へ座る者として来ている。


王宮の廊下は、昼の光の中で静かに動いていた。侍従が書類を運び、文官が低い声で何かを確かめ、遠くで扉が開閉する。舞踏会の夜のように花の香りが強いわけではない。香油や笑い声も薄い。石の床を歩く靴音と、紙を束ねる音が、壁に沿ってまっすぐ通っていく。王妃府の侍女が出迎え、オルドリックとエレオノーラへ礼をとった。


「ヴァルクレスト公爵閣下。エレオノーラ様。こちらへご案内いたします」


侍女の声は落ち着いていた。エレオノーラは父とともに歩き出す。曲がり角をいくつか過ぎると、昨日小書斎へ向かった廊下よりもさらに奥へ進む。壁には王国の地図を織り込んだ大きな織物があり、北方を示す白と青の糸が、朝の光を受けて淡く浮いて見えた。エレオノーラは一度だけそれへ目を向け、すぐに前を見た。今日は地図を眺めるために来たのではない。その地図が、王宮の言葉の中でどう扱われるのかを聞くために来ている。


報告の間の前には、すでに数人の貴族と文官が控えていた。話し声は低い。扉の外で高く笑う者はいない。エレオノーラが父とともに入ると、幾人かの視線が静かに向いた。デビュタントの夜の視線とは違う。白いドレスや真珠を見る目ではなく、なぜ今日この席にいるのかを確かめる目だった。


オルドリックは少しも動じず、その視線の中を進んだ。エレオノーラもその半歩後ろを歩く。背中を固くしすぎないように、しかし肩を落とさず、席次の控えに記された自分の名の重さを、足元へ移していく。父が王宮侍従へ短く名乗ると、扉が開いた。


室内には、長い卓が置かれていた。正面奥に国王の席、その隣に王妃の席。少し下がって王太子アレクシスの席があり、そのさらに横に、第二王子ユリウスの席が置かれている。王族の席から少し離れ、報告者として北方大公の席が設けられ、地図を広げるための卓がその前にある。


アレクシスは、エレオノーラに気づくと明るく目元をやわらげた。声をかける場ではないため、軽く頷くだけだったが、その仕草にはいつもの華やかさがある。王太子として、こういう場にも慣れている。けれど、机の上の報告書へ視線を落とすまでに、彼の目は一度、北方大公側の席へ向いた。


ユリウスは、兄よりも細い線をしていた。淡金の髪はアレクシスほど強く光らず、朝の光の中で静かに整っている。青い瞳は大きく動かないが、部屋へ入る者、卓の上の紙、地図を置くための空白を順に見ていた。エレオノーラが礼をとると、ユリウスも少年らしい硬さを少し残しながら、きちんと礼を返した。


エレオノーラは王妃へ礼をとった。イザベラは穏やかに頷いたが、その目は少し長くエレオノーラに留まった。言葉はない。けれど、その視線を受けると、今朝父と祖母に言われたことが、もう一度背筋の内側へ戻ってくるようだった。


王宮侍従に示された席へ向かうと、エレオノーラの席は父のすぐ後ろではなかった。王妃の視線が届く列で、王太子殿下の婚約者として扱われる位置。座る前に一度だけ、幼いころの控えの席を思い出した。母の斜め後ろ。見上げるばかりだった地図。聞き取れた言葉を忘れないように胸の中で繰り返したあの日。今は、机の上に自分用の控えの紙と、細い筆が置かれている。


椅子に腰を下ろすと、紙の端が指に触れた。エレオノーラはすぐに筆を取らなかった。まず部屋の音を聞いた。王宮の文官が紙を整える音。遠くで扉が閉まる音。アレクシスが小さく姿勢を正す衣擦れ。ユリウスが板の上に置かれた紙へ視線を落とす気配。部屋の中には、いくつもの聞き方があった。


やがて扉が開き、ヴィクトル・アシュベルが入室した。


黒を帯びた濃紺の上着は王宮の光を吸い、胸元の雪と星の徽章だけが硬く澄んだ光を返していた。派手な飾りはない。それでも、彼が扉口から長卓へ進むあいだ、部屋の空気が自然に道を空ける。北方で積もった雪の色を思わせる髪は、王都の明るい窓辺に入っても柔らかくは見えず、整えられた襟元と真っ直ぐな背筋の上で、ひときわ冷ややかに映った。


ヴィクトルは国王へ礼をとり、続いて王妃、王太子、第二王子へ順に礼を向けた。動きは若さを誇るものではなく、すでに大公として王前に立つことを知っている人のものだった。地図の前に進む直前、彼の視線が一度だけエレオノーラの席へ届いた。


長くはない。けれど、昨日の小書斎で交わした言葉が、その短い視線の中で一度だけ確かめられたように思えた。北方の春。橋、砦、道、薪、薬、冬。聞いたことを、発言するためではなく、聞き落とさないために持っていく。エレオノーラは目を伏せすぎず、小さく礼を返した。


国王が席に着き、室内の声が静まった。北方大公家の側近が地図を運び、長卓の上に慎重に広げる。地図の端を押さえる石が置かれ、封を解かれた報告書が王宮の文官へ渡される。七歳のころに見た地図よりも、今日の地図は少し近く見えた。線の意味をすべて知っているわけではない。それでも、橋の下を流れる水や、砦へ向かう荷の重さが、その線の下にあることを、今のエレオノーラは知っている。


ヴィクトルは地図の横に立った。国王が静かに頷く。


「北方大公、始めよ」


「はい、陛下」


ヴィクトルの声が、王宮の報告の間に落ちた。静かで、よく通る声だった。


「本年の冬越え、および雪解け後の北方街道、砦、補給、施療記録について、ご報告申し上げます」

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