第十三話 葬送①
遅くなってしまい申し訳ありません。
この後すぐに②も投稿いたしますので、もうしばらくお待ちください。
朝の支度の声がかかる前から、屋敷は目を覚ましていた。
窓の外はまだ白く、庭の木々の輪郭も薄いままだったが、廊下の向こうでは足音が絶えず行き来していた。急いでいるのに走らない足音だった。声は低く、扉の開け閉めも抑えられている。誰も騒いでいないのに、廊下の奥を行き来する足音だけが、まだ屋敷の中に落ち着かない気配を残していた。エレオノーラは寝台の端に座り、膝に置いた手を見ていた。指先は冷えていたが、冷えていることに気づくまで少し時間がかかった。
ナディアが湯を持って入ってきた。盆の上で白い湯気が立っている。いつもの朝なら、その湯気には石鹸や布の匂いが混じるだけだったが、今日は廊下の奥から流れてくる香の乾いた匂いが、温かい湯気の中にも薄く混じっているように感じられた。ナディアは盆を置き、いつもより少し深く礼をとってから顔を上げた。
「お嬢様、お支度をいたします」
エレオノーラは頷いた。声を出そうとすると、喉の奥が朝の空気より冷たく狭くなった。ナディアは急かさず、手巾を湯に浸し、きつく絞ってからエレオノーラの手へそっと添えた。湿った布の温かさが指の間へ移る。温かいはずなのに、その下にある自分の手がすぐには温まらないことが、少し怖かった。
喪服は椅子の背に掛けられていた。黒い布は、子どもの体に合わせて仕立てられているのに、今朝はひどく大きく見えた。襟元の白だけが小さく浮き、袖口はきちんと整えられている。ナディアが布を持ち上げると、衣擦れの音が静かに鳴った。その音だけで、今日が母を送る日なのだと分かる気がした。
着替えのあいだ、エレオノーラは何度か息を止めた。腕を通し、肩を合わせ、背中の留め具が一つずつ掛けられていく。留め具が一つ掛かるたび、昨日受け取ったものがどれも、もう遠くへ置いておけないものとして胸の内側に戻ってくるようだった。母の手紙も、真珠のブローチも、祈祷書も、北方の白い布も、銀の灯火具も、今すぐ開かなくてよい、置いておいてよいと言われた。それでも、置いたものはなくならない。朝になれば、また同じ場所で待っている。
ナディアが小箱を持ってきた。真珠のブローチが入った箱だった。祖母から渡されたとき、エレオノーラは蓋を開けるだけで精一杯で、指を伸ばせなかった。今朝も、箱が目の前に置かれると、胸の内側が小さく縮んだ。真珠は白く、丸く、静かだった。母の胸元にあったときは、柔らかな布と母の声に包まれて見えたものが、今は箱の中で、白さだけを残していた。
「おつけになりますか?」
ナディアの声は、答えを急がせなかった。
エレオノーラは真珠を見たまま、手を膝の上で重ねた。つけたいのか、つけたくないのか分からなかった。母のものを自分の胸に留めることが、母の場所へ手を伸ばしてしまうことのようにも、母がもうそれを身につけられないと認めることのようにも思えた。けれど今日、母を送る場に立つ。母が残したものをすべて遠ざけたまま立つことも、違う気がした。
「……触っても、よいですか?」
「もちろんでございます」
ナディアは箱を少し近づけた。エレオノーラは、真珠そのものではなく、金具のそばに指を添えた。冷たかった。けれど、その冷たさは、母の手の熱とは違うものだった。熱かった手。怖いと言った母。エレオノーラの顔を見ると少し息ができると言った母。その声が戻ってきて、エレオノーラは指を引きかけた。
ナディアは何も言わなかった。
部屋の外で、遠くの扉が開く音がした。誰かが低い声で返事をし、また足音が近づいて遠ざかる。屋敷は動いていた。そこに母はいないのに、母を送るための支度だけが、部屋の外で途切れず続いている。
エレオノーラは、もう一度真珠を見た。
「つけます」
言ってから、声が震えたことに気づいた。ナディアの手が一瞬だけ止まり、それから慎重にブローチを取り上げた。黒い喪服の胸元へ、白い真珠が置かれる。針が布を通る小さな抵抗が、なぜか自分の胸に伝わったように感じられた。留め具が閉じる音はほとんど聞こえなかったが、エレオノーラは、それで何かが決まったことだけは分かった。
