第十六話 控えの間にて
今回は文字数が多いです。
普段は区切って投稿しているのですが、今回は区切ることで内容が雑になってしまいそうだったため、この形で投稿いたしました。
読みづらい部分がありましたら申し訳ありません。
王宮付きの侍女は、エレオノーラが歩き出すのを待ってから、半歩先へ出た。
広間の音は、扉へ近づくにつれて少しずつ後ろへ下がっていった。楽師の弦が次の曲を拾い、若い令嬢の笑い声が扇の陰でほどけ、靴音と衣擦れが磨かれた床の上を幾重にも流れている。エレオノーラはそのすべてを背に受けながら、ドレスの裾を乱さない速さで侍女についていった。胸元の真珠は歩くたびにかすかに揺れ、肌へ直接触れているわけではないのに、その重さだけは呼吸の近くに残っている。先ほどヴィクトルと踊ったとき、力を入れていることに気づき、自分で少しだけ緩められた指先は、今また扇の骨を正しい強さで持っていた。完全に楽になったわけではない。けれど、力が戻ってきたことを自分で分かっているだけ、広間へ入ったときとは少し違っていた。
扉のそばで、王宮侍従が静かに礼をとった。侍女が小声で何かを伝えると、侍従はすぐに頷き、重い扉を大きく開けるのではなく、人ひとりが通れるだけの幅で押し開いた。そこから漏れてきた廊下の空気は、広間ほど熱を含んでいなかった。花の香りも、人々の香油も、燭台の明るい匂いも薄まり、磨かれた石と古い木と、王宮の奥にいつもある静けさが戻ってくる。エレオノーラは一礼して扉を抜けた。背後で音がやわらかく閉ざされると、広間の華やぎは壁の向こうで布をかけられたようになり、代わりに自分の足音と、侍女の衣擦れがはっきり聞こえた。
王妃の控えの間は、舞踏会の広間からそれほど離れていなかった。けれど、廊下を数度曲がるだけで、王宮は別の顔を見せる。来客のための花は控えめになり、壁に掛けられた織物の色も深くなる。窓辺には夜の庭が見え、春の白い花が暗がりの中でぼんやりと浮いていた。エレオノーラはその白を目に留め、学院の講堂の窓辺で揺れていた花を思い出しかけたが、足を止めなかった。今ここで呼ばれているのは、あの講堂にいた少女のことだけではない。王妃が自分を呼んだ理由は、きっとひとつではない。そう分かっているから、胸の奥で先に答えを作ろうとする癖を、エレオノーラは小さく押しとどめた。
侍女が控えの間の扉の前で止まり、中へ取次ぎをした。すぐに返事があり、扉が静かに開く。
室内は広すぎなかった。王妃が舞踏会の途中で休むための部屋だから、華美な応接室ほど人目を意識した造りではなく、壁際には低い長椅子と小卓が置かれ、淡い菫色の花が小さな器に生けられている。燭台の火は広間よりも低く、鏡も少ない。王妃イザベラは、窓に近い椅子に腰かけていた。広間で見たときと同じ淡い菫色のドレスは、灯りの少ない部屋では少し落ち着いた色に見え、真珠と薄紫の宝石だけが静かに光を受けていた。彼女のそばには侍女が二人控えていたが、王妃が目だけで合図すると、一人は茶の支度へ、もう一人は扉のそばへ下がった。
エレオノーラは、定められた距離で深く礼をとった。
「王妃陛下。お召しにより参上いたしました」
「顔を上げてちょうだい、エレオノーラ」
その声は広間で聞くよりも近かった。王妃としての響きは失われていないのに、幼いころから王宮へ通っていたエレオノーラを知る人の温度が、その奥にかすかに混じっている。エレオノーラが顔を上げると、イザベラはほんの少し目元をやわらげた。
「まずは、今夜の御披露目を祝わせて。とてもよく務めましたね。白の中に入れた淡い青も、あなたによく似合っていました。真珠も、よい位置に置かれていたわ」
「ありがとうございます。祖母が、最後に直してくれました」
「そうでしょうね。アデライード様の目は、今も少しも緩んでいらっしゃらないもの」
