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婚約破棄された悪役令嬢は、白銀の大公に最愛を捧げられる  作者: ごゅみ
第一部 婚約破棄

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第十五話 デビュタント②

「オルドリック様が待っておられます。行きましょう」


ナディアに促され、エレオノーラは手袋をはめた指先を一度だけ握り直してから、廊下の先へ視線を向けた。磨かれた床には燭台の光が長く伸び、歩くたびにドレスの裾がその明かりをさらって、淡い波のように揺れた。胸の奥には緊張があったが、それはもう、呼吸を奪うほど鋭いものではなかった。父が待っていると聞くだけで自分の立ち方も声の出し方も分からなくなっていたころの癖は、まだ体のどこかに残っている。それでも今のエレオノーラは、その癖に引かれるまま俯くのではなく、首筋に触れる髪飾りの重みと、隣を歩くナディアの静かな気配を感じながら、玄関広間へ続く廊下を進んだ。


父は玄関広間の手前に立っていた。濃紺の礼服は舞踏会のために仕立てられたものなのに、浮ついた華やかさをまったく許さず、むしろ彼の持つ冷ややかな品位を際立たせていた。黒に近い髪は額から後ろへ整えられ、燭火を受けるたびに青みを帯びた艶を返し、彫りの深い眉とまっすぐな鼻梁、薄く引き結ばれた唇が、ヴァルクレスト公爵家の当主として人前に立つための隙のない麗しさを形づくっている。けれどその美しさは、人を招き寄せるための柔らかさではなかった。銀糸の刺繍が襟元でかすかに光り、胸元の勲章が硬い輝きを放つたび、青灰の瞳に宿る静けさまでが礼服の一部になったように見えて、エレオノーラは父という人が、ただそこに立っているだけで広間の空気を変えてしまうのだと、あらためて思った。


オルドリックはエレオノーラを見ると、すぐには言葉を出さなかった。幼いころからそういう人だった。大事なことほど、言う前に少し黙る。その沈黙は昔の彼女にとって、叱責より先に降りてくる冷たい影のようなものだったが、今はその中にあるわずかな揺れを見落とさずにいられた。父の視線は、まず髪飾りに触れ、次に肩の高さと手袋の指先を確かめ、最後に彼女の顔へ戻ってきた。責めるための視線なら、もっと早く、もっと鋭く心臓の奥を突いてきたはずだった。けれど今の父は、厳しさを消せないまま、それでも言葉を選ぼうとしているように見えた。


エレオノーラは、逃げるように笑わなかった。先に謝ることもしなかった。父の前に立つと、体が勝手に小さくなろうとする癖はまだ残っていて、手袋の中の指先が少し冷えていることにも気づいていたが、それでも彼女は、胸元の飾りがかすかに揺れる感覚を頼りに、息を浅くしすぎないよう整えた。父の青灰の瞳に映る自分は、幼いころのように怯えきった子どもではない。かといって、何も怖くないふりをできるほど強くもない。そのどちらでもない場所に立っている自分を、彼女は今、無理に否定しなかった。


「よく似合っている」


ようやく落ちた父の声は低く、広間の石壁に触れてから戻ってくるような響きを持っていた。褒め言葉としては短く、世辞としては硬すぎる。けれどオルドリックが軽い言葉で人を飾る人ではないことを、エレオノーラは知っていた。だからこそ、胸の奥に生まれた温度をすぐには言葉にできず、手袋の中で握っていた指を少しだけ緩めた。父は美しい人だった。冷たく整い、遠く、誰から見ても公爵として申し分のない姿をしていて、その美しさの中に近づきがたさを抱えている人だった。けれど今、その人が選んでくれた一言を、エレオノーラは疑って捨てるのではなく、自分の中に落ちるまで待とうと思った。


「ありがとうございます、お父様」


返した声は、思っていたよりも小さくならなかった。オルドリックはそれを聞いて、ほんのわずかに頷いた。それから、エレオノーラの胸元へ視線を落とす。真珠が、淡い青を含んだ白い布の上で静かに光を受けていた。