「きちんと、お留めできております」
ナディアはそう言ったあと、すぐに言葉を足さなかった。綺麗だとも、奥方様もお喜びになるとも言わなかった。エレオノーラは鏡を見た。黒い服を着た七歳の自分が、白い真珠を胸に留めて座っている。母に似ているのか、似ていたいと思っているのか、そのどちらも鏡の中からは分からなかった。ただ、その真珠だけが、母から離れて、自分の胸元に来ていた。
「重くはございませんか?」
「……少し」
「外されますか?」
エレオノーラは首を横に振った。
「少し重いだけです」
ナディアは、はい、と答えた。それ以上、軽いとも、外しましょうとも言わなかった。
部屋を出ると、廊下の空気は昨日より冷えていた。窓は閉じられているのに、どこか外気に近い匂いがする。弔いのために花が運ばれ、布が掛けられ、香が焚かれ、屋敷のいつもの匂いの上に、今日だけの匂いが重なっていた。壁際には使用人たちが控え、エレオノーラが通ると礼をとる。いつもなら、その一つ一つにどう返すべきかを考える。けれど今日は、その礼が自分ひとりへ向けられたものではないことが分かった。彼らもまた、母をこの屋敷から送るために、そこに立っていた。
祖母は控えの間にいた。濃い喪服をまとい、髪を高く結い、扇は持っていなかった。手元には黒い手袋が置かれている。父は窓際に立っていた。濃い礼服の背が、朝の光の中で大きく見える。振り返った父の目は赤くはなかったが、昨日より深いところに沈んでいた。
父はエレオノーラの胸元を見た。真珠のブローチを認めたのだろう。すぐには何も言わなかった。言葉を探すように少しだけ口を閉じ、それから低く告げた。
「よく、つけた」
その一言に、エレオノーラは胸元の真珠へ指を寄せかけた。父が見ていたのは、飾りではなく、そこへ触れるまでに自分が止まっていた時間なのだと思った。エレオノーラは小さく頷いた。
祖母が近づき、真珠には触れず、襟元の白い布だけをわずかに整えた。
「今日は、セシリアを送ります。あなたに、崩れるなと言うために呼んだのではありません。ただ、あなたがそこにいることを、セシリアを送るこの家の者たちは、きっと覚えます」
「はい」
「言葉が出なくなったときは、無理に返さなくてよろしい。礼をとれないときは、目を伏せるだけでもよろしい。今日のあなたに、すべての形を整えろとは言いません」
祖母はそこで少し息を置いた。いつもなら揺れずに進む声が、その朝はわずかに低く沈み、次の言葉へ移るまでに時間がかかった。
「母を送る場所から、逃げずにいることです」
エレオノーラは、胸元の真珠の重さを感じながら頷いた。逃げずにいる。その言葉を胸の中で繰り返すと、強くならなければならないと言われたわけではないのだと、少し遅れて分かった。それでも、足の裏が床に届いているかどうか不安だった。父がそばにいて、祖母がいて、ナディアが後ろに控えている。遠くの部屋ではリュシアンが眠っているのか、泣いているのか、今は聞こえなかった。
廊下を進むと、屋敷の奥に設けられた弔いの間へ近づくにつれて、香の匂いが濃くなった。王家から届いた香は冷たく甘く、ディオール家の祈祷書が置かれた台のそばには、古い紙と革の匂いがあった。アシュベル家の北方式の香は、それらと違い、雪の中で燃える細い枝を思わせる乾いた匂いがする。三つの匂いは混ざりきらず、同じ部屋に並んでいた。
弔いの間には、すでに多くの人がいた。声は低く、衣擦れと足音だけが広がっている。王家の供花は白と青で整えられ、黒縁の書状が高い台に置かれていた。ディオール家の祈祷書の箱は、ラファエルの手で開かれ、セシリアが若いころに持っていたという小さな本が白い布の上に置かれている。イネスはそのそばで目を伏せ、ルシールは少し後ろに控えていた。アシュベル家の白い毛織布は、母の棺の近くに置かれていた。まだ掛けられてはいない。銀の灯火具も箱から出され、火を入れないまま、布のそばで静かに光を受けていた。
セシリアの棺は、花の中にあった。寝台で見た母とは違う。奥の部屋で熱に浮かされていた母とも違う。白い花と深い棺覆いに囲まれた母は、遠く見えた。エレオノーラは足を止めそうになったが、父の手が背中の少し後ろにあった。触れはしない。けれど、そこにあることは分かった。
