第十ニ話 言葉のそばで②
窓の外で近づいてきた音は、しばらくして屋敷の前で止まった。王家の使者が来たときの馬車とも、ディオール家の一行が到着したときの馬車とも違っていた。車輪の音は重く、けれど乱れてはいない。馬が止められる気配、御者が低く声をかける音、前庭に控えていた使用人たちが位置を変える気配が、扉や壁を通して客間の中へ薄く届いた。エレオノーラは、膝の上で重ねていた手を動かさずに、その音を聞いていた。
母の故郷から来た人たちが残していった空気は、まだ部屋の中にあった。ラファエルが持ってきた小さな祈祷書の箱は、父の手元に置かれている。まだ開けられていない。イネスが語った母の手紙、ルシールが語った手袋の縫い目、ラファエルが言った、娘が知る母と兄が知る妹は同じ形ではないという言葉。そのどれも、エレオノーラの中でまだ落ち着く場所を見つけていなかった。そこへ、別の馬車の音が重なってくる。
ローレンが扉の外から入り、父と祖母へ礼をとった。
「旦那様、大奥様。アシュベル大公閣下ご一家がお着きでございます。大公妃様、ヴィクトル様、オスカー様がご同行でございます。大公家の家令エルンストが、随行として控えております」
アシュベル大公閣下。ヴィクトル様。オスカー様。エレオノーラは、その名を聞いて、胸の中で別の紙が開かれるように感じた。橋、砦、道、薪、薬、冬、忘れるな。王宮で北方の報告を聞いた日の紙。母のお腹にまだ見ぬ命がいたころ、北方では生まれる家も数えるのだと聞いた日のこと。薬草の匂い、記録、忘れた家には何も届かないという言葉。それらは、セシリアの死とまだつなげて考えられるほど、エレオノーラの中で整理されてはいなかった。ただ、アシュベルという名が聞こえると、北方の冷たい空気と、紙の上に置いた言葉が、遠くから戻ってきた。
父は立ち上がった。祖母も静かに立つ。エレオノーラも続こうとしたが、体が一瞬だけ遅れた。立てないわけではない。けれど、朝から何度も立ち、礼をとり、言葉を返し、そのたびに胸の内側で何かを受け取ってきた体は、立ち上がる前にわずかにためらった。ナディアがそばで手を差し出す。エレオノーラはその手に支えられながら立った。
「無理はしなくてよい」
父の声が低く届いた。エレオノーラは、はい、と答えようとしたが、声にする前に頷いた。父はそれ以上言わず、ローレンへ目を向けた。客間の扉がもう一度整えられ、花の置かれた台の位置がほんの少し直される。ディオール家の人々が出ていったばかりの部屋に、今度は北方大公家が入ってくる。そのことが、同じ弔問であっても、違う扉が開かれるように感じられた。
扉が開かれた。
最初に入ってきたのは、ギルベルト・アシュベルだった。鉄を混ぜたような銀灰色の髪が、喪の黒い礼服の中で重く光っている。淡い鋼青の瞳は、部屋の中のものを一つずつ確かめるように動いたが、そこで止まるものを軽く扱う目ではなかった。背が高く、肩幅があり、王都の礼服をまとっていても、北方の砦や街道を背負っている人だと分かる。彼の後ろに、ヘルミーネが続いた。淡い蜂蜜色を帯びた髪は喪の布に抑えられていても、冷たい光の中で白っぽく見えた。灰緑の瞳は静かで、部屋へ入った瞬間に誰かの場所を奪うような温かさではなく、冷えた手のそばに火を置くような温度を持っていた。
その少し後ろに、ヴィクトルがいた。白銀の髪は、黒の礼服の中でいっそう色を失ったように見えた。王宮で見たときよりも、光を跳ね返すのではなく吸い込んでいるようで、氷青の瞳は部屋の奥へ向けられていたが、すぐにエレオノーラのほうへ来た。彼は一歩前へ出ているわけではない。父である大公の後ろに控え、場の順を守っている。けれど、その視線がエレオノーラに触れた瞬間、エレオノーラは、自分が今も立っていることを急に意識した。
オスカーは、ヘルミーネの少し近くにいた。銀を帯びた淡い金髪と明るい青灰色の瞳を持つ少年は、エレオノーラと同じ年であるはずなのに、この場ではずっと幼くも、