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婚約破棄された悪役令嬢は、白銀の大公に最愛を捧げられる  作者: ごゅみ
第一部 婚約破棄

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第十五話 デビュタント③

王宮の広間には、すでに光が満ちていた。高い天井から降りる燭台の灯りと、壁際に並ぶ鏡に映る春の花が、空間を何倍にも広く見せている。楽師たちは調弦を終え、貴族たちは家ごとに定められた位置へ静かに集まっていた。


今年社交界へ出る令嬢たちは、白を中心とした淡いドレスで控えの列に並び、その周囲には、すでに社交界へ出ている令嬢や夫人たちの淡い青、金、銀、薄い薔薇色が揺れていた。広間全体は春の庭のように華やかだったが、白いドレスの列だけは、その中でまだ少し声をひそめているように見えた。


エレオノーラは父に導かれて広間へ入った。少し離れた位置には、すでに祖母の姿もある。濃い色のドレスに銀灰の髪を高く結い、扇を手にしたアデライードは、広間の光の中でも少しも輪郭を失っていなかった。王妃イザベラの席が見える。王妃は淡い菫色のドレスをまとい、白い肌に真珠と薄紫の宝石を合わせていた。エレオノーラを認めると、ほんのわずかに目元をやわらげる。それは王妃としての微笑みだったが、幼いころから王宮でエレオノーラを見てきた人の温度も、ほんの少しだけ含んでいた。


その視線を受けて、エレオノーラは深く礼をとった。父がそばにいる。祖母が離れた場所から見ている。その一礼を王妃が受けたことで、周囲の視線が静かに収まった。今日の彼女は、一人でここに立っているのではない。家の後見、王宮の承認、母の真珠。見えないものが、背中にいくつも重なっていた。


アレクシスは、王太子の席のそばにいた。白と青と金を合わせた礼服は、彼の明るい髪によく映える。人々の視線が集まっても、彼の歩みは少しも乱れなかった。近くの貴族へ言葉を返していた彼は、相手へ軽く頷いて会話を終えると、エレオノーラのほうへ歩いてきた。


「エレオノーラ」


広間のざわめきの中で、その声はいつもの明るさを失わずに届いた。エレオノーラは礼をとり、顔を上げた。


「殿下」


アレクシスはそこで一瞬だけ言葉を止めた。視線が、髪飾りから胸元の真珠へ、そしてドレスの裾へ降りて、もう一度彼女の顔へ戻る。すぐに、いつものように笑った。


「今日は、とても綺麗だ。皆が君を見ている」


「ありがとうございます」


エレオノーラは微笑んで答えた。声が高くなりすぎないように整えると、胸元の真珠が呼吸に合わせてかすかに動いた。


「緊張している?」


「少しだけ」


「君なら大丈夫だよ。いつも通りにしていればいい」


いつも通り。エレオノーラはその言葉を胸の内側で受け止めた。彼にとって、いつもの自分はどう見えているのだろう。礼を間違えず、言葉を整え、場を読んで、隣に立つ令嬢。今夜もきっと、その形を求められている。嫌ではない。けれど、胸元の真珠が少し重く感じられた。


楽師が最初の曲へ移る合図を出した。広間の空気が静かに整い、視線が中央へ集まる。アレクシスが手を差し出した。


「最初の一曲を、僕と」


差し出された手を前に、断る余地など最初から広間のどこにもなかった。エレオノーラは手を重ねる。手袋越しに、アレクシスの手は温かかった。彼は迷いなく中央へ導く。王太子とその婚約者。広間の人々が、その並びを見ている。父と祖母、王妃、王宮の侍従、各家の令嬢と子息たち。すべての視線の中で、曲が始まった。


アレクシスの足運びに乱れはなかった。動きは華やかで、広間の中心にいることを自然に受け入れている。彼が一歩踏み出せば、周囲はそれを美しいものとして見る。エレオノーラも、それに応じるだけの訓練を積んできた。足は迷わない。手の位置も、視線の角度も、曲の流れも、体が覚えている。