「セシリアのものか」


「はい」


「そうか」


それだけだった。けれど、エレオノーラは、その短い声の中で父が母を思い出したことを感じた。母を失ってから年月は過ぎた。それでも、父の声の底には、セシリアの名を呼ぶときだけ戻る深いところがある。かつてはその深さを見てしまうのが怖かった。今は、そこに触れても、自分の足がすぐに崩れるわけではないと分かっている。父もまた、失くしたものを抱えたまま、今日の娘を王宮へ送り出そうとしている。


父は一歩近づき、差し出す前に自分の手袋を確かめた。大きな手だった。その手を、エレオノーラは取る。幼いころ、葬儀の日に父に抱き寄せられた感触を、普段はもう思い出さない。けれど、今日のように手を取ると、胸の奥でその重みが一瞬だけ戻る。父は娘を見下ろし、低く告げた。


「行くぞ」


「はい、お父様」


返事をすると、オルドリックはすぐに歩き出したわけではなく、ほんのわずかに彼女の手を支える角度を変えた。その仕草は、誰かに見せるための優しさではなかった。むしろ、人前で余分な情を見せることを嫌うこの人らしく、ほとんど何もしていないように見えるほど小さな動きだった。けれど、エレオノーラには分かった。緊張で指先が冷えていることも、ドレスの裾を気にして歩き出しが遅れていることも、父は見ていたのだ。昔なら、その沈黙を叱責の前触れのように受け取っていた。今も胸の奥が少しだけ固くなる癖は消えていなかったが、父の手が自分を急かすためではなく、転ばせないためにそこにあるのだと分かると、エレオノーラは息を整え、父の歩幅に合わせて玄関広間へ進んだ。


ナディアはすぐ後ろに控え、最後まで布の裾を見ていた。もう乱れているところなどないのに、それでも指先が離れきらないのは、仕事が残っているからではないのだろう。ナディアはエレオノーラが小さかったころから、袖を直し、髪を梳き、眠れない夜には灯りを落とす速さを少しだけ遅くしてくれた人だった。今日もいつものように身支度を整えた顔をしているけれど、その手がほんの少し布を惜しむように撫でたのを、エレオノーラは感じていた。父の手を取っているために振り返ることはできなかったが、背中にあるその気配が、いつもの朝と同じように彼女の装いを守ってくれている。王宮へ向かう娘として父の隣に立ちながら、それでも最後の最後まで、自分はナディアの手で整えられているのだと思うと、胸元の真珠の冷たさが少しだけ深く感じられた。


ローレンは玄関の扉の前に立っていた。家令としての顔は崩れていない。背筋も、手の位置も、礼の角度も、いつもと同じように正しい。彼はまずオルドリックへ深く礼をし、それからエレオノーラへ視線を移した。その順番はこの家の作法として当然のものだったが、頭を下げる前のわずかな間に、彼の目がほんの少しだけ細められた。公爵の隣に立つ令嬢として整えられた姿だけを見ているのではない。母を亡くしたあと、廊下で足を止め、弟の泣き声に向かうべきか、自分の部屋へ戻るべきかも分からなくなっていた幼い娘の姿まで、彼は今日の白いドレスの奥に見ているのだと、エレオノーラには分かった。


その目を見たとき、エレオノーラは、母の葬送の日に彼が神殿書記のそばに立っていた姿を思い出した。羽根ペンが羊皮紙を擦る音のそばで、ローレンは公爵家の家令として静かに言葉を選び、エレオノーラの名前が母の棺のそばに記されるのを見届けていた。あの日も彼は声を荒げなかった。泣きもしなかった。ただ、家の者として、エレオノーラがそこに立っていられるように、見えないところで場を支えていた。今も同じなのだと、扉の前に立つ彼の手を見て、エレオノーラは思った。今日、彼が開けようとしているのは、ただ玄関の扉ではない。母の喪のあと、屋敷の内側で何度も立ち止まり、そのたびに誰かに少しずつ支えられてきたエレオノーラが、父の手に導かれて王宮の光の中へ出ていくための扉だった。ローレンはそれを知っていて、知らないふりをして、いつも通りの声を用意している。


