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婚約破棄された悪役令嬢は、白銀の大公に最愛を捧げられる  作者: ごゅみ
第一部 婚約破棄

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第十五話 デビュタント⑤

エレオノーラは、差し出された手を見た。白い手袋の先に、広間の灯りが淡く映っている。ヴィクトルの手は、相手を急かすほど近くはなく、断りを疑うほど遠くもなかった。公の場で許される距離を守りながら、受けるかどうかを彼女に残している。その形があまりに整っていたので、近くにいた令嬢の一人が、ほっとしたように瞬きをしたのが見えた。北方大公が王太子の婚約者へ礼を尽くし、デビュタントの祝いとして一曲を願う。それは広間のどこから見ても不自然なものではなく、むしろ今夜の華やぎをもう一つ増やす出来事として受け止められていた。


エレオノーラは、胸元の真珠が呼吸に合わせて静かに動くのを感じながら、父と祖母のいるほうへほんのわずかに視線を流した。父は遠くから表情を崩さず、けれど止める気配はなかった。祖母は手袋を重ねた手を膝の上に置いて、ただこちらを見ている。その目は、姿勢を正せと命じるものではなく、あなたはもう十分に今日の役目を果たしている、と言っているように見えた。王妃の席からも穏やかな視線が届いている。誰も、彼女を責めていない。誰も、彼女に背を向けていない。そのことを一つずつ確かめると、エレオノーラはようやく、自分の手をヴィクトルの手へ預けた。


「喜んで、お受けいたします」


声は思ったより明るく出た。自分でも少し驚くほどだった。さきほどまで胸の奥に残っていた硬さは消えたわけではないが、広間の灯りや楽師たちの支度の音、周囲の令嬢たちが次の曲を待って裾を直す小さな動きが、その硬さの上に薄い春の布をかけていくようだった。ヴィクトルは彼女の手を取ったまま、礼法どおりの歩幅で中央へ進む。人々は大きく騒ぎはしなかったが、道は自然に開いた。そこには好奇心もあったが、悪意ばかりではない。今日のデビュタントである公爵令嬢が、王太子との最初の一曲を終えたあと、正式な招待客である北方大公から祝いの一曲を受ける。それは春の舞踏会にふさわしい、十分に晴れやかな光景だった。


「少し、皆が楽しそうに見ていますね」


中央へ入る少し前に、エレオノーラがそう言うと、ヴィクトルは広間の空気を確かめるように視線を動かし、すぐに彼女へ戻した。


「楽しそうで済んでいるなら、今夜としては良いほうでしょう。北方の者が王宮の春に紛れ込むと、たいていは雪まで持ち込んだように見られますから」


その言い方があまりに静かだったので、エレオノーラは一瞬、冗談なのか真面目なのか判断しかねた。けれどヴィクトルの目元にごく小さな笑みが乗っているのを見つけると、口元が自然にやわらいだ。


「それは、皆さまが北方を少し恐れすぎているのではありませんか」


「恐れられているだけなら、まだ扱いやすいのです。春の王宮では、北方大公家の者は寒さに強いから暑さにも強いと思われることがあります。あれは少し困ります。冬の外套を着ているわけではないのに、暖炉のそばへ案内されたことが一度ありました」


「まあ。それは、親切なおもてなしだったのでしょうか」


「ええ、親切でした。親切でしたから、断るまでに少し時間がかかりました」


エレオノーラは声を上げすぎないように気をつけながら笑った。広間の中心で笑いすぎるのはよくないと分かっている。それでも、唇を押さえる必要があるほどではなく、ただ目元が明るくなる程度の笑いだった。ヴィクトルの言葉は、彼自身を飾り立てるものではなく、王宮の空気を少しだけ軽くするものだった。北方大公という名が持つ重みを消すのではなく、その重みを担いだまま、ほんのわずかに肩の位置を変えて見せる。エレオノーラは、その余裕が意外で、同時に、幼いころよりも遠い人になったはずの彼が、全く手の届かない場所へ行ってしまったわけではないのだと感じた。


