表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約破棄された悪役令嬢は、白銀の大公に最愛を捧げられる  作者: ごゅみ
第一部 婚約破棄

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

47/64

第十五話 デビュタント④

春の王宮に集まる貴族たちの装いは、明るい色を多く含んでいる。金糸、淡い青、薔薇色、真珠の白、若草を思わせる薄緑。けれど入口に立った一団は、その華やぎの中へ北の空気を連れてきたようだった。黒に近い深い青の礼服、控えめに光る銀の飾緒、雪と星の紋章を刻んだ留め具。従者たちの歩みに乱れはなく、王宮侍従が道を示すより先に、近くにいた貴族たちのほうがわずかに身を引いた。ヴィクトルはその退いた場所を急いで埋めようとはせず、広間の光に歩幅を合わせるように進んでくる。前大公から受け継いだものを見せつけるような飾りはなかったが、肩に落ちる礼服の重みも、視線を急がせない静けさも、今その名を背負ってここに立つ者のものだった。


エレオノーラは、杯を侍女へ渡す手を乱さなかった。指先を急がせれば、近くにいる者には分かる。だから、杯の縁から手を離し、侍女が下がるのを待ち、それから自然な速度で視線を戻した。ヴィクトルは王宮侍従の案内を受け、広間の中央を横切るのではなく、家ごとに定められた位置へ向かって歩いている。白銀の髪は燭台の光を受けても金にはならず、冷たいほど澄んだ色を保っていた。けれど、その冷たさは人を遠ざけるためだけのものではなく、冬の道で踏み固められた雪のように、そこを歩く者の重みを受け止める硬さにも見えた。


ヴィクトルが王妃イザベラへ礼をとった。王妃は穏やかに頷き、何か短く声をかけた。ヴィクトルはそれを受け、必要以上に表情を動かさず答える。その姿を見ていた貴族たちの間に、低いさざめきが走った。北方大公が若くして正式に家督を継いだことは、王都でも十分に知られている。北の砦と交易路、冬の備蓄、神殿の癒やし手だけでは支えきれない土地の現実、王宮の華やかな広間では言葉にされにくいものを背に持つ家。その名を背負って立つ若い大公へ、人々の視線は自然に集まっていた。


アレクシスもヴィクトルに気づいたらしい。少し離れた場所で、若い侯爵家の子息と話していた彼が、会話の流れを切らないまま視線だけを入口へ向けた。王太子としての微笑みは崩れない。だが、エレオノーラには、その笑みの奥で何かを測るようなわずかな間が生まれたのが見えた。アレクシスはヴィクトルを嫌っているわけではない。幼い頃から王宮の行事で顔を合わせ、言葉を交わし、北方の功績を称える場にも並んできた。けれど、アレクシスが人に向ける明るさは、相手が自分の輝きの範囲に入ってくるときには自然に広がるが、その相手が自分とは別の場所に立ち、別の重さで人々の視線を引くとき、ほんの少しだけ所在を失うことがあった。


エレオノーラは、そのことを責める気にはなれなかった。アレクシスは王太子として育てられ、広間の中心に立つことを期待されてきた。中心にいる者は、中心であることを疑わずにいられるよう、周囲から扱われる。彼が悪意なく人を励ますとき、その言葉が相手の内側へ届かず、表面だけを撫でることがあるのは、彼自身が冷たいからではなく、届かない場所を見た経験がまだ足りないからなのだと、エレオノーラは何度も自分に言い聞かせてきた。言い聞かせるたびに、胸のどこかが少し疲れる。それでも、彼の明るさが王国の象徴として必要とされていることも、彼がその明るさを投げ出さずに立っていることも、嘘ではなかった。


楽師たちは次の曲へ移る準備をしていた。最初の一曲が王太子とその婚約者によって終わったことで、広間の空気は少しほどけ、若い子息たちが令嬢へ声をかけ始めている。白いドレスの列にいた令嬢の何人かは、緊張した顔で父や兄のほうを見たあと、差し出された手に礼を返して中央へ進んでいった。裾が揺れ、手袋が重なり、王宮の広間が、決められた順序で動き出す。