ローレンが扉に手をかけた。磨かれた金具が、彼の白い手袋の下でかすかに沈み、広間の空気が外の光を待つように静まった。エレオノーラは父の腕に置いた手を動かしかけたが、オルドリックの指は離れなかった。強く引くのではなく、押しとどめるのでもなく、ただそこにある手だった。彼は前を向いたままで、青灰の瞳は扉のほうへ向けられている。エレオノーラが息を吸うと、背後でナディアの衣擦れが小さく鳴り、ドレスの裾が石床に触れる音がそれに続いた。ローレンが扉を押し開くまでの短い間、誰も言葉を足さず、誰も彼女の顔を覗き込まなかった。


扉が開くと、外の光が広がり、馬車の車輪と馬具の金具が朝の中で小さく光った。風が入ってきて、広間に置かれた花の香りを揺らす。その光の先、石段の脇まで、使用人たちが静かに並んでいた。玄関広間の内側に控えていた者たちも、扉の外で待っていた者たちも、エレオノーラが父に手を預けて姿を見せると、誰からともなく息を整える気配を広げた。デビュタントの日だからといって、屋敷の者が声を上げることはない。祝いの言葉を重ねることも、拍手をすることも、この家の作法にはなかった。けれど、その沈黙は冷たいものではなく、朝早くから磨かれた床の光や、いつもより丁寧に整えられた扉の金具や、玄関に飾られた花の向きのひとつひとつに、この日を無事に迎えてほしいと願った人々の手が残っている沈黙だった。


エレオノーラは、父の腕に預けた手とは反対の指先を少しだけ握った。白いドレスの裾はナディアが何度も確かめてくれたから乱れていない。髪も、宝石も、靴の先も、今日のためにふさわしく整えられている。けれど、玄関に並ぶ人々の顔を見た瞬間、鏡の前で見た整った姿だけで、今日の自分ができているわけではないのだと分かった。磨かれた廊下を何度も歩き、何度も足を止め、言葉にできないまま茶を受け取り、火の入った部屋に戻り、眠れない夜を越えてきた時間が、この白い布の下に静かに重なっている。その時間を、この屋敷の者たちは声に出さずに知っていた。


幼いころ、階段の途中で裾を踏みかけたときに慌てて手を伸ばしてくれた者がいた。食事を残した朝に、何も聞かず温かい茶だけを少し濃く淹れてくれた者がいた。礼拝堂から戻った日、誰も不用意に慰めを口にしなかった代わりに、いつもより早く部屋の火を入れ、窓辺の椅子に柔らかな膝掛けを置いてくれた者がいた。泣き声を聞けばすぐ弟の部屋へ行かなければならないと思い込んでいた時期に、扉の前で足を止めたエレオノーラへ、急がなくてよろしいのですと、声ではなく少し下げた目線だけで待ってくれた者もいた。


その人たちが、今日はそれぞれの持ち場を離れて並んでいる。厨房の奥で鳴るはずの鍋の音は遠く、庭から聞こえるはずの鋏の音も止んでいる。侍女たちは白い手袋を重ね、下働きの者たちは扉の影で深く頭を下げ、年若い見習いの少年までも、緊張で肩を固くしながら、目を伏せていた。誰も泣いてはいけないと分かっている。今日のエレオノーラは王宮へ向かう令嬢で、しかも公爵である父の隣に立っている。屋敷の者たちはその道行きを曇らせてはならない。だからこそ、赤くなった目元を隠すように顔を伏せ、唇を結び、祝福も寂しさも誇らしさも、全部を礼の形に押し込めているのだと分かった。エレオノーラは一瞬、そのすべてを受け止めきれずに足を止めそうになったが、隣の父の手が変わらずそこにあったため、指先に残っていた冷たさを感じながら、それでも視線を伏せきらずにいられた。