王妃の口元に、わずかな笑みが乗った。エレオノーラは、その笑みに合わせて微笑もうとして、自分の頬が広間で作っていた形より少しだけ楽に動くのを感じた。祖母の名が王妃の口から出たとき、控えの間の空気が少しだけ家のほうへ寄ったからかもしれない。けれど、イザベラの視線はすぐに胸元の真珠へ移り、長く留まらず、またエレオノーラの顔へ戻った。
「その真珠を今夜選んだことも、よく分かります。セシリア様も、きっと喜んでいらっしゃるでしょう」
エレオノーラは、胸の前で手を重ねた。母の名は、もう幼いころのように身体をまっすぐ貫いてくるだけのものではなくなっている。それでも、王宮の控えの間で王妃の声に乗って届くと、胸の奥の深いところが静かに震えた。泣きたいわけではない。痛みを掘り返したいわけでもない。ただ、今夜ここまで連れてきたものの中に、母の真珠が確かにある。そのことを誰かが丁寧に見てくれたのだと分かった。
「母のものを、今夜身につけたいと思いました。父も、祖母も、許してくださいました」
「ええ。あなたのお父様は、広間で少しも表情を崩していらっしゃらなかったけれど、あなたが礼をとったときの目だけは、父親のものでした」
エレオノーラは思わず目を伏せた。オルドリックは広間で、ヴァルクレスト公爵として立っていた。自分を導いた手も、王妃へ向けた礼も、周囲へ見せる態度も、すべて公爵家のものだった。けれど王妃は、その奥にある父の目を見ていたのだという。エレオノーラは父を思い出し、出かける前に短く言われた「行くぞ」の声まで一緒に戻ってくるのを感じた。あの短い声には、急かす響きではなく、娘を王宮へ送り出す父の覚悟があった。
「父には、朝からずっと支えてもらいました」
「支えられることを、あなたが受け取れるようになったのなら、それはよいことです」
イザベラはそう言って、侍女が置いた茶器へ視線を向けた。侍女が静かに茶を注ぎ、小卓に二客を整える。王妃は手で座るよう促した。エレオノーラは一度礼をして、示された椅子へ腰を下ろす。広間の中央で踊ったあとの膝は疲れていないはずだったが、座った瞬間、足首の奥に残っていた緊張が少しだけ分かった。自分が思っていたよりも長く、立ち続けていたのだと知る。
「学院のほうはどうですか」
王妃は茶杯を取る前に尋ねた。声の運びは穏やかだった。今夜の祝いから、近況を尋ねる流れとして自然だった。けれど、エレオノーラはその問いの中に、ただの雑談ではない重さがあることも感じ取った。王妃が自分の時間を割いて呼び、控えの間で尋ねる学院の様子。それは、講義の進み具合や友人関係だけで終わる問いではない。
「大きな滞りはございません。春の講話も始まり、社交期に向けて学院内も少し落ち着かない空気ではございますが、授業と公務に関わる準備は進んでおります」
「あなたは昔から、滞りがない、と言うときほど、多くのものを整えている顔をするわ」
エレオノーラは茶の香りを吸い込む途中で、ほんの少しだけ呼吸を浅くした。王妃は責めているわけではない。むしろ、その言い方には注意深い気遣いがあった。だが、言葉の中に含まれた見透かすような静けさは、広間の賛辞よりもずっと逃げ場がない。
「王妃陛下の御前で、曖昧なことは申し上げられませんので」
「曖昧にしないことと、全部を自分で抱えることは同じではありませんよ」
エレオノーラは茶杯を小卓へ戻した。陶器が受け皿に触れる音は小さく、控えの間の低い灯りの中で、すぐに消えた。ヴィクトルの声が、まだ手元のどこかに残っている。王妃がそれを知っているはずはない。けれど、今日という一日の中で、同じところへ別々の人の言葉が届いていることに、エレオノーラは返事を急いで整えすぎないよう、膝の上で指先を静かに重ね直した。
「肝に銘じます」
「ええ。そう答えるところも、あなたらしいわ」
イザベラは茶をひと口含み、少し間を置いた。その間は、会話を切るものではなかった。王妃が次の言葉を雑に置かないための静けさだった。エレオノーラは茶杯を膝の近くへ戻し、王妃の目を待った。
「アレクシスは、学院でどう過ごしていますか」
来ると思っていた問いだった。だが、実際に聞かれると、胸の内側でいくつもの答えが同時に動いた。王太子殿下はお健やかです。皆様に慕われています。講話にも関心を示しておられます。学院でも明るく、場を和ませていらっしゃいます。どれも嘘ではない。嘘ではないからこそ、そこで止めれば、王妃が本当に聞きたいものには届かない。
エレオノーラは、茶杯の水面に映る灯りを一度見た。広間で飲んだ水とは違う。温かい茶の表面は、揺れが小さく、灯りをやわらかく包んでいる。今ここで答える言葉は、王妃への報告であり、婚約者としての言葉でもある。王太子を守るために整えすぎれば、王妃を欺くことになる。王太子の未熟さを強く言いすぎれば、婚約者としての節度を欠く。エレオノーラはその二つの間で、声の高さを選んだ。
「殿下は、学院でも多くの方にお声をかけていらっしゃいます。新しく学院へ加わる者や、地方から出てきた子女にも隔てなく接しておいでです。その明るさに救われる方も多いと思います」
イザベラは頷いた。
「そうでしょうね。あの子は、明るい場所を作ることを怖がらない子です」
「はい」
「けれど、明るい場所には、人が集まります」
その言葉のあと、王妃は茶杯を置いた。陶器が小卓に触れる音は小さい。エレオノーラは、その小さな音を聞きながら、ミリア・フェルトンの名が扇の陰から抜けて届いた広間の端を思い出した。学院の講堂で深く礼をした少女。王太子席の近くに置かれた席。アレクシスが安心させるように微笑んだ瞬間、頬を染めた顔。周囲がそれをどう受け取ったか。本人が何を理解していたか。そこに生まれる意味を、誰が整えるのか。
「神殿推薦の聖女候補が、学院へ加わりました」
イザベラの目が、少しだけ細くなる。エレオノーラがどこまで見ているかを確かめる目だった。
「ミリア・フェルトン嬢ですね」
「ええ。あなたも講話で会ったのでしょう」
「はい。まだ学院の場に不慣れなご様子でした。神殿の方に促されて礼をとられましたが、少し深く、王宮であれば直される角度だったかと存じます」
「厳しい見方ね」
王妃の声は穏やかだった。エレオノーラはすぐに言葉を足さなかった。言い訳のように聞こえるのを避けたかったし、王妃が自分を責めているのではないことも分かっていた。だから、茶杯を置き、手を膝の上で重ねた。
「未熟であることを責めるつもりはございません。けれど、その未熟さが、そのまま素直さとして受け取られていることは気になりました」
イザベラは黙って聞いていた。沈黙に促され、エレオノーラは続ける。
「本人が悪意を持っているとは思っておりません。少なくとも、私が見た範囲では、場に慣れず、周囲を怖がりながら立っている少女でした。ただ、その方が神殿推薦の聖女候補として紹介され、王太子席に近い場所へ案内されますと、周囲は本人の意思より先に意味を作ります。今夜の広間でも、すでに名が聞こえておりました」
「どのように」
「癒やしの力をお持ちなら王宮でもお目にかかる機会があるかもしれない、殿下も学院でお声をかけられたそうだ、春の慈善訪問にお連れになることもあるかもしれない、と」
イザベラは、そこで目を伏せた。怒りではない。呆れでもない。すでに予想していたものが、予想より早く形を持ち始めたことを受け止める顔だった。王妃はそのまま数拍黙り、指先で茶杯の縁に触れた。エレオノーラは、その沈黙を急がせなかった。
「アレクシスは、彼女に親切にしたでしょう」
「はい」
「その親切は、悪意からではない」
「存じております」
「そして、そこが難しいのです」
イザベラの声は低くなりすぎなかった。扉のそばに控える侍女たちにも届きすぎない、しかしエレオノーラには確かに届く音だった。
「悪意なら、退けることはたやすい。欲なら、名をつけて戒めることもできます。けれど、善意と好奇心と、若い者の明るさが混じったものは、本人たちの目には美しく見えます。神殿は、その美しさを嫌いません。王宮もまた、民に見せる物語を必要とすることがある。癒やしの力、神殿推薦、若い王太子の慈愛。並べれば、耳に心地よい言葉になるでしょう」