「ほら、大丈夫だ」


アレクシスが笑った。


「君は本当に、何をしても綺麗にこなすね」


「殿下のご誘導が確かですので」


「そうかな。君が合わせてくれているからだと思うけれど」


彼はそう言って、楽しそうに回った。言葉としては優しい。けれど、その優しさは広間の光と一緒にきらめき、エレオノーラの手の内側までは届かない。曲が進む。足は正しく動く。人々の視線は、王太子とその婚約者の未来を勝手に思い描く。美しい二人、似合いの婚約者、王国の明るい象徴。羨望とも祝福ともつかないものが、まだ言葉になる前から、広間の空気の中で薄く形を持っていた。


エレオノーラは笑みを崩さず、曲の終わりまで踊った。最後の礼をとると、拍手が広がる。アレクシスは満足そうだった。彼の手が離れる。エレオノーラは息を整えた。苦しいほどではない。練習どおりだった。正しく、美しく、過不足なく終えられた。それなのに、指先にはわずかに力が残っている。


広間の端へ下がると、王宮の侍女が控えめに近づき、飲み物を差し出した。エレオノーラは小さく礼をして受け取る。水面に燭台の光が揺れている。ひと口飲むと、喉の奥にあった熱が少しだけ下がった。


そのとき、少し離れたところで、若い令嬢たちの笑い声が重なった。大きな声ではない。けれど、扇を寄せ合う仕草の中から、ひとつの名だけが細く抜けて届いた。


ミリア・フェルトン。


学院の講堂で見た淡い水色のドレスと、深すぎる礼が思い出された。神殿推薦の聖女候補。慣れない場で指先を布に沈めていた少女。王太子席に近い場所へ案内され、アレクシスが微笑みかけたとき、頬を染めていた少女。


「神殿からいらした方でしょう。とてもお可愛らしい方だったとか」


「癒やしの力をお持ちなら、王宮でもお目にかかる機会があるかもしれませんわね」


「殿下も、学院でお声をかけられたそうですわ」


最後の言葉に、近くにいた令嬢の扇がかすかに揺れた。まだ噂というほど形のあるものではない。羨望なのか、好奇心なのか、面白がる前の柔らかい声だった。


エレオノーラは、杯の縁に添えていた指を少しだけ緩めた。胸の奥に残った影を、そのまま追えば、学院の講堂で見た席、アレクシスの声の温度、神殿推薦という言葉の危うさまで、すぐに一つの線へ結びたくなる。けれど、今はその線をここで結ぶ時ではなかった。まだミリア・フェルトンは、学院に迎えられたばかりの聖女候補でしかない。アレクシスが声をかけたことも、王太子として不自然なことではない。扇の陰で交わされる噂に、自分が今この場で意味を与えれば、それこそ、まだ形を持たないものへ先に名前をつけてしまうことになる。


エレオノーラは、杯の水面に映る燭台の光を一度見た。揺れているのは水であって、広間そのものではない。今夜の彼女は、王太子の婚約者として、ヴァルクレスト公爵令嬢として、デビュタントの広間に立っている。父と祖母に送り出され、王妃に認められ、母の真珠を胸に置いてここまで来た。ならば今は、扇の陰の名ではなく、自分がこの広間でどう立つかを見失わないほうがいい。


それでも、神殿という言葉だけは耳の奥に残った。母の真珠の白さとは違う、薄い影のように。


王宮の侍女が杯を受け取ろうと近づいた。エレオノーラは手元を整え、渡す前に一度だけ息を整えた。その短い間に、広間の入口近くで空気がわずかに変わった。大きなざわめきではない。けれど、人々の視線が、今度は扇の陰ではなく、はっきりと同じ方向へ流れていく。


エレオノーラも、その視線の先へ顔を向けた。

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