母の顔を見るのが怖かった。見なければ、まだどこかで母が息をしているような気がする。けれど、見なければ今日ここへ来たことにならないようにも思えた。エレオノーラは、父と祖母に従って棺の前へ進んだ。花の匂いが近くなる。白い花の間に、母の顔があった。
母は眠っているように見えた。けれど、眠っている母なら、エレオノーラが近づけば薄く目を開ける。手を伸ばせば、指先を握り返す。呼びかければ、声が戻ってくる。今は、そのどれもなかった。母の頬は静かで、額に汗はなく、熱も見えない。熱が消えたのだと思った瞬間、胸の中で何かが崩れかけた。熱が下がったのではない。母がいなくなったから、熱も消えた。
「お母様」
声は、自分でも驚くほど小さかった。誰にも聞こえないと思った。けれど父の指が一瞬だけ動き、祖母の目が伏せられたので、二人には聞こえたのかもしれない。
高位司祭の祈りが始まった。言葉はゆっくりと部屋に満ちていく。神の御許へ、安らぎへ、光へ。言葉は整っていて、どれも弔いのために選ばれているはずなのに、エレオノーラの中で、母はまだ光のほうへ行かなかった。母は奥の部屋にいて、熱い手で、リュシアンを怖がらないでと言っている。母は馬車の中で、分かったふりをしなかったことを聞いてくれている。母は長椅子に座り、あなたは姉になりますと告げている。祈りの言葉が流れるたび、母の姿が一つずつ遠くへ押し出されていくようで、エレオノーラは真珠のブローチを胸元で意識した。
弔いの列が整えられる。父が前に立ち、祖母が続き、エレオノーラはそのすぐそばにいた。王家の使者、王宮侍従、アレクシスも、定められた位置に控えている。アレクシスは白と黒を合わせた王太子の喪の装いで、顔をこわばらせていた。彼はエレオノーラを見ると、何かを言いたそうにしたが、葬送の場では声をかけられない。青い瞳は一度揺れ、王宮侍従の立つ位置と、定められた列の中へ戻っていった。来てくれている。そのことは分かった。けれど、エレオノーラの胸に届く前に、その視線は儀礼の中へ戻っていった。
少し離れた位置に、アシュベル大公家がいた。ギルベルトは背筋を伸ばし、ヘルミーネは黒い布の下で静かに手を重ねている。オスカーは昨日よりも固い顔をして、母のそばにいるようにヘルミーネの近くに立っていた。その隣に、ヴィクトルがいた。
黒い喪服を着たヴィクトルの白銀の髪は、弔いの間の光の中でほとんど色を失って見えた。けれど、氷青の瞳だけはまっすぐだった。彼はエレオノーラを見ていた。ずっと見ているわけではない。場の順を守り、祈りのときは目を伏せ、父の動きに合わせる。けれど、エレオノーラが息を詰めるたび、視線が戻ってくる。視線に触れられるだけで、エレオノーラは、自分が立っている場所を少しだけ思い出せた。
祈りのあと、棺覆いへ別れを添える順が始まった。セシリアの棺には、ヴァルクレスト家の紋を黒糸で織り込んだ深い布が掛けられている。花はその上へ散らすためのものではなく、白い花枝として細く束ねられ、祈りとともに布のそばへ添えるものだった。父が先に進み、棺覆いの端へ手を置いた。大きな手が一瞬だけ止まる。布から指が離れたあとも、父はすぐには身を起こせなかった。祖母が次に進み、白い花枝を棺覆いのそばへそっと置く。祖母の指は震えていなかったが、布の端に触れるときの動きは、いつもの祖母よりずっと遅かった。
エレオノーラの番になった。
手に渡された花枝は軽かった。細い茎をまとめたものなのに、持った瞬間に腕が重くなった。母へ祈りを添える。母のそばへ。決められた所作は、昨夜ローレンから聞かされていた。棺覆いの端へ手を置き、白い花枝をその近くへ置き、目を伏せる。ただそれだけのはずだった。けれど、棺へ近づくと、足が止まりかけた。布に触れれば、母を送るための儀の中へ自分の手も入ってしまう。触れなければ、儀が進まない。手の中の茎が指に当たり、冷えた感触が残る。
エレオノーラは、花枝を置こうとした。指が震えた。白い花の先が、棺覆いの縁に触れて小さく揺れる。誰かが息を飲んだ気配がした。王宮の儀礼官がわずかに動き、進行を止めないために声をかけようとしたのが分かった。
