第十九話 帰路②
車輪が石畳を越えるたびに、窓の外の灯りがゆるやかに後ろへ流れていく。王宮の高い窓に残っていた舞踏会の光は、門を過ぎるころには細い金の線になり、やがて王都の夜の灯りの一つに紛れた。広間では、音楽も人の声も、衣擦れも扇の音も一つの空気として押し寄せてきたけれど、馬車の中では、革張りの座席が身体を受け止め、揺れに合わせて外套の裾が膝の上でかすかに動くだけだった。
エレオノーラは、胸元の真珠に手を触れないまま、背を座席へ預けすぎないように座っていた。今夜は何度も姿勢を保った。王妃へ礼をとり、アレクシスの手を受け、ヴィクトルと踊り、ベアトリスとクラリッサの祝いを受け、王太子へ帰宅の挨拶をした。その一つ一つは終わったはずなのに、身体のどこかにはまだ広間の床を踏む感覚が残っている。馬車が揺れるたび、足先がわずかに反応し、もう踊る必要はないのだと遅れて思い出すのが少し不思議だった。
向かいの席では、アデライードが扇を閉じたまま膝の上に置いている。王宮を出ても背筋は崩れず、銀灰の髪も乱れていない。けれど、その目は広間にいたときより少しだけやわらかかった。隣に座るオルドリックは、窓の外へ一度視線を向け、それから娘へ戻した。低い灯りの中で見る父の横顔は、屋敷で見るときよりもいくらか疲れているように見えるのに、エレオノーラへ向ける目には、広間で多くの貴族へ応じていたときとは違う重さがあった。
「王妃陛下は、他に何か仰せだったか」
オルドリックの声は静かだった。問いながらも急がせない声だったので、エレオノーラはすぐに答えを整えすぎず、膝の上で手袋の指先を重ねた。
「はい。学院のこと、殿下のご様子、神殿推薦の方について、いくつかお言葉をいただきました。後ほど、記憶の新しいうちに書き留めて、お父様へお渡しいたします」
「そうしなさい。王妃陛下が控えの間でお前に話されたことなら、軽く扱うものではない」
「承知しております」
そこで終わるかと思ったとき、アデライードがわずかに目を動かした。
「それだけではなかったのでしょう」
エレオノーラは祖母を見た。アデライードは扇を開かず、ただ静かに待っている。王妃の言葉を隠していると咎める目ではなく、エレオノーラが言いにくいものを後回しにしようとしていることを、すでに見抜いている目だった。エレオノーラは、王妃の控えの間で聞いた少し明るい言葉を思い出し、馬車の揺れに合わせて小さく息を吸った。
「王妃陛下が、お父様にお伝えするようにと仰せでした」
オルドリックの視線が、まっすぐ娘へ向いた。
「私にか?」
「はい。今夜は少しだけ娘を褒める言葉を増やしてもよいのでは、と」
馬車の中の空気が、一拍だけ止まったようになった。車輪は変わらず動いている。外の夜道も同じ速度で流れている。それなのに、父の沈黙だけが、馬車の中にきちんと形を持って置かれた。オルドリックは眉を動かさず、口元も変えず、ただ深く考えるようにエレオノーラを見た。
「……増やすとは、どの程度だ?」
アデライードが、手にしていた扇の骨を一度だけ指先で押さえた。音はほとんどしなかったが、エレオノーラには、祖母が笑わないようにしているのだと分かった。父は本気だった。王妃の言葉を冗談として流さず、公爵として、父として、どの程度増やすのが適切なのかを考えている。その真面目さがあまりに父らしく、エレオノーラは口元を整えようとして、少しだけ間に合わなかった。
「お父様、王妃陛下は、おそらく数を定めよと仰せになったわけではないと思います」
「数ではないなら、頻度か」
「父親の褒め言葉を、公務の割り振りのように考えるものではありませんよ、オルドリック」
アデライードの声は呆れていた。けれど、その呆れ方には鋭さよりも慣れがあった。息子の真面目さを長年見てきた人にしか出せない、仕方のない人ですね、という響きだった。オルドリックはアデライードへ視線を向け、少しだけ眉を寄せる。
「王妃陛下からの御言葉だ。曖昧に受け取るわけにはいかない」
「だからといって、娘を褒める言葉に基準表を作る父親がどこにいますか」
「必要なら作る」
「必要ありません」
そのやり取りは低い声で交わされていたのに、馬車の中の空気を確かに明るくした。エレオノーラは膝の上の手を少しゆるめた。馬車の揺れに合わせて、父の低い声と祖母の呆れた声が静かに重なり、王宮で張っていた肩の力が、気づかないほどゆっくり落ちていった。