曲が始まった。弦の音が広間の高い天井へ上がり、燭台の灯りと春の花の匂いが、その音に沿ってゆっくり広がっていく。ヴィクトルの導きは、王宮で華やかに見せるための大きな動きではなかったが、控えめすぎて目立たないものでもなかった。彼は周囲で踊る子息や令嬢の流れをよく見ていて、隣の組が少し早く回れば、その分だけ進む道を変える。淡い薔薇色のドレスの令嬢が裾を踏みかけて慌てたときも、ヴィクトルはエレオノーラの手に余計な力をかけることなく、ほんの少しだけ進む向きをずらした。そのおかげで、令嬢は相手の子息に支えられながら体勢を立て直し、恥ずかしそうに微笑んで踊りへ戻っていく。


「お上手なのですね」


「そう言っていただけるなら、北方の冬にも少しは感謝できます。雪の上で転ばないように歩く訓練は、意外なところで役に立ちますから」


「舞踏と雪道を同じにしてよろしいのですか」


「同じではありません。ただ、どちらも自分の足だけ見ていると、周りの人にぶつかるところは似ています」


エレオノーラは、その返事にまた笑いそうになり、今度は少しだけ眉を下げた。


「北方大公閣下は、真面目なお話の途中に、急におかしなことをおっしゃるのですね」


「おかしなことを言ったつもりはないのですが、エレオノーラ嬢が笑ってくださるなら、今夜の役には立ったのかもしれません。先ほどから、皆さまがあなたを見て、完璧だと言いたそうなお顔をしていましたので」


その言葉に、エレオノーラは足を乱しはしなかったが、手袋の下の指がわずかに動いた。完璧。その言葉は褒め言葉として何度も向けられてきた。今日も、王太子の婚約者として美しかった、広間の中心で少しも乱れなかった、ヴァルクレスト公爵令嬢らしい立ち居振る舞いだった、と何度も言われた。その一つひとつに悪意はない。けれど、完璧と言われるたび、その言葉の中に自分の呼吸が入る隙間は少し狭くなる。完璧なら疲れないはずだと思われる。完璧なら迷わないはずだと思われる。完璧なら、噂も視線も王宮の期待も、当然のように受け止められるはずだと見なされる。


「完璧に見えていたなら、今日の支度をしてくださった方々に申し訳が立たずに済みます」


エレオノーラは、明るく言える形を選んだ。暗くならないように、けれど軽くしすぎないように、胸元の真珠へ一度だけ視線を落としてから顔を上げる。


「祖母は、母の真珠の位置に厳しいのです。少しでも傾けば、王宮の燭台より先に気づくと思います」


「それは心強いですね。北方にも、馬具の留め具が少しずれているだけで、砦の門より先に気づく者がいます。身支度に厳しい人は、どこにいても味方にしたほうがいい」


「祖母にそう申し上げたら、きっと満足いたします」


「では、またお目にかかる機会があれば、私からも申し上げましょう。真珠の位置は北方大公家から見ても見事だったと」


「本当におっしゃるおつもりですか」


「もちろんです。ただ、その後で私の礼服の飾緒まで確認されそうなら、少しだけ慎重に言葉を選びます」


エレオノーラは今度こそ、目に見えて笑った。近くで踊っていた若い子息が、その笑みに気づいて驚いたように瞬きをし、相手の令嬢に足元を注意されて慌てて姿勢を戻す。その様子がまた少しおかしくて、エレオノーラは笑いを深くしないよう、息をゆっくり整えた。けれど、その整え方は、先ほどまでのように自分を押し込めるものではなかった。こぼれそうになった明るさを、広間にふさわしい形へそっと直すだけでよかった。


「今のは、私のせいでしょうか」


「いいえ。あの子息が、踊っている相手をもう少し見るべきだっただけです」


ヴィクトルの返しがあまりに平然としていたので、エレオノーラはまた笑いかけた。彼はそれを見て、今度ははっきりと目元をやわらげた。笑わせようとしているのか、ただ本当にそう思っているのか、判別しにくいところがある。だが、その判別しにくさが今夜は不思議と心地よかった。王宮の言葉は、いつも意味を整えられすぎている。誰に聞かれてもよいように、どの家にも角が立たないように、どこから見ても正しくあるように、形を整えてから差し出される。ヴィクトルの言葉にももちろん礼法はあるが、その内側には、場を見て、相手を見て、その瞬間の呼吸で動く余地が残っていた。