その声が出る前に、黒い袖がエレオノーラの視界の端に入った。
ヴィクトルだった。
彼は列を乱すほど大きく動かなかった。けれど、誰にも気づかれないほど小さくもなかった。アシュベル大公家の位置から、定められた線を越えすぎないぎりぎりのところまで来て、エレオノーラの横に立った。高位司祭も、王宮の儀礼官も、父も、ギルベルトも、その動きを見た。
ヴィクトルは、エレオノーラの手に触れる前に、低く言った。
「エレオノーラ様」
胸の前で何かが小さく揺れた。家の名でも、席の名でもなく、「様」を添えた自分の名が、弔いの間の奥からまっすぐ届いた。
エレオノーラは花枝を持ったまま、ヴィクトルを見た。彼は少しだけ身をかがめていた。十三歳の少年の顔なのに、その目は逃げなかった。
「俺の手を使え」
言葉の意味がすぐには分からなかった。ヴィクトルは続けた。焦ってはいないが、今ここで言わなければならないと決めた声だった。
「祈りを添えるのは君だ。俺が代わることはできない。けれど、その手を人に見せたくないなら、俺の袖で隠せばいい。嫌なら、指を引いてくれ。引かないなら、このまま支える」
エレオノーラの胸の内側で、何かが大きく揺れた。周囲に人がいる。父がいる。祖母がいる。王家の使者も、アレクシスも、ディオール家も、アシュベル大公家もいる。こんな場で、手を支えられてよいのか分からなかった。けれどヴィクトルは、エレオノーラの代わりに花枝を置こうとはしなかった。泣くなとも、頑張れとも言わなかった。黒い袖の陰だけが、エレオノーラの手のそばにあった。
エレオノーラは、指を引かなかった。
ヴィクトルの手が、花枝を持つエレオノーラの手の下に添えられた。触れ方は強くなかった。逃げようと思えば逃げられる。けれど、支えられていることははっきり分かった。黒い袖の陰に、エレオノーラの小さな手と白い花枝が半分隠れる。震えが消えたわけではない。けれど、見られている怖さが少しだけ遠のいた。
二人で、棺覆いのそばへ花枝を置いた。
正確には、置いたのはエレオノーラだった。ヴィクトルは手の下で支えただけだった。白い花枝が母のそばへ静かに乗る。指が離れるとき、エレオノーラは息を吸った。息を吸えることに気づいてから、少し遅れて涙が出そうになった。
ヴィクトルはすぐには離さなかった。けれど、強く握りもしなかった。彼はエレオノーラの横で、視線を母の棺へ向けたまま言った。
「君が置いた」
その声を聞いて、エレオノーラはようやく、白い花枝が自分の手から離れたのだと分かった。
「俺ではない。君が、母君へ祈りを添えた」
エレオノーラの唇が震えた。はい、と言えなかった。言えなかったが、ヴィクトルの手の上で、自分の指が少し動いた。ヴィクトルはそれに気づいたのか、そこで初めて手を離した。離れる瞬間、袖の陰が消え、弔いの間の光がまた手に戻る。エレオノーラは、支えがなくなっても倒れなかった。
王宮の儀礼官は、出しかけた声をそこで止めていた。場を乱すほどの沈黙ではない。けれど、何かを進行のために急がせようとした声は消えた。ギルベルトがわずかに目を伏せ、ヘルミーネは静かに息を吐いた。父は、ヴィクトルを見た。鋭い目だった。けれど、その奥にあったのは怒りではなかった。娘の手を奪わず、けれど支えた少年を、オルドリックは長く見ていた。
ヴィクトルは父の視線を受けても、逃げなかった。礼を失したわけではないと主張するような顔ではなかった。ただ、自分が何をしたかを分かっていて、その責任から目をそらさない顔だった。
エレオノーラは、自分の手を見た。まだ震えている。けれど、その震えを見られたことよりも、震えている手で母へ花枝を置いたことが、胸の中に残った。
その後の葬送は、ゆっくりと進んだ。祈りの言葉が重なり、参列者が順に棺覆いのそばへ祈りを添える。ラファエルは母の棺の前で、長く目を伏せた。イネスは祈祷書の上に指を置き、ルシールは布の端を整えるときに一瞬だけ目を潤ませた。アレクシスは棺覆いの前へ進むとき、エレオノーラのほうを見た。何かを伝えたいのだろう。けれど、彼の視線は、エレオノーラの手元まで来て、そこで迷い、言葉にならないまま戻っていった。