オルドリックはしばらく黙り、それから低く言った。
「今夜のお前は、よく務めた。王妃陛下への礼も、王太子殿下との舞踏も、広間での応対も、ヴァルクレストの名に恥じるものではなかった」
エレオノーラは、思わず姿勢を正した。父の褒め言葉は、いつも重い。華やかに飾られていなくても、彼が軽い気休めを口にしないことを知っているから、その一つ一つが胸へ残る。けれど、そこで終わると思ったところで、オルドリックはさらに続けた。
「それから、セシリアの真珠はよく似合っていた。あれを選んだことも、最後まで乱さずにいたことも、よかった」
エレオノーラは、胸元に触れそうになった手を膝の上で止めた。母の名が出ても、今は痛みだけが戻るわけではない。王宮の光の中で祖母が整え、王妃が目に留め、クラリッサが見て、父が言葉にした真珠。亡き母のものは、今夜、悲しみの箱の中だけに置かれていたのではなく、エレオノーラの御披露目の夜を一緒に越えてきた。
「ありがとうございます、お父様」
「……これで増えたか」
アデライードがとうとう小さく息を吐いた。
「オルドリック、そういうところです」
父は、何が問題なのか分からないように祖母を見た。エレオノーラは視線を伏せ、笑ってはいけないと思ったけれど、頬がどうしてもゆるんだ。王宮で何度も整えた微笑みとは違う。家族の前で、少しだけ隠しきれなくなる笑みだった。
馬車が大きな通りからヴァルクレスト公爵邸へ向かう道へ入ると、窓の外の灯りが変わった。王宮周辺の整った燭台の列が少し遠ざかり、公爵家の馬車が通り慣れた道の暗さと、屋敷へ近づくにつれて増える見張りの灯りが見えてくる。門前で馬車がゆるやかに速度を落とすと、鉄の門が開く音が夜に響いた。エレオノーラは、その音を聞いた瞬間、身体の奥で何かがゆっくりほどけるのを感じた。
帰ってきたのだと思った。
王宮の広間では、どこに立ち、誰に礼をし、どの言葉を返すかを考え続けていた。けれど、この門をくぐるとき、彼女はヴァルクレスト公爵令嬢であると同時に、この屋敷で朝を迎え、廊下の曲がり角に置かれた花の位置を知り、ナディアがどの時間に灯りを替えるかを知っている娘に戻る。もちろん、公爵家の屋敷にも礼法はあり、使用人たちは主家の前で節度を崩さない。それでも、王宮とは違う。ここには、エレオノーラが長い年月の中で積み重ねてきた呼吸があった。
玄関前で馬車が止まると、すぐに従僕が扉を開けた。冷えた夜気とともに、屋敷の灯りが馬車の中へ入ってくる。オルドリックが先に降り、アデライードへ手を貸し、それからエレオノーラへ向き直った。父の手はいつものように安定していた。エレオノーラはその手を借りて馬車を降りる。靴が屋敷前の石に触れた瞬間、王宮の床とは違う硬さが足裏へ伝わった。
玄関扉の前には、ローレンが控えていた。家令としての姿勢は正しく、表情も大きくは動かない。けれど、エレオノーラが馬車から降りたとき、その目元だけがほんのわずかにやわらいだ。両側には従僕と侍女が控え、少し後ろにはナディアの姿もある。王宮へは同行しなかった彼女は、屋敷で待つ間に何度も支度を確かめたのだろう。エレオノーラの外套の裾、髪飾り、真珠、顔色を一瞬で見て、安心したように小さく息を落とした。
「お帰りなさいませ、旦那様、大奥様、お嬢様」
ローレンの声に合わせて、使用人たちが深く礼をとる。玄関広間の灯りは、王宮ほど華やかではない。けれど、磨かれた床に映る明かりも、階段の手すりにかけられた春の花も、壁際に置かれた銀の燭台も、今夜の帰宅を待って整えられていたことが分かった。エレオノーラは、その一つ一つを見ながら、胸の奥がまた少し温かくなるのを感じた。
「ただいま戻りました。皆、遅くまでありがとう」
エレオノーラがそう言うと、侍女の一人が目を伏せたまま、ほんの少しだけ嬉しそうに頬を染めた。従僕たちも姿勢は崩さないが、空気が明るくなる。ローレンは家令として節度を保ったまま、一歩前へ出た。
「お嬢様の御披露目が恙なく終わりましたこと、屋敷の者一同、心よりお祝い申し上げます」
「ありがとう、ローレン。皆が朝から支えてくれたおかげです」
「そのお言葉だけで、明日の朝の働きが少し早くなります」
