第二十話 雪解けの春①
デビュタントの夜から日が過ぎるにつれて、王都の春は少しずつ色を濃くしていった。
王宮の広間で見た白い花は、庭園の枝先で若い葉を混ぜるようになり、学院へ向かう馬車の窓から見える街路にも、薄い緑が増えていく。けれど、春が王都の石畳をやわらかくしていくころになっても、エレオノーラの机の上には、まだ冬の名残を持つ言葉が残っていた。橋、砦、道、薪、薬、冬、忘れるな。幼い手で書いた古い紙は、王宮から届く封書や学院の講話資料の下に置かれることはなく、私室の机の端、朝の光が直接当たりすぎない場所にある。毎日開くわけではない。それでも、目に入るたび、あの日から今へ続く線が、細く切れずに残っていることを思い出させた。
その朝、ナディアが銀盆に載せて運んできた封書は、王宮の赤い封蝋ではなかった。
白に近い厚い紙。深い青の封蝋。そこに刻まれた雪と星の紋章を見た瞬間、エレオノーラは羽根ペンを置いた。まだ開いていない封書なのに、指先の先で廊下の夜気がよみがえる。王宮の馬車寄せへ続く控えの廊下で、ヴィクトルが雪解け後に王都へ来ると言った声。王宮や学院で聞く春とは違う北方の春を聞かせてほしいと、自分が口にしたこと。そのとき、彼は王宮の手順と父の許しに従うと言った。だから、今こうして封書が届いているのだと分かった。
ナディアは盆を机のそばへ置き、すぐには口を開かなかった。エレオノーラの手が封蝋へ伸び、けれど触れる前に一度止まるのを見ていたのだろう。
「お嬢様、こちらは旦那様へお持ちいたしますか」
「ええ。私宛ではあるけれど、アシュベル家からの書状ですもの。お父様に先に見ていただくわ」
「かしこまりました」
ナディアが封書を受け取ろうとしたとき、エレオノーラは一瞬だけそれを指先で押さえた。強くではない。ただ、机の上で滑らないようにするほどの力だった。封蝋の深い青が朝の光を受け、暗い湖のように静かに光っている。ヴィクトルの手から直接渡されたものではない。けれど、その紋章の向こうには、王都の春とは違う空気がある。
「ナディア」
「はい」
「お父様が執務室にいらっしゃるなら、今、伺ってもよいか確認してちょうだい。お祖母様がご一緒なら、それも知らせて」
ナディアは一礼して下がった。扉が閉まるまでのわずかな間、エレオノーラは机の端に置いた古い紙を見た。橋、砦、道、薪、薬、冬。幼いころには、ただ聞き取った言葉を忘れないために並べたものだった。今、その言葉の持ち主だった北方が、王都へ春の報告を持ってくる。そう思うと、胸の奥が少しだけ深くなった。嬉しいというほど軽くはない。緊張というほど固くもない。長くしまっていた紙を、もう一度きちんと机の中央へ出す前のような、静かな身支度に近かった。
ナディアが戻り、オルドリックが執務室で待っていることを告げると、エレオノーラは封書を持って部屋を出た。
ヴァルクレスト公爵家の執務室は、朝の光の中でも重さを失わない。壁には領地図と王都の古い地図が掛けられ、書棚には革装の台帳が整然と並んでいる。机の上にはすでに数通の書状が置かれていたが、オルドリックはエレオノーラが入ると筆を置いた。父のそばにはアデライードがいた。濃い色の朝のドレスに銀灰の髪をまとめ、扇ではなく薄い手袋をした指で、机の端に置かれた書類の角をそろえている。
「エレオノーラ」
父の声はいつもの低さだった。けれど、朝の執務室で名を呼ぶときのそれは、王宮で娘を送り出すときの重さとは少し違う。用件を聞く公爵の声であり、同時に、娘が自分で書状を持ってきたことを見ている父の声でもあった。
「アシュベル北方大公家より、私宛に書状が届きました。封を切る前に、お父様へお見せしたく存じます」
オルドリックは頷き、手を差し出した。エレオノーラは封書を渡す。父は封蝋を見て、すぐには開けなかった。雪と星の紋章を確認し、紙の厚みを見て、差出人の署名が外側に記された位置まで目を通す。アデライードもその動きを黙って見ていた。どちらも急かさない。王太子の婚約者であるエレオノーラに、現北方大公から書状が届く。そのこと自体に失礼はない。だが、手順を誤れば、失礼ではないものも別の意味を持つ。
オルドリックは封を切った。
紙が開かれる音は小さかった。けれど、エレオノーラには妙にはっきり聞こえた。父の目が一行ずつ動く。アデライードの視線は、父の表情と書面の余白を見ている。エレオノーラは立ったまま、窓から入る朝の光が机の端に移るのを見ていた。
やがてオルドリックは書状を閉じず、アデライードへ差し出した。
「母上も見てくれ」
アデライードは受け取り、静かに読み始めた。父はその間、エレオノーラへ視線を向ける。
「デビュタントの夜に、北方の春の動きについて話を聞きたいと、お前が願ったのだな」
その問いに、エレオノーラは背筋を整えた。
「はい。王宮や学院で聞く春とは違うものがあるのだと思い、もしお時間が許されるならと申し上げました」