エレオノーラのもとにも、挨拶は続いた。伯爵家の夫人が、デビューの祝いを述べる。辺境伯家の子息が、王太子殿下との舞踏は見事だったと笑顔で言う。年若い令嬢が、母から聞いていたよりずっとお美しいです、と少し上ずった声で告げる。エレオノーラは一人ひとりに礼を返し、言葉を選んだ。祝福には感謝を、過剰な賛辞には少し控えめな微笑みを、家同士の挨拶には父と祖母の名を添えて返す。何度も練習した形であり、今日のために身につけてきたものだった。だが、その形を繰り返しているうちに、胸元の真珠がまた少し重くなる。母ならどう立っただろうと思いかけ、すぐに、それは今答えを出す問いではないと息の奥で止めた。


広間の向こうで、ヴィクトルが幾人かの貴族と挨拶を交わしているのが見えた。彼は相手の言葉をよく聞き、短く答える。必要以上に場を温めようとはしないが、切り捨てるような冷たさもない。彼がそうして一人ひとりと向き合うたびに、相手のほうが少し背筋を整える。北方大公という称号がそうさせるのか、彼自身の目がそうさせるのか、エレオノーラにはすぐには分からなかった。ただ、彼の視線が広間を漫然と流れることはないと知っていた。何かを見るとき、彼はそれを見たままにしない。見たものがどこへつながるのか、誰がそこで息を詰めているのか、必要ならどこで一歩出るべきなのかを、幼い頃から考える人だった。


その思いが胸の中で言葉になる前に、扇の陰からまたミリアの名が聞こえた。今度は先ほどより少し近かった。エレオノーラは振り向かなかったが、声の主たちがこちらを強く意識していないことは分かった。彼女たちはエレオノーラに聞かせるために言っているのではない。むしろ、聞かせるつもりがないからこそ、言葉の端が素直に出ている。


「神殿推薦ということは、王妃様のお耳にも入っているのでしょうか」


「癒やしの力なら、春の慈善訪問にお連れになることもあるかもしれませんわ」


「殿下はお優しいから、きっと放っておけないのではなくて?」


その最後に、別の令嬢が小さく笑った。悪意と言い切るには軽く、善意と言うには無責任な笑いだった。ミリアがこの広間にいるわけではない。それなのに、彼女の名前は先に広間へ入ってきている。本人の足よりも先に、噂だけが扇の陰を通り、王太子の優しさや神殿の推薦や癒やしの力と結びつけられていく。そのことが、エレオノーラには少しだけ痛かった。自分が婚約者として揺らぐからではない。まだこの場の作法も、噂の速度も知らない少女が、誰かの好奇心の中で形を与えられていくことが、危うく見えた。


アレクシスがミリアに優しくすること自体は、間違いではない。聖女候補として学院に迎えられた少女に、王太子が気遣いを示すのは自然なことだ。けれど、王太子の自然な気遣いは、周囲の目に触れた瞬間、ただの気遣いではなくなる。誰が隣にいるのか、誰が微笑まれたのか、誰が席を与えられたのか。そこに本人たちの意図より先に意味が付けられる。エレオノーラはそれを知っている。知っているからこそ、王宮の言葉を整える役目がいつも自分の前へ置かれる。王太子殿下はお優しいのです、神殿推薦の方を王家も大切に思っているのです、婚約者としても歓迎しております。そう言えば、場は一度収まるかもしれない。けれど、その言葉の中にミリア本人の足場はあるのだろうか。


杯をもう持っていないのに、手の中にはまだ水の冷たさが残っていた。エレオノーラは、その冷たさを追いかけるように指を少し開いた。今ここで何かを言う必要はない。言わないことが逃げではなく、時を待つことになる場合もある。だが、何も見なかったことにはできない。神殿、王宮、学院、聖女候補、王太子の微笑み。その線が勝手に結ばれる前に、どこかで、誰かが結び方を確かめなければならない。


「エレオノーラ様」


声をかけられて、エレオノーラは顔を上げた。近づいてきたのは、王妃付きの侍女の一人だった。王妃の席から直接来たのだろう。彼女は深く礼をとり、周囲に聞こえすぎない声で告げた。