ローレンは真面目な顔でそう言った。冗談なのか本気なのか、声だけでは分からない。オルドリックが横で低く咳払いをした。
「早くなるのは構わないが、屋敷の者に無理はさせるな」
「心得ております、旦那様。お嬢様からお言葉をいただいた者は、無理ではなく勝手に張り切りますので、その点は私が抑えます」
アデライードが、わずかに目を細めた。
「ローレンまで浮かれているのですか」
「恐れながら、今夜ばかりは屋敷全体が少し浮かれております」
ローレンは淡々と答えた。その淡々とした声に、かえって玄関広間の空気がほどけた。エレオノーラは思わずナディアを見た。ナディアは主人と目が合うと、すぐに礼をとったが、口元には隠しきれない笑みがあった。
「ナディア」
「はい、お嬢様。お疲れではございませんか。お水と温かいお茶をすぐにお持ちいたします。お部屋には着替えの支度も整えてございますが、その前に、少しだけ玄関広間でお待ちいただくことになるかもしれません」
「少しだけ?」
エレオノーラが尋ねると、ナディアは答える前に、階段のほうへ視線を上げた。ローレンも同じ方向を見た。オルドリックは、その動きだけで何かを察したように、重く目を閉じた。アデライードは、手にしていた扇の骨を一度だけ指先で押さえた。
「……リュシアンか」
父の声は低かった。
その名が出た瞬間、二階へ続く階段の上で、押し殺しきれない気配が動いた。衣擦れ。小さな足音。誰かが止めようとする低い声。けれど、その声より早く、階段の上の灯りの中へ、ひとりの少年が現れた。
リュシアン・ヴァルクレストは、もう幼い子どもではなかった。
淡い金を含んだ柔らかな髪は、夜の灯りを受けて明るく光り、頬にはまだ少年らしい丸みがわずかに残っているのに、目鼻立ちは驚くほど整っていた。セシリアの面影を思わせるやわらかな目元と、ヴァルクレスト家の血を感じさせる澄んだ輪郭。その両方が、まだ完全に大人になりきらない年頃の瑞々しさの中で、見る者を一瞬黙らせる華やかさになっている。白い夜着の上に急いで羽織ったらしい上着は、前がきちんと留まりきっていない。だが、その乱れさえ、本人の真剣さのせいで妙に許されてしまう。
彼は階段の途中で止まるつもりだったのかもしれない。けれど、エレオノーラを見た瞬間、止まるという選択肢を忘れた顔になった。
「姉上!」
声が玄関広間に明るく響いた。オルドリックが即座に眉を寄せる。
「リュシアン、夜更けに階段を駆け下りるな。お前はもう幼児ではない」
「駆け下りておりません、父上。まだ一段ずつです」
リュシアンは真剣に答えながら、一段ずつ、しかし明らかに速く降りてくる。後ろから乳母が困った顔で追っていたが、リュシアンは振り返らない。アデライードが静かに息を吐いた。
「一段ずつならよいという話ではありませんよ」
「お祖母様、姉上が帰ってこられたのです。王宮で御披露目を終えた姉上が、今、そこにいらっしゃるのです。階段をゆっくり降りるには、あまりに重大な状況です」
「重大の使い方が大げさです」
「私には重大です」
リュシアンは胸を張って言い、最後の数段だけは本当に少し早く降りた。オルドリックが低く名を呼ぶ。
「リュシアン」
その声に、リュシアンはぴたりと足を止めた。止まれるのだ、とエレオノーラは思った。幼いころなら、そのまま勢いで駆け寄ってきたかもしれない。今の彼は、父の声を聞けば止まる。止まるけれど、目はエレオノーラから一瞬も離れない。成長しているのに、姉を見るときのまっすぐさだけは少しも変わらなかった。
エレオノーラは、思わず一歩前へ出た。
「リュシアン、起きていたの?」
「眠れるはずがありません。姉上のデビュタントの日です。屋敷中がその話をしていて、ローレンは平静な顔をしているのに燭台の位置を三度も直していましたし、ナディアはお茶の葉を二種類用意して迷っていましたし、乳母は私に早く休むようにと何度も言いました」
「リュシアン様」
今度はローレンが静かに声をかけた。リュシアンは、しまったという顔をしたが、すぐにエレオノーラへ向き直る。
「ですが、そのようなことは今は重要ではありません。姉上、王宮の人々はちゃんと見ましたか?姉上がどれほどお美しいか、見落とした者はいませんでしたか?もし見落とした者がいるなら、それは王宮の燭台の配置に問題があります」