「北方大公は、それを私的な招きにはしていない。春の北方報告を前に、王宮提出前の概要を、差し支えない範囲で共有する形を取りたいとある。場所と同席者については、ヴァルクレスト家および王宮側の判断に従う、と」
父の声に、強い警戒はなかった。だが、簡単に許す響きでもなかった。エレオノーラは、その差を聞き取った。ヴィクトルは約束を忘れていない。けれど、それをただ叶えようとしたのではなく、家と王宮の手順の中に置いてくれている。そう分かった瞬間、馬車寄せの夜気の中で聞いた「王宮の手順と、あなたのお父上と」という言葉が、もう一度耳元に戻る。
アデライードが書状を読み終え、机の上へ静かに置いた。
「礼は通っています。文章も、過不足がありません。ただし、エレオノーラは王太子殿下の婚約者です。公爵邸で受けるより、王宮側の承認を得た部屋のほうがよろしいでしょうね」
「私もそう思う」
オルドリックは頷いた。
「王妃府へ照会を出す。北方大公家より、春の北方報告前の概要共有として、エレオノーラへ説明の時間を設けたい旨の書状が届いたこと。王太子婚約者の立場を踏まえ、王宮側の承認と場所の指定を願うこと。こちらからは私が同席する用意があると添える」
アデライードは、わずかに目を細めた。
「私も同席して構いませんが、王宮内で王妃府に近い部屋を使うなら、あなたがいれば足りるでしょう。あまり家の目を重ねすぎると、かえって大仰になります」
「母上がそう言うなら、そうしよう」
「ただし、王妃陛下が別の形を望まれるなら従いなさい。王妃陛下は、あの夜すでにこの子の周囲をよくご覧になっていました。今回のことも、ただの北方の話とは見ないでしょう」
エレオノーラは祖母を見る。アデライードの声は落ち着いているが、その中には、王宮の目を知る者の慎重さがあった。デビュタントの夜、王妃はエレオノーラへ神殿とミリアへの注意を遠回しに伝えた。その王妃が、ヴィクトルとの面会をどう見るのか。エレオノーラはそこまで考え、手袋の中で指を一度だけ重ね直した。
「お父様、お祖母様。私が軽く願ったことで、余計なご面倒をおかけしているのではありませんか」
アデライードの目が、すぐにエレオノーラへ向いた。責める目ではない。けれど、少しだけ厳しい。
「軽く願ったのですか」
「……いいえ」
エレオノーラは答えながら、自分の声が思ったよりもまっすぐ出たことに気づいた。王宮の廊下で、ヴィクトルが北方の春の話をしたとき、彼女はただ社交の余韻で言ったのではない。幼い日に紙へ書いた言葉が、もう一度意味を持って戻ってきたから、聞きたいと思った。学院や王宮で聞く春と、北方の春が違うのだと分かったから、それを知りたいと思った。
「軽い願いではありませんでした。けれど、私が望んだことで、お父様やお祖母様に手順を整えていただくことになります」
オルドリックは、そこで深く息を吐いた。怒りではない。考えを一度置くような息だった。
「エレオノーラ。公爵家の娘が何かを望むとき、手順が必要になるのは当然だ。まして、お前は王太子殿下の婚約者で、相手は北方大公だ。手順を整えずに叶えるほうが、よほど問題になる」
「はい」
「だが、望むこと自体を悪いと思う必要はない。北方の春を知りたいと思ったのなら、その理由を失わずに持っていなさい。手順は私たちが整える。お前は、その手順の中で、聞くべきことを聞きなさい」
父の声が落ちたあと、執務室には紙の端が机に触れる小さな音だけが残った。エレオノーラは、封蝋の割れた青い欠片を見ていた。自分が口にした願いは、もう廊下の夜気の中に置き忘れたものではなく、父の机の上で書状と手順を持つものになっている。胸の奥が少しだけ深くなり、礼をとるために指先をそろえるまで、ひと呼吸だけ必要だった。
「ありがとうございます、お父様」
「礼は、王妃府の返書が届いてからでよい」
「オルドリック、そこは受け取っておきなさい。礼を保留にする父親は、そう多くありませんよ」
アデライードがそう言うと、父は少しだけ眉を寄せた。
「保留したつもりはない」
「そう聞こえました」
「手順の話をしただけだ」
「あなたはすぐ手順に逃げます」
そのやり取りに、エレオノーラは思わず口元をゆるめた。父と祖母が執務室で交わす声は、玄関広間の夜と同じように、彼女の呼吸を少し楽にした。重大な書状が机の上に置かれているのに、この家の中では、父の真面目さを祖母が呆れる余地がある。そのことが、なぜか今朝の光に合っていた。
オルドリックは、書記を呼ぶために卓上の鈴へ手を伸ばした。その音が執務室に小さく響くと、廊下から控えていた従僕が入る。父は王妃府へ照会を出すための文面を口頭で整え始めた。オルドリックが整えた文面を、書記が一字ずつ紙へ移していく。ペン先が紙をこする音が、執務室の朝の光の中で細く続いた。エレオノーラは、机の端に残った深い青の封蝋を見ていた。割れた雪と星の紋章は、もう封を閉じる役目を終えている。それでも、王妃府へ向かう書状が従僕の手に渡るまで、その青は机の上で静かに光っていた。