「王妃陛下が、後ほどお時間をいただきたいとのことでございます。今すぐではございません。舞踏の合間に、控えの間へお声がけを、と」


「承知いたしました。お心遣いに感謝いたしますと、王妃陛下へお伝えください」


侍女はもう一度礼をとって下がった。エレオノーラは、その背を見送りながら、王妃が何を話したいのかを考えた。デビューの祝いだけなら、広間で言葉をかければ足りる。控えの間ということは、少し人目を避けたい話がある。学院の件かもしれない。神殿推薦の聖女候補のことかもしれない。あるいは、アレクシスの婚約者として、今後の公務の段取りを確かめるためかもしれない。どれであっても、今夜の彼女は逃げられない。逃げたいわけではない。ただ、王妃の言葉を受ける前に、ほんの少しだけ自分の呼吸の置き場が欲しかった。


そのとき、視界の端でアレクシスがこちらへ戻ろうとするのが見えた。彼は二曲目を別の令嬢と踊り終えたばかりで、周囲の拍手に笑顔で応じている。令嬢の父が満足そうに礼をし、アレクシスも丁寧に返す。何もおかしいことはない。王太子として、デビューした令嬢たちへ均等に機会を与えるのは当然だった。けれど、彼が次にエレオノーラへ向かうつもりなのだと分かった瞬間、周囲の視線がまた細く集まり始めるのを感じた。王太子が婚約者へ戻る。美しい。安定している。そう思わせる流れは、広間にとって好ましいものなのだろう。


エレオノーラはそれを拒む理由を持たなかった。だが、足がほんのわずかに床へ沈むような感覚があった。もう一度アレクシスと踊れば、今夜の形はいっそう整う。誰も不安に思わない。誰も余計なことを言わない。王宮は、王太子と婚約者の並びを見て安心する。その安心のために自分が立つことも、婚約者としての務めの一部だった。分かっている。分かっているからこそ、息の逃げ道が小さくなった。


アレクシスがこちらへ一歩進もうとした、その前に、広間の空気が別の方向から静かに動いた。


ヴィクトルだった。


彼は急いでいなかった。人の流れを乱さず、途中で挨拶を受ければ短く礼を返し、それでも歩みの向きは変えなかった。エレオノーラのほうへ来ている。そう分かった瞬間、近くの令嬢たちの扇が少し止まり、さきほどまでミリアの名を運んでいた声も、形を変えて沈んだ。若き北方大公が、王太子の婚約者であり今日のデビュタントである公爵令嬢のもとへ向かっている。その事実は、広間の中で十分に人目を引いた。


アレクシスも足を止めた。彼の表情は崩れない。けれど、笑みの明るさが一瞬だけ薄くなり、すぐに王太子としての余裕へ戻った。エレオノーラは、その変化を見て胸の奥が少し痛んだ。誰かを傷つけたいわけではない。まして、この広間で王太子の顔を曇らせたいわけでもない。だが、ヴィクトルの歩みは、誰かから何かを奪うためのものではなかった。彼はそういう人ではない。少なくとも、エレオノーラが知っているヴィクトルは、人の立つ場所を奪うためではなく、人が自分の足元を見失いかけたときに、その足元の名を確かめるために一歩出る人だった。


ヴィクトルはエレオノーラの前で止まり、まず彼女の父がいる方角へわずかに視線を向けた。遠くにいたオルドリックが、それを受けて小さく頷く。祖母アデライードも扇の陰からこちらを見ていたが、止める気配はなかった。王妃イザベラの視線も、静かにこの一角へ届いている。誰も、今この瞬間を偶然とは思っていない。それでも、ヴィクトルの礼はあくまで正しく、余計な意味を周囲に与えない節度を保っていた。