「お嬢様、いってらっしゃいませ」


ローレンの声を聞いた瞬間、エレオノーラは足を止めた。オルドリックも、彼女を引かなかった。父の手はそこにあり、いつでも馬車へ導ける形を保っていたが、娘がその言葉を受け取る間、指先に余分な力を入れることはなかった。


いってらっしゃいませ。


屋敷から出る人へ向ける言葉。戻る場所のある人へ向ける言葉。行ったままどこかへ消えてしまう人ではなく、扉の向こうへ進んでも、またこの家の灯りの中へ帰ってくる人へ差し出される言葉。


幼いころ、母の葬送を終えたあと、手の中に白い手巾を握りしめて、弟の泣き声のほうへ歩き出そうとした日のことが胸に戻ってきた。あのときも怖かった。母はもういないのに、母が残した言葉だけが胸の奥にあり、その言葉を今日すぐに守れなければ母の娘ではなくなってしまうような気がして、廊下の途中で足が動かなくなった。白い手巾は冷たくて、けれど握っているうちに少し温かくなり、ヴィクトルの声が、母君の言葉を今日のうちに全部守ろうとしなくていい、と言った。そのあとに彼が返してくれた、行ってらっしゃい、という言葉が、弟の部屋へ向かう自分の背中を、押すのではなく、帰る場所ごと包んでくれた。


今、ローレンの声は、その日の声と重なっていた。ヴィクトルの声とは違う。少年のまっすぐさではなく、長い年月この家を守ってきた人の低く整った声だった。けれど、そこに込められているものは同じだった。行っておいで。怖くても、迷っても、屋敷の外でどんな目を向けられても、あなたはこの家から送り出された人で、帰ってくれば迎える者がここにいる。あなたの母君がいない日も、あなたが泣けなかった日も、弟君の声に足を止めた日も、何度も礼を返して自分を保とうとした日も、私たちは見ていた。だから今日だけ、美しく整った姿だけを見送るのではなく、そこまで歩いてきたあなたごと見送るのだと、声に出さないまま言われている気がした。


胸元の奥が痛んだ。苦しい痛みだったが、突き放される痛みではなかった。母がここにいたなら、どんな顔をしただろうと思った。きっと、ドレスの裾が少しでも曲がっていれば直そうとして、けれどナディアに先を越されて微笑み、ローレンの言葉を聞いたあとで、エレオノーラの背に手を添えたのではないかと思った。その手はもうない。けれど、母がいなくなったあとも、この屋敷は母が残したものを消さずに持っていてくれた。部屋の灯りも、弟の泣き声へ向かう廊下も、白い手巾を握った日の記憶も、今日のドレスの裾も、全部がばらばらにならないように、誰かの手が毎日少しずつ整えてくれていた。そして今、その記憶の隣には父の手がある。母を失ったあと、互いに近づき方を間違え、沈黙を怖がり、何度も遠ざかった父の手が、それでも今日、娘を屋敷の外へ送り出すために、離れずにそこにある。


エレオノーラは息を吸った。すぐに言葉を返そうとすると、喉の奥で声が震えそうになった。泣くわけにはいかない、と思ったあとで、泣いてはいけないのではなく、今はこの人たちにきちんと礼を返したいのだと気づいた。涙をこらえるためではなく、受け取ったものを雑に流さないために、エレオノーラは父の手からそっと自分の手を離した。オルドリックの視線が一瞬だけ彼女へ降りた。エレオノーラはその視線を受けながら、深く息を吸い、裾を乱さないように足を揃えた。


ローレンが頭を下げている。ナディアが裾から手を離し、胸の前で指を重ねている。侍女たちも、下働きの者たちも、扉の影に控えた者たちも、石段の脇に並んだ者たちも、誰も顔を上げてはいない。けれど、その伏せた顔のひとつひとつに、エレオノーラの知らない時間があったはずだった。母を亡くした娘をどう支えればいいか分からず、それでも朝になれば湯を用意し、食事を運び、花を替え、廊下を磨き、弟の部屋の前で足を止める音を聞いても急かさず、今日のためにドレスを整えた時間があった。その全部を受け取るには、一言では足りない。それでも、言葉にできないものを受け取ったと示す方法は、今のエレオノーラには礼しかなかった。


