第二十話 雪解けの春②
王妃府へ向かう書状が従僕の手に渡ったあと、執務室にはしばらくペン先の余韻のような静けさが残っていた。オルドリックは次の書類へ目を移し、アデライードは椅子の背に触れていた手をゆっくり離した。エレオノーラも礼をとって部屋を出たが、廊下へ出てからすぐに歩き出すことができず、閉じた扉の前で一度だけ息を整えた。願いはもう自分の胸の中だけにあるものではなく、父の声と祖母の判断と、王妃府へ運ばれていく書状の中に移っていた。
それからの日々も、屋敷と学院の用事は止まらなかった。朝は王太子妃教育の復習があり、昼には学院へ向かい、戻れば王宮からの書類と屋敷の茶会準備が待っている。ナディアは支度の合間に窓辺の花を替え、机に置かれた古い紙へ光が当たりすぎないよう布の位置を直した。エレオノーラは礼を言い、開いた書類の上へ視線を戻した。
春の講話の席次表には、神殿推薦の聖女候補ミリア・フェルトンの名が以前より少し目につく位置にあり、エレオノーラは筆先をそこで一度止めた。王妃の控えの間で聞いた声が、紙の白さの向こうから静かに戻ってくる。それでも、その場で線を引くことはしなかった。名の隣に置かれている席、王太子席からの距離、神殿側の随行者の有無を順に見て、筆を持つ指へ余計な力が入らないよう、ゆっくり息を落とした。
雨が降った朝には、学院へ向かう馬車の窓に水滴が残り、王都の石畳が黒く光っていた。晴れた日には、庭の若葉が前より濃く見えた。そうして春の色が少し進んだころ、朝食を終えて私室へ戻ったエレオノーラの前で、ナディアがいつもより深く礼をとった。
「お嬢様、旦那様が執務室へお越しになるようにとのことでございます。王妃府より、お返事が届いたそうです」
エレオノーラは、手袋をはめようとしていた手を止めた。窓の外では、雨上がりの葉が朝の光を受けている。机の端には古い紙があり、ナディアが昨夜かけ直した薄い布の下で、幼い字の輪郭だけが淡く透けて見えた。
「すぐに参ります」
声は乱れなかった。けれど、手袋の指先を整えるとき、布が少しだけ指に引っかかった。ナディアは何も言わず、そっと近づいて手元を助ける。エレオノーラは礼を言い、もう一度だけ机の端を見てから、父の執務室へ向かった。
中へ入ると、オルドリックとアデライードがそろっていた。机の上には、王妃府の印がある白い封書が置かれている。アシュベル家の深い青の封蝋とは違う、王宮の淡い紫を含んだ封蝋だった。
「王妃府より返書があった」
オルドリックが言った。
「王妃陛下は、アシュベル北方大公家からの申し入れを承認なさった。場所は王宮内、王妃府に近い小書斎。日時は、北方大公の正式報告に先立つ前日の午後。私が同席し、王妃付きの侍女と記録官が控える」
エレオノーラは、すぐに声を出さなかった。許可された。けれど、胸が跳ねるような喜びにはならなかった。王妃がきちんと場所と同席者を定めたことに、まず息が落ちた。約束が、曖昧な個人的なものではなく、家と王宮の手順の中で形を得たのだと分かる。
「王妃陛下は、他に何か仰せでしたか」
「短い添え書きがある」
オルドリックは一枚の紙を取り、エレオノーラへ差し出した。そこには、王妃の筆跡で、長くはない言葉が記されていた。
北方の春は、王都の春とは異なるものです。聞いたことは、ただ美しい話としてではなく、王家が見落としてはならないものとして受け取りなさい。
エレオノーラは、その文字を目で追い、最後の一行で指先が少し止まった。王妃は許可しただけではない。あの控えの間で言ったことを、まだ続けている。全部を警戒の目で見ていては春の夜が自分のものにならないと告げた人が、今度は北方の春を、王家が見落としてはならないものとして受け取れと言っている。祝いを受け取ることと、見落としてはならないものを見ることは、別々のものではないのかもしれない。
アデライードが静かに言った。
「王妃陛下は、あなたにただ聞かせるつもりではないようですね」
「はい」
「ならば、当日は綺麗に聞くだけでは足りません。分からないことは、分からないままにせず、失礼にならぬ範囲で問いなさい。北方大公は、あなたが飾った返事だけをすることを望んで書状を寄越したわけではないでしょう」
エレオノーラは顔を上げた。祖母の声は厳しい。けれど、その厳しさの奥に、昨日と同じように、孫娘の願いを手順の中で通すための確かな支えがあった。
「はい、お祖母様。聞くべきことを、聞いてまいります」