エレオノーラは、膝の上の手を動かさなかった。王妃は、ミリアを断罪していない。神殿を敵と名指してもいない。けれど、その並べ方が危ういことを、はっきり示している。エレオノーラが学院で感じた違和感は、ただ自分の慎重さから生まれたものではなかったのだと、静かに分かっていく。
「王妃陛下は、神殿をお疑いでいらっしゃるのですか」
問いは慎重に出した。強く踏み込めば不敬になる。曖昧にしすぎれば、何も尋ねなかったことになる。イザベラは、その均衡を見ているようにエレオノーラを見つめた。
「疑いはまず、慎重でなければいけません」
「はい」
「ただ、目を離してよいとも思っていません。神殿は信仰を預かる場所です。施療院も、民の救いも、その手にあります。だからこそ、そこに集まる敬意と金と人の流れは、いつも清らかな言葉だけで動いているわけではない。あなたは、寄進目録を見たでしょう」
マルヴィン侯爵家の推薦状。大きな額面。同じ施療院への偏り。王妃へ再確認をお願いする形で渡した書類。エレオノーラは、朝の小書斎の光と、アレクシスの「父上も重く見ている家だ」という声を思い出した。あのときも、彼は疑うような言い方をしないほうがいいと言った。疑うためではない。後に偏りを指摘されぬよう、先に整えるためです。自分の返した言葉が、今になってもう一度胸の内側を通る。
「拝見いたしました。昨年の配分記録と照らし、再確認をお願いしたものがございます」
「届いています。よく見てくれました」
褒められたのだと分かった。けれど、エレオノーラはすぐに礼を重ねなかった。今、王妃が言っているのは、仕事の出来栄えだけではない。寄進目録、神殿、聖女候補、王太子の明るさ。別々に見えたものが、王妃の控えの間でゆっくり同じ卓の上へ置かれていく。まだ糸で結ばれているとは言えない。だが、近くに置かれたものは、いつか誰かに結ばれる。
「ミリア・フェルトン嬢ご本人については、まだ何も申し上げられません」
エレオノーラは言った。
「ええ。それでよいのです。急いで悪名をつけてはなりません。あの少女が何を知っているのか、何を知らずに立たされているのか、それを見誤れば、守るべきものまで傷つけます」
「守るべきもの」
「王家の秩序も、学院の席次も、施療に関わる記録も。そして、場合によっては、彼女自身もです」
その言葉に、エレオノーラは少し息を止めた。ミリアを警戒することと、ミリア自身を守ることは、別の場所にあるようで、実は同じところへつながるのかもしれない。未熟な少女が、聖女候補という名を持たされ、神殿推薦として学院へ入り、王太子の近くに置かれる。周囲が望む形へ彼女を飾りはじめたとき、本人の足場はどこに残るのか。広間でエレオノーラが感じた危うさを、王妃も別の高さから見ている。
「殿下は、善い力を善いことに使うのは悪いことではないと仰いました」
イザベラは、かすかに目を伏せた。
「あの子らしい言い方です」
「間違っているとは、私も思いません」
「ええ。間違っていない言葉ほど、扱いを誤ると厄介です」
王妃の声には、母としての疲れがほんの少しだけ含まれていた。エレオノーラはそれを聞き取り、すぐに答えを出せなくなる。イザベラは王妃である前に、アレクシスの母でもある。王太子の明るさを美点として知り、その未熟さを弱点として知り、それでも王国の前へ立たせなければならない人。エレオノーラはその重さを、今まで王妃の装いの向こう側にあるものとしてしか見ていなかったのかもしれない。今日、控えの間の低い灯りの中で見るイザベラは、王冠の重みだけでなく、息子を人々の視線の中へ出し続けてきた母の顔も、ほんのわずかに見せていた。
「エレオノーラ」
名を呼ばれ、エレオノーラは姿勢を正した。イザベラは、それを見て少しだけ首を横に振る。