「エレオノーラ嬢」


低い声が、広間の音の中でまっすぐ届いた。学院の講堂で聞いた声と同じだった。人を驚かせるために大きくしない。けれど、届くべきところへは届く声だった。


「北方大公閣下」


エレオノーラは礼を返した。そう呼ぶのが、今この広間では正しい。幼い日の名残だけで呼ぶには、彼はもう家を継いだ大公であり、自分もまた王太子の婚約者としてこの場にいる。だが、礼の角度を整えながらも、エレオノーラは、胸の奥でその名が少し違う温度を持っていることを否定できなかった。ヴィクトル様、と呼んだ七歳の自分の声は、今ここで口に出さなくても、消えずにいる。


ヴィクトルの視線が、ほんの一瞬だけ彼女の胸元の真珠へ下りた。母の形見だと知っている目だった。そこに長く留まれば周囲に余計な意味を与えると分かっているから、彼はすぐに顔へ戻した。その短さが、かえってエレオノーラの呼吸を少し楽にした。見られたのではなく、覚えられていたのだと分かったからだった。


「本日のご披露目、北方大公家よりお祝い申し上げます」


「ありがとうございます。アシュベル家より毎年頂戴しておりますお心遣いにも、あらためて御礼申し上げます」


その言葉を口にした瞬間、エレオノーラは少しだけ迷った。ここで母の命日に届く贈り物へ触れることは、広間の挨拶として重すぎるかもしれない。だが、言わずに飲み込めば、今夜の自分はまた、整えやすい言葉だけを選んだことになる。ヴィクトルはそのわずかな迷いを責めなかった。ただ、受け止めるように頷いた。


「届いているなら、よかった」


短い返事だった。けれど、その言葉には、贈った側の義務を果たしたという満足ではなく、必要な場所へ必要なものが途切れず届いていたことを確かめる静かさがあった。エレオノーラは、ありがとうございます、ともう一度言いそうになり、さきほど幼い日に何度も礼を重ねようとして止められた記憶ではなく、今の彼の表情を見て、言葉を別の形に変えた。


「母も、きっと喜んでいると思います」


ヴィクトルの目元が、ほんの少しだけやわらいだ。笑みと言うには小さい。けれど、エレオノーラにはそれで十分だった。広間の燭台の光が彼の氷青の瞳に映り、冷たい色の奥で静かに揺れる。その揺れを見たとき、さきほどまで胸を押していた王宮の視線や、扇の陰の名や、これから王妃に呼ばれる重さが、すべて消えたわけではないのに、少しだけ順番を取り戻した気がした。


ヴィクトルは、広間の中央へ一度だけ視線を向けた。次の曲が始まる前の短い間だった。楽師の指が弦の上で待ち、令嬢たちが相手の申し込みを受けている。アレクシスはまだ離れた場所でこちらを見ていた。王太子の顔で、広間の均衡を測っている。ヴィクトルも当然、それに気づいているはずだった。気づいていながら、彼は逃げるように早口になることも、挑むように声を強くすることもしなかった。


「エレオノーラ嬢」


もう一度、名を呼ばれた。今度は先ほどより少し低く、彼女自身にだけ届くような音だった。


「今夜、あなたが王太子殿下の婚約者としてここに立っていることは、誰もが見ている。ヴァルクレスト公爵家の令嬢として披露目を終えたことも、王宮が認めた形も、十分に示された」


エレオノーラは、すぐには返事をしなかった。その言葉がどこへ向かうのかを、急いで決めつけたくなかった。ヴィクトルは、彼女の沈黙を待った。沈黙を空白として扱わず、言葉が届くための場所として残す人だった。


「だから次の一曲くらいは、あなた自身が息を整えるためのものでもいいはずだ」


胸の奥で、細く張っていた糸が音もなく揺れた。美しい婚約者としてではなく、王宮の安心のためでもなく、噂を整えるためでもなく、息を整えるための一曲。そんな言い方をされるとは思っていなかった。エレオノーラは、扇を持つ手に力が入るのを感じ、すぐにそれをほどいた。ほどこうと思えたこと自体が、少しだけ不思議だった。


ヴィクトルは右手を差し出した。礼法として正しく、広間の誰が見ても非礼ではない距離を保った手だった。けれど、その手の差し出し方には、断る余地を消す圧はなかった。受けるかどうかを彼女の側に残したまま、周囲に対しては北方大公として十分な形を示している。


「よろしければ、一曲、お相手願えますか」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