玄関広間の空気が、確かに揺れた。従僕の一人が目を伏せ、侍女が唇を引き結ぶ。ナディアは完全に横を向いた。アデライードは呆れたように目を閉じ、オルドリックは低い声で言った。
「燭台に罪を着せるな」
「では、見落とした者の目に問題があります」
「さらに悪い」
「父上は、姉上が今夜どれほどお美しかったか、もう褒めましたか?」
その問いは、まっすぐ父へ向かった。エレオノーラは思わず父を見た。馬車の中で王妃の伝言を受けて、本気で「増やすとはどの程度だ」と尋ねた父。真珠が似合っていたと言ってくれた父。その父が、今、息子に真正面から問われている。
オルドリックは、少しの沈黙のあと、重々しく答えた。
「褒めた」
「どのくらいですか?」
「……必要なだけだ」
リュシアンは、まったく納得していない顔をした。
「必要なだけでは足りません。姉上には、必要以上に褒め言葉があってよいと思います」
アデライードが、今度こそはっきり呆れた声を出した。
「あなたたちは、父子で褒め言葉を量る話ばかりしていますね」
「母上」
オルドリックが低く咎めるように呼ぶと、アデライードは平然と返した。
「事実でしょう。片方は足りるかどうかを考え、片方は足りないと決めつける。どちらも少し落ち着きなさい」
エレオノーラは、もう笑みを隠せなかった。声を立てて笑うほどではない。けれど、王宮で何度も整えた微笑みとは違う、胸の奥からふっとこぼれる笑みだった。リュシアンはそれを見て、ぱっと顔を明るくした。
「姉上が笑いました」
「笑います。あなたがあまりに真剣なのだもの」
「真剣です。姉上の御披露目の日に真剣でなくて、いつ真剣になるのですか」
「その集中を、明日の授業の予習にも少し分けてくれると安心するのだけれど」
リュシアンは一瞬だけ考える顔をした。勉学で困ったというより、姉への言葉と授業を同じ秤に乗せられたことが不本意らしい。
「予習は終えております。ですが、姉上の御披露目を祝うことは、予習とは別の問題です。どちらも大切ですが、今この瞬間に優先すべきものは明らかです」
「話を戻しましたね」
「戻します。大事な話なので」
エレオノーラがそう言うと、リュシアンはようやく彼女の前まで来た。ただし、幼いころのように飛びつきはしない。父と祖母と使用人たちの前で、姉が王宮から帰ったばかりの姿であることを理解しているのだろう。彼は一歩手前で止まり、少し背筋を伸ばした。そうすると、整った顔立ちにヴァルクレストの子息としての品位が戻る。けれど目だけは、姉を見つけた子どものまま輝いていた。
「姉上、本日の御披露目、心よりお祝い申し上げます!」
急に礼儀正しく言ったので、エレオノーラは少しだけ瞬きをした。リュシアンはそこで深く礼をとる。上着の前が少しずれていたせいで、完全に整った礼にはならなかったが、その真剣さは十分に伝わった。
「ありがとうございます、リュシアン」
「本当は、花を用意したかったのです」
「花?」
「はい。けれど、夜に庭へ出ようとしたところで乳母に止められました。ローレンにも止められました。ナディアにも、今夜のお嬢様は花より温かいお茶をお喜びになります、と言われました」
ナディアが静かに頭を下げた。
「僭越ながら、そう申し上げました」
「正しい判断です」
アデライードが即座に言った。リュシアンは少しだけ不満そうにしたが、エレオノーラが笑っているのを見ると、すぐに表情を明るくした。
「では、明日の朝に花を選びます。姉上が起きるころには、部屋に置けるようにします」
「あなたが庭へ出るなら、外套を着て、誰かに付き添ってもらってね」
「はい。姉上がそう仰るなら、必ず」
「私が言わなくても、そうしなさい」
「姉上が言ってくださると、守る理由が増えます」
オルドリックが額に手を当てるほどではないが、目を閉じた。
「リュシアン、理由は一つでよい。風邪を引くからだ」
「父上、それはもちろん分かっております。ですが、姉上に言われたことは、風邪より強い理由になります」
「風邪は理由ではなく結果だ」
「では、姉上に心配をかけることが最大の問題です」
「そこは合っている」
父が重々しく頷いたので、今度はアデライードが本当に呆れた目を向けた。