だから彼女は、デビュタントへ向かう令嬢としてだけではなく、この屋敷で育ち、この屋敷に何度も守られ、母のいない季節を越えるあいだに、声なき手に支えられてきた娘として、深く礼を返した。


「行ってまいります」


声は大きくなかった。けれど、玄関広間の静けさの中で、その言葉はまっすぐ届いた。ローレンの肩が、ほんのわずかに動いた。ナディアが目を伏せ直す。誰かが息を飲んだ気配がしたが、それを咎める者はいなかった。エレオノーラが顔を上げると、すぐ隣でオルドリックが彼女を見ていた。青灰の瞳はいつものように静かで、表情もほとんど変わっていない。エレオノーラが戻るのを待っていたその手が、もう一度、彼女の前に差し出された。


エレオノーラはその腕に手を戻した。先ほどよりも、指先の冷たさは薄れていた。扉の向こうには馬車が待っている。王宮へ向かえば、母のことを知らない人々がいる。エレオノーラが白い手巾を握って廊下に立ち尽くした日も、弟の泣き声に足を止めた日も、葬送録の前で声が出なくなった日も知らない人々が、今日の彼女をただ公爵令嬢として見るのだろう。それでも、もう同じではなかった。屋敷の者たちは知っている。ローレンも、ナディアも、ここに並ぶすべての人が、今日の美しい姿だけではなく、そこへ辿り着くまでの歩みを知っている。そして父もまた、すべてを言葉にできる人ではないまま、娘の隣に立ち、その歩みを王宮の前まで連れていこうとしている。


石段へ足を進めると、外の光が少し眩しかった。ドレスの裾が揺れ、胸元の飾りが小さく光る。背中にはまだ、ローレンのいってらっしゃいませが残っている。白い手巾を握った日の行ってらっしゃいと重なり、母のいない屋敷で覚えた痛みと、今日この屋敷から受け取った温かさが、同じ胸の奥で静かに結ばれていく。オルドリックは彼女の歩みに合わせ、急がず、けれど立ち止まりすぎない速さで石段を下りた。父の礼服の袖が朝の光を受け、銀糸の刺繍がかすかに光る。その硬い輝きのそばに自分の白い手袋があることを、エレオノーラは不思議なほどはっきり感じていた。


馬車の前で、エレオノーラは一度だけ振り返った。使用人たちはまだ頭を下げている。誰も、早く行けとは言わなかった。誰も、泣くなとも言わなかった。ただ、彼女が自分の足で乗り込むまで、屋敷全体で待っていた。オルドリックも、その振り返りを止めなかった。父はすでに馬車へ乗るための位置に立っていたが、娘が最後に屋敷を見るあいだ、手を離さずに待っていた。


その待っていてくれる沈黙に支えられながら、エレオノーラは父の手を借りて馬車へ乗った。オルドリックが続いて乗り込むと、車内の空気がわずかに沈み、外の光が扉の縁で細く揺れた。扉が閉まる直前、ローレンがもう一度、深く礼をした。ナディアの目元に光るものが見えた気がしたが、ナディアは最後まで侍女としての姿勢を崩さなかった。車輪がゆっくり動き出す。屋敷の玄関が少しずつ遠ざかる。


エレオノーラは窓の向こうを見ていた。隣には父がいる。オルドリックは何も言わず、膝の上に置いた手を動かさなかったが、その沈黙は玄関広間で感じたものと地続きだった。離れていくのではない。行ってくるのだと思った。母のいない屋敷から、母が残したものを抱いて、ずっと自分を見てくれていた人たちに送り出され、父と同じ馬車に乗って、また戻ってくるために行くのだと思った。

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