曲は中ほどへ進み、広間の流れは少しずつ華やかさを増していた。白いドレスの令嬢たちは、最初より肩の力が抜け、相手の子息に小さく礼を返しながら回っている。淡い青の裾が花びらのように揺れ、薄緑のリボンが燭台の光を受けて流れる。エレオノーラはその中で、今夜が自分一人の試験ではないことをようやく思い出した。今年社交界へ出る者たちが、それぞれの緊張を抱えて、同じ春の広間に立っている。誰もが誰かの娘であり、誰かの息子であり、家の名を背負っている。失敗したくなくて、けれど少しは笑いたくて、音楽の中で自分の場所を探している。


「こうして見ると、皆さま、とても一生懸命でいらっしゃいますね」


「はい。王宮の舞踏会は、遠くから見れば絵のようですが、中に入ると足元で小さな戦いがいくつも起きています」


「戦いですか」


「ええ。裾を踏まない戦い、相手の名前を間違えない戦い、親の視線に気づいているふりをしない戦い、そして褒められたときにどのくらい嬉しそうにするかを決める戦いです」


「それは、北方でもありますの?」


「あります。北方では、それに加えて、暖炉から遠い席を誰が引き受けるかという戦いもあります」


エレオノーラは、もう隠しきれずに小さく笑った。ヴィクトルも、声を立てて笑うわけではなかったが、その表情にはたしかに明るさがあった。彼の笑みは広間の灯りのように広く散るものではない。それでも、近くにいる者には届く。エレオノーラは、その届き方を知っている気がした。幼いころ、北方の話を聞いたときも、彼は物語のように語るのではなく、そこにいる人々の手や息や困りごとが見えるように話した。今も同じだった。王宮の春を語りながら、彼はそこに立つ人たちを置き去りにしない。


「では、今日の私はどの戦いに勝てたのでしょう」


エレオノーラが尋ねると、ヴィクトルは少し考えるように視線を下げ、彼女の手元ではなく、二人の進む先を見ながら答えた。


「少なくとも、真珠をいちばん美しく見せるという勝負には勝っています。それから、王太子殿下との最初の一曲を、誰にも余計な心配をさせずに終えたことも、十分に勝ちと言っていいと思います。けれど、私が今いちばん良いと思っているのは、あなたが先ほど、笑ってもよい場面でちゃんと笑ったことです」


エレオノーラは、その言葉を聞いて、すぐに返事をしなかった。重い言葉ではない。今夜を沈ませる言葉でもない。けれど、軽く流してしまうには、少しだけ胸の奥に触れた。笑ってもよい場面で笑う。そんなことは、本来なら難しいことではないはずだった。けれど王宮では、いつ笑うか、どの程度笑うか、誰に向けて笑うかが、すぐに意味を持つ。だから彼女はいつも、喜びでさえ形を整えてから外へ出していた。ヴィクトルはそれを否定したのではなく、ただ、今の笑いを場にふさわしいものとして受け取ってくれた。


「それを勝ちと言っていただけるなら、今夜は少し気が楽になります」


「気が楽になるなら、言った甲斐があります。王妃陛下も、公爵閣下も、先代公爵夫人も、あなたが今夜の役目をきちんと果たしたことは十分ご覧になっているでしょう。だから、残りの時間に少しくらい春の舞踏会らしい顔をしても、誰もあなたを叱らないと思います」


「ヴィクトル様は、王宮でそのようにおっしゃって大丈夫なのですか」


名を口にしたあとで、エレオノーラはわずかに目を伏せかけた。北方大公閣下と呼ぶべき場だと分かっている。けれど、音楽の流れと会話の明るさの中で、幼いころから馴染んだ呼び方が自然に出てしまった。周囲に届くほど大きな声ではなかったが、彼には届いている。ヴィクトルはそれを正すことも、必要以上に受け取ることもしなかった。ただ、彼女が言い直す前に、穏やかに言葉をつないだ。