「そんなに固くならなくてよいのです。けれど、聞いてちょうだい」
「はい」
「神殿推薦の者に近づくな、とアレクシスに言うことはできます。ですが、それを今、強く命じれば、あの子は理由を求めます。理由を与えれば、神殿との間に角が立つ。理由を与えなければ、善意を止められたと受け取るでしょう。王太子として人を気遣うことを、母が疑ったのだと感じるかもしれない」
エレオノーラは返事をしなかった。アレクシスの顔が浮かぶ。君は心配しすぎる、と笑った顔。新しい風が入るのは悪いことではないと言った声。善い力を善いことに使うのは悪いことではないだろう、と明るく置いた言葉。彼にとって、それは本当に明るい善意なのだ。そこへいきなり警戒の言葉を投げ込めば、彼はきっと、なぜそんなふうに見るのかと戸惑う。戸惑いは、いつか反発に変わるかもしれない。
「だから、順を乱さずに見ていく必要があります」
王妃は続けた。
「学院での席次。神殿側の随行者。慈善訪問の名簿。寄進の配分。誰が推薦し、誰が案内し、誰が殿下へ近づけるのか。ひとつひとつは些細に見えても、積もれば形になります。形になってから壊せば、多くの者が傷つく。形になる前に、記録と手順を整えるのです」
「……私に、それを」
「あなた一人に背負わせるつもりはありません」
王妃の返事はすぐだった。エレオノーラが最後まで言う前に、イザベラの声が重なる。台詞を奪う強さではなく、そこだけは誤解させないための速さだった。
「王妃として、私も見ます。王宮の侍従にも、学院側にも、必要なところへ目を置きます。けれど、学院でアレクシスのそばに立ち、彼の言葉の温度をいちばん近くで聞けるのは、あなたです」
エレオノーラの喉の奥が、少しだけ詰まった。あなた一人に背負わせない。そう言われたばかりなのに、続く言葉は確かに重い。矛盾ではない。王妃は、自分一人にすべてを押しつけようとしているのではない。だが、それでも、エレオノーラにしか見えない場所がある。婚約者として、学院で隣に立つ者として、アレクシスの明るさがどこへ向くのか、誰がそれを受け取り、周囲がどう意味を作るのかを、近くで見なければならない。
「殿下を、お止めすればよろしいのでしょうか」
「止めることばかり考えれば、あの子はあなたの言葉を壁だと思うでしょう」
イザベラは、少しだけ寂しそうに微笑んだ。
「アレクシスは、褒められることにも、期待されることにも慣れています。けれど、自分の善意が誰かを困らせることがあるのだと、まだ十分には知らない。あなたがただ止めれば、あの子は自分の明るさを否定されたように感じるでしょう。けれど、あなたが手順を示せば、王太子としてどう振る舞えばその善意を傷つけずに済むのかを、学ぶ余地が残ります」
「手順を」
「ええ。紹介するなら、誰を同席させるのか。慈善訪問に加えるなら、どの名目で、どの記録を残すのか。席を近づけるなら、誰の承認を経たのか。神殿の推薦を受けるなら、王宮側が何を確認するのか。そういうことを、感情の前に置くのです」
それは、エレオノーラがこれまでしてきたことだった。挨拶文の順を直し、寄進目録を確認し、席次の意味を考え、名簿を見る。アレクシスには、それが心配しすぎに見える。席次の話ばかりをする婚約者に見える。けれど王妃は、それを手順と呼んだ。感情の前に置くもの。善意を傷つけず、しかし善意だけで進ませないためのもの。
「私にできるでしょうか」
問いが、思ったよりも素直に出た。エレオノーラは自分で少し驚いた。王妃の前で弱さを見せるつもりはなかった。けれど、見せないまま整えた返事だけを置けば、イザベラが今ここで開いてくれた言葉へ、同じ誠実さで返したことにはならない気がした。
イザベラは、茶杯に手を伸ばさず、エレオノーラを見つめた。
「できるかどうかを、一人で答えようとしないでください」
その声は、王妃としての命令よりも、ずっと静かだった。