「オルドリック、そこで頷くから話が長くなるのです」
「間違ってはいない」
「間違っていないことを全部認める必要はありません」
玄関広間の使用人たちは、相変わらず姿勢を保っていた。けれど、空気はもう完全に明るかった。ローレンの声、ナディアの目元、父の低い咳払い、祖母の呆れた沈黙。そこへ階段の上からリュシアンの足音が重なって、エレオノーラは、王宮ではずっと外へ向けていた呼吸が、屋敷の灯りの中で内側へ戻ってくるのを感じた。
ナディアがそっと近づき、エレオノーラの外套の襟元を整えた。
「お嬢様、お部屋へ参りましょう。お茶はすぐにお持ちいたします。リュシアン様には、寝支度を整えてからでなければ、お部屋の前までお見送りはできませんと、先ほどから申し上げております」
「ナディア、それはまだ交渉中だっただろう」
「交渉は終了しております」
「姉上」
リュシアンが真剣な顔でエレオノーラを見た。
「私は、寝支度を整えれば、お部屋の前までお見送りしてよいのでしょうか?」
エレオノーラは父と祖母を見た。オルドリックは重い顔をしていたが、反対するほどではないらしい。アデライードは呆れながらも、口元にごく薄い笑みを浮かべていた。
「寝支度を整えて、ナディアと乳母の言うことを聞くなら、部屋の前までなら」
リュシアンの顔が、ぱっと輝いた。王宮の灯りとは違う。若い王太子の華やかさとも違う。屋敷の中で、姉の一言だけで春の朝のように明るくなる少年の光だった。
「約束します。今すぐ整えてまいります。姉上、どうか先にお休みにならないでください。私は急ぎますが、階段は一段ずつ降りますし、一段ずつ上ります」
「そこを誇る前に、走らないでください」
「はい!」
リュシアンは返事だけは立派にして、しかし上へ戻る足取りは明らかに急いでいた。オルドリックが低く名前を呼ぶ。
「リュシアン」
「一段ずつです、父上!」
「声も落とせ」
「はい、父上」
声を落としたつもりの返事が、玄関広間に十分響いた。アデライードは天井を見るように目を上げ、ローレンは平静な顔で従僕へ合図を出し、ナディアはエレオノーラのそばで小さく息を吐いた。
エレオノーラは、そのすべてを見ながら、胸元の真珠にようやくそっと触れた。王妃の声も、アレクシスの明るさも、ヴィクトルの言葉も、まだ胸の奥に残っている。けれど、上の廊下で弾むリュシアンの足音を聞いていると、それらは少しずつ別の場所へ収まっていった。玄関広間の灯りは王宮ほど強くないのに、今夜の彼女には、その明るさで十分だった。
「エレオノーラ」
父に呼ばれて、彼女は顔を上げた。オルドリックは、少し考えるように娘を見ていた。王妃の言葉をまだ覚えている顔だった。
「今夜は、本当によく務めた。部屋へ戻ったら、何も考えずに休みなさい、と言いたいところだが、お前はおそらく少しは考えるだろう。ならば、考えるのは茶を飲んでからにしなさい」
アデライードが横から言った。
「それは褒め言葉ではなく指示です」
「褒めたうえでの指示だ」
「順番は合っていますが、温度が足りません」
「母上、温度とは?」
「そういうところです」
エレオノーラは、とうとう小さく笑った。今度は隠さなかった。使用人たちが目を伏せ、ナディアが嬉しそうに微笑む。オルドリックは娘の笑みを見て、何かを言いかけ、結局低く咳払いをした。
「……笑えるならよい」
その一言のあと、オルドリックはもう何も足さなかった。ただ、エレオノーラを見る目だけが、玄関広間の灯りの中で少しだけやわらいでいた。
「はい、お父様」
エレオノーラはそう答えた。王宮の広間で何度も整えた声ではなく、屋敷へ帰ってきた娘の声だった。
階段の上から、リュシアンがまた何かを言いかけ、乳母に静かに止められる気配がした。アデライードが呆れたようにため息をつき、ローレンが何事もなかったように玄関広間の灯りを一つ下げる。ナディアがエレオノーラのそばに付き、部屋へ向かうために一歩引いた。
エレオノーラは、家族と屋敷の者たちに囲まれながら、ゆっくり階段へ向かった。白いドレスの裾が、王宮とは違う灯りの中でやわらかく揺れる。母の真珠は胸元で静かに光り、リュシアンの足音は上の廊下でまだ小さく弾んでいる。エレオノーラはその音を聞きながら、ナディアに導かれて、自分の部屋へ続く廊下へ歩いていった。