「大丈夫です。今の声は、この曲の中にだけ置いておきます。次に広間の端でご挨拶するときは、私も北方大公として礼を尽くしますから、あなたも公爵令嬢として安心してお叱りください」


「叱る前提なのですか」


「飾緒が曲がっていれば、叱られる覚悟はあります」


エレオノーラは笑いながら、ほんの少し首を傾けて彼の飾緒を見た。銀の飾緒は乱れていない。きちんと整えられ、深い青の礼服の上で控えめに光っている。


「残念ながら、叱るところは見つかりません」


「それは安心しました。北方へ戻ったあと、王宮の春で公爵令嬢に叱られたと報告せずに済みます」


「そのような報告をなさるおつもりだったのですか」


「北方では、王都で何を見てきたかを聞きたがる者が多いのです。砦の者たちは、王宮の舞踏会というだけで、床まで金でできているのではないかと思っています」


「それは困ります。床まで金では、きっと滑って踊れません」


「では、そう伝えておきます。王宮の床は金ではなく、きちんと踊れる床だったと」


曲が終わりに近づくと、楽師たちの音がやわらかくほどけていった。最後の旋律に合わせて、周囲の組もゆっくりと向きを整える。ヴィクトルは最後まで大きく見せようとはせず、けれど終わりの礼が美しく見える位置へ、自然にエレオノーラを導いた。音が止み、広間に拍手が広がる。今度の拍手は、最初の一曲のときほど大きく儀礼的ではなかったが、その分、ところどころに柔らかな笑みが混じっていた。先ほど裾を踏みかけた令嬢も、相手の子息と顔を見合わせて笑っている。


エレオノーラはヴィクトルへ礼をとった。ドレスの裾が床の上で静かに広がり、胸元の真珠が灯りを受ける。


「楽しい一曲でした」


その言葉は、整えた礼だけではなかった。口にしてから、エレオノーラはそれが本当に今の自分から出た言葉だと分かった。ヴィクトルも深くなりすぎない礼を返し、顔を上げる。


「それなら、申し込んだ甲斐がありました。今夜のあなたには、見事だったと言う方がたくさんいるでしょうから、私は少し違う言葉を持って帰れます。楽しい一曲だったと、あなたが言ってくださったことを覚えておきます」


「それも、北方への報告に入るのですか」


「入れると、砦の者たちが王宮の舞踏会を少し誤解しそうですので、そこは私の中に留めます」


エレオノーラはまた笑った。今度は、笑ってもよいのだと分かっている笑いだった。ヴィクトルの言葉が、自分だけの秘密を作るためではなく、広間の中で明るさを守るために選ばれていることも分かった。だから、後ろめたさはなかった。ここにあるのは、春の舞踏会の一曲と、家同士の礼と、幼いころから途切れず届いていた心遣いへの静かな応答だけだった。


そのとき、広間の端から王妃付きの侍女が歩いてくるのが見えた。先ほど声をかけてきた侍女だった。彼女は舞踏を終えた二人の間合いを乱さないところで立ち止まり、深く礼をとる。


「エレオノーラ様。王妃陛下が、ただいまお時間をいただきたいとのことでございます」


エレオノーラは、ヴィクトルへもう一度視線を向けた。舞踏の余韻はまだ足元に残っている。けれど、王妃の言葉を受けに行くことは、逃げ道を失うことではなく、次の場所へきちんと歩いていくことなのだと思えた。ヴィクトルはそれを引き止めず、ただ公の場にふさわしい礼を返した。


「どうぞ、王妃陛下のお言葉を大切になさってください。今夜の春が、あなたにとってよい始まりであるよう、北方よりお祈り申し上げます」


「ありがとうございます、北方大公閣下」


今度は正しい呼び方で答えた。けれど、その声は硬くならなかった。エレオノーラは侍女のほうへ向き直り、ドレスの裾を整えて歩き出す。広間では次の曲の支度が始まり、若い子息と令嬢たちの明るい声がまた花の香りの中へ広がっていく。エレオノーラはその音を背に受けながら、王妃付きの侍女に導かれて、広間の光の端から控えの間へ向かった。

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