「それでよろしい。質問をするなら、紙に書いて持っていくのではなく、頭の中に入れておきなさい。紙だけを見ていると、相手の声を聞き落とします」
「はい」
オルドリックは頷き、王妃府の返書を丁寧に畳み直した。
「明日は、私とともに王宮へ行く。王太子殿下には、王宮側から伝えられるだろう。お前から先に話す必要はない」
「殿下にも、ですか」
「王太子殿下の婚約者が、北方大公から王宮内で説明を受ける。王太子殿下の耳に入れずに済ませることではない。ただし、これは王妃府の承認を得た公的な場だ。お前が余計に気を回す必要はない」
「承知いたしました」
返事をしたあと、エレオノーラは自分の声が少しだけ低く落ち着いていることに気づいた。朝、封書を見たときとは違う。願いが手順を通り、王妃府の承認を得たことで、胸の中にあった揺れが、きちんと座る場所を見つけたようだった。
その夜、エレオノーラは私室で古い紙を開いた。
机の上には、王妃府の添え書きの写しと、明日着る昼のドレスに合わせる手袋の色見本が置かれていた。ナディアは衣装箱の前で、王宮の小書斎にふさわしい控えめな装いを選んでいる。白すぎず、社交の華やかさを前に出しすぎず、けれど公爵令嬢としての品を失わないもの。淡い青灰の布が候補に上がり、ナディアはそれに細い銀の刺繍が入りすぎていないか、光の下で確かめていた。
エレオノーラは、その衣擦れを聞きながら、古い紙の文字を指でなぞらずに見つめた。橋、砦、道、薪、薬、冬、忘れるな。字は幼い。線も今よりずっと不安定だ。それでも、忘れるな、という最後の言葉だけは、書いた当時の力が残っているように見えた。
「お嬢様、その紙もお持ちになりますか」
ナディアが静かに尋ねた。
エレオノーラはすぐには答えなかった。紙を持っていけば、ヴィクトルに見せることもできる。けれど、これは報告を受けるための資料ではない。幼いころの自分が、忘れないために残したものだった。明日の王宮小書斎へ持っていくには、少し私的すぎる。そう考えたところで、自分がこの紙を見せたいのではなく、この紙に書かれたものが今どう動いているのかを聞きたいのだと分かった。
「いいえ。持ってはいかないわ。けれど、ここに置いておいて」
「机の上でよろしいですか」
「ええ。明日の朝、出る前にもう一度見ます」
ナディアは一礼し、紙のそばに薄い布を置いた。覆うためではなく、夜の湿気が直接当たらないようにするためのものだった。エレオノーラはその手元を見ながら、明日、王宮小書斎でどんな声を聞くのかを思った。北方の春。王都の花とは違う春。雪が解け、橋を直し、砦へ荷を送り、道を開く春。
翌日、王宮へ向かう馬車の中で、エレオノーラは窓の外の若葉を見ていた。
父は向かいの席で、王妃府からの返書をもう一度確認している。オルドリックの指は紙の端を乱さず、封筒へ戻す動きにも迷いがない。王宮へ向かう道は、デビュタントの日とは違って昼の光に満ちていた。夜の広間へ向かったときのような華やかな緊張ではなく、これから公的な説明を受けるための静かな張りがある。
「エレオノーラ」
「はい、お父様」
「今日は、聞いたことをその場で全部理解しようとしなくてよい。北方大公の話は、おそらく王宮の書類より現場に近い。分からなければ問いなさい。ただし、問いは相手の言葉を遮るためではなく、理解するために置きなさい」
「承知しております」
「それから、北方大公がどれほど親しい声で応じたとしても、場は王宮小書斎だ。呼称と礼は崩さないように」
エレオノーラは、少しだけ目を伏せた。馬車寄せの廊下で、うっかりヴィクトル様と呼んだ記憶が戻る。父がそれを知っているわけではない。けれど、オルドリックは、娘が気をつけるべき線を当然のように見ている。
「はい。北方大公閣下、とお呼びします」
「それでよい」
父はそれ以上言わなかった。けれど、その沈黙は厳しいだけではない。手順を整えたうえで、娘が自分の願いをきちんと聞きに行くことを認めている沈黙だった。
王宮に着くと、王妃府の侍女が出迎えた。広間へ向かう道ではなく、王妃の執務区画に近い静かな廊下を進む。昼の王宮は、夜の舞踏会とはまるで違う音を持っていた。靴音は控えめで、扉の開閉も少なく、時折聞こえる書類を運ぶ侍従の声が、壁に吸われるように低く響く。エレオノーラはその中を歩きながら、胸元に真珠がないことをふと思った。今日は母の真珠ではなく、控えめな青灰のドレスに小さな銀の飾りだけを合わせている。デビュタントの夜とは違う自分で、北方の春を聞きに来たのだと思うと、歩幅が少しだけ落ち着いた。