「できない日もあるでしょう。見落とすこともある。アレクシスが聞かないことも、あなたの言葉を軽く受け取ることもあるかもしれません。そのとき、自分の力が足りなかったとだけ思わないで。あなたは王太子の婚約者であって、王太子のすべての未熟さを一人で引き受けるためにいるのではありません」
エレオノーラは、すぐに息ができなかった。広間の中でヴィクトルに言われた言葉とは違う形で、同じ場所を触れられたようだった。一人で整えるものではない。あなたの責任だけではありません。王妃の声がそこへ重なり、エレオノーラの胸の中で、長く当たり前のように置かれていたものの輪郭が少し見える。王太子が明るく立つために、周囲が安心するために、王宮の言葉が乱れないために、自分が整える。そのことを誇りにもしてきた。務めだとも思ってきた。けれど、務めと、すべてを自分のせいにすることは同じではなかった。
「それでも」
エレオノーラは、ゆっくり言葉を選んだ。
「私は、殿下の婚約者です」
「ええ」
「殿下の隣に立つと決められた者として、見えるものを見なかったことにはできません」
「それでよいのです」
イザベラの目元が、ほんの少しやわらいだ。
「私は、あなたにアレクシスの母になってほしいわけではありません」
その言葉に、エレオノーラの指がわずかに動いた。王妃は見ていた。けれど、あえてそこへ触れずに続ける。
「妻となる者にも、婚約者にも、母の代わりをさせてはならない。けれど、王太子の隣に立つ者として、あの子がまだ見えていないものを、共に見てほしいとは思っています。止めるだけではなく、整えるだけでもなく、必要なときには王妃へ戻しなさい。これは私の管轄です、と言ってよいものは、こちらへ渡しなさい」
エレオノーラは、王妃の言葉を一つずつ受け取った。王妃へ戻す。こちらへ渡す。そんな選択肢を、自分はどれだけ持てていただろう。王宮の小書斎で書類を整え、アレクシスに説明し、心配しすぎだと笑われ、それでも次の書類へ手を伸ばす。そこで王妃へ戻してよいものがあると、今までどれだけ考えていたのだろう。
「覚えておきます」
「覚えるだけでなく、使ってください」
イザベラの声に、少しだけ母親らしい厳しさが戻った。エレオノーラは思わず背筋を伸ばし、それから、王妃が先ほど固くならなくてよいと言ったことを思い出して、肩に入った力を少しだけ下ろした。イザベラはその小さな変化を見て、目元だけで笑った。
「今のほうがよいわ」
エレオノーラは、微笑みを返した。
「今夜は、そう言われることが多いようです」
言ってから、少し言葉が近すぎただろうかと思った。だが、王妃は咎めなかった。
「そう。では、あなたの周りには、今夜あなたを見ている者がちゃんといたのね」
その言葉の中にヴィクトルの名はない。だが、エレオノーラの胸元の真珠がかすかに揺れた。王妃はそこへ踏み込まず、茶杯を取った。控えの間の灯りが、薄紫の宝石に小さく反射する。
「アレクシスを、お願いします」
やがて、王妃は静かに言った。
その一言は、先ほどまでの会話をすべて通ったあとで置かれたため、ただの依頼には聞こえなかった。息子を任せる母の言葉であり、王太子を支える婚約者へ向けた王妃の言葉であり、王家の危うさを知る者が、それでも未来へ手を伸ばすための言葉だった。エレオノーラは、その重さを軽くする返事をしたくなかった。大丈夫です、と言えば簡単だ。必ずお守りします、と言えば美しい。けれど、そのどちらも、今聞いたばかりの「一人で引き受けるな」という言葉から離れてしまう。
だから、エレオノーラは少し時間を置いた。
王妃も待った。
「私に見えるものは、見落とさないよう努めます。殿下のお心を疑うためではなく、殿下のお言葉が、望まぬ形で利用されぬように。神殿推薦の方についても、急いで名をつけず、けれど手順と記録から目を離しません。私だけで抱えるべきでないことは、王妃陛下へお戻しいたします」
イザベラは、深く頷いた。