ヴィクトルは、それ以上前へは出なかった。だが、一度出たあとの彼は、弔いの間のどこにいても、エレオノーラの中で遠くならなかった。さっきの手の温度が、指の下に残っている。母の手の熱とは違う。リュシアンの布に触れた感触とも違う。北方の白い布の重さとも違う。自分の震えを隠すために差し出された、黒い袖の陰と、手の下の支えだった。
棺が運ばれる時刻になった。屋敷の者たちが静かに位置を変える。父が先に立ち、祖母が続く。エレオノーラも歩き出した。足が床から離れるたび、自分が本当に歩いているのか分からなくなる。棺が運ばれていく。花に囲まれ、ヴァルクレスト家の紋を織り込んだ棺覆いと北方の毛織布のそばを通り、ディオール家の祈祷書の前を過ぎ、王家の供花の横を抜けていく。母が暮らしていた廊下を、もう返事の戻らない静けさの中で棺が進んでいく。
屋敷の玄関へ続く広い廊下には、使用人たちが並んでいた。料理人も、下働きの者も、庭師も、普段は奥にいる者たちも、みな黒い布を身につけ、頭を下げている。すすり泣く声は抑えられていたが、完全には消えなかった。母の手が整えた食卓、母が選んだ花、母が声をかけた人たち。その人たちが今、母を見送っている。
エレオノーラは、その列の間を歩いた。真珠のブローチが胸元でかすかに揺れる。母のものをつけて歩いている。母を送る道を、母の真珠と一緒に歩いている。そう思うと、喉の奥から声が上がりそうになった。泣きたいのか、呼びたいのか、自分でも分からなかった。
玄関の近くで、外の光が強くなった。馬車ではなく、葬送のために整えられた台車が待っている。黒い布、白い花、銀の飾り。高位司祭が最後の祈りを述べ、父が棺のそばへ進む。エレオノーラも一歩前へ出ようとした。だが、外の光を見た瞬間、足の裏が床から離れなくなった。
屋敷の外へ出たら、母は本当に屋敷から離れる。そう思った。
手がまた震えた。今度は花枝を持っていない。隠すものがなかった。ナディアが後ろで気づきかけたが、参列の列の中で、すぐには手を伸ばせない。父は棺のそばにいる。祖母は少し前にいる。エレオノーラは、自分の手を握ろうとした。握れば震えが止まるかもしれないと思ったが、指に力が入らなかった。
ふいに、横から声がした。
「見なくていい」
ヴィクトルだった。
彼は、また隣にいた。いつ移動したのか分からなかった。場の順を壊さない位置で、けれどエレオノーラが一人で外の光を受けない場所に立っている。
「全部を見なくていい。母君が屋敷を出るところを、目を離さず見届けなければならないと、今の君がひとりで決めなくていい」
エレオノーラは、外の光を見たまま言った。
「見なければ、失礼になるかもしれません」
「なら、俺が見る」
その言葉に、エレオノーラは思わずヴィクトルを見た。彼は外を見ていた。母の棺へ向けて、真っ直ぐに。ふざけている顔でも、慰めるために作った顔でもなかった。
「君が目を伏せたところは、俺が見る。あとで知りたくなったら、俺に聞けばいい。聞きたくないなら、俺からは言わない」
痛みとは違うものが、喉の奥まで上がってきた。誰かが代わりに母を送れるわけではない。けれど、見られないところを、誰かが見ておいてくれる。聞きたい日が来たら聞ける。聞けないなら、聞かなくてもいい。自分が見られなかったところを、ヴィクトルが外の光のほうを見たまま覚えていてくれる。
エレオノーラは、少しだけ目を伏せた。完全には閉じなかった。足元の黒い布、白い花びら、外から入る光の端が見えた。棺が運ばれる音がする。父の低い声がする。祈りの言葉が続く。母が屋敷を出ていく。母が外へ出ていく光景の一部は、自分の中で白く抜けたまま残った。それでも、足元の黒い布を見ているあいだ、逃げたという言葉は胸に落ちてこなかった。
外へ出ると、空は薄く晴れていた。強すぎない光が庭に落ち、風は冷たくないのに、エレオノーラの頬を通ると少し痛かった。葬送の列はゆっくり進む。屋敷の門を出て、礼拝堂へ向かう道へ入る。王家の供花を載せた者、ディオール家の祈祷書を持つ者、アシュベル家の白い布を支える者が、それぞれ定められた位置で列に加わっている。母は、そのどれとも離れていなかった。