「それでよいのです」
エレオノーラは礼をとろうとして、まだ椅子に座っていることに気づき、まず静かに立ち上がった。裾を整え、あらためて深く礼をとる。王妃の控えの間の空気は、広間へ入る前よりも少し重く、けれど輪郭を持っていた。何を背負うのか、何を戻してよいのか、その線が完全ではなくても、少しだけ見えたからだ。
「王妃陛下のお言葉、確かに承りました」
「ええ。けれど、今夜はあなたのデビュタントでもあります。戻ったら、もう一度くらいは祝いの言葉を素直に受け取りなさい。全部を警戒の目で見ていては、春の夜があなたのものにならないわ」
その言い方は、王妃としてよりも、幼いころから王宮に通う少女を見てきた年長の女性のものだった。エレオノーラは、胸の奥で少しだけ息がほどけるのを感じた。
「はい」
「それから、アデライード様に、真珠の位置は見事でしたとお伝えして」
「祖母が喜びます」
「お父様には、今夜は少しだけ娘を褒める言葉を増やしてもよいのでは、と」
エレオノーラは、思わず瞬きをした。オルドリックがそれを聞いたら、どんな顔をするだろう。おそらく、表情はほとんど変えない。けれど、ほんのわずかに目を伏せて、「王妃陛下は余計なことを」と低く言うかもしれない。その想像が、控えの間の重さの中に小さく明るい隙間を作った。
「……そのままお伝えしてよろしいのでしょうか」
「もちろん。王妃の言葉ですもの」
イザベラは涼しい顔で言った。エレオノーラは礼の形を崩さないようにしながら、口元だけで微笑んだ。王妃もそれを見て、満足そうに目を細める。
「行きなさい、エレオノーラ。広間へ戻る前に、廊下で少し息を整えても構いません。王宮の誰も、それを咎めません」
「ありがとうございます」
今度の礼は、さきほどより少しだけ深くなった。王妃への敬意と、受け取った言葉の重さと、今夜の自分を祝いの席へ戻してくれたことへの感謝が、同じ動きの中に入った。
侍女が扉を開ける。廊下の空気が控えの間へ流れ込む。エレオノーラはもう一度王妃へ礼をとり、部屋を出た。扉が背後で閉まると、広間の音はまだ遠かった。廊下の窓には夜の庭があり、白い花が暗がりの中で揺れている。エレオノーラは、侍女が少し先で待っているのを見ながら、その場で一度だけ立ち止まった。
王妃の言葉は、すぐには軽くならない。
神殿推薦の聖女候補。癒やしの力。王太子の善意。寄進目録。席次。記録。手順。アレクシスをお願いします、という静かな重さ。どれも、広間へ戻ればまた音楽と笑い声の中に紛れるだろう。けれど紛れることと、消えることは違う。エレオノーラは、手袋の中で指を一度曲げ、すぐに伸ばした。力が入っていることを知っている。ならば、少しだけ緩めることもできる。
窓の外の白い花を見て、彼女は胸元の真珠に触れないまま、そこにあることだけを感じた。
王宮の言葉を一人で整えるものではないと、今日、二度言われた。
その意味をすぐにすべて理解できるほど、自分は器用ではない。けれど、すべて分かったふりをして広間へ戻る必要もない。分からないものを分からないまま抱え、ただ見なかったことにはしない。必要なものを記録し、必要な時には王妃へ戻す。アレクシスの明るさを疑うためではなく、その明るさが誰かに利用されないために。
エレオノーラは息を吸い、侍女へ小さく頷いた。
広間の扉が近づくにつれて、音楽がまたはっきりしてくる。今度の曲は少し軽やかで、笑い声も先ほどよりほどけていた。扉の向こうには、父がいて、祖母がいて、アレクシスがいて、ヴィクトルもいる。扇の陰には、きっとまだミリアの名が残っている。何も終わっていない。けれど、何も知らないまま戻るわけでもない。
侍従が扉を開けた。春の舞踏会の光が、再びエレオノーラの白いドレスへ流れ込む。
彼女は顔を上げ、王太子の婚約者として、ヴァルクレスト公爵令嬢として、そして今夜デビュタントを終えた一人の令嬢として、広間の中へ歩いて戻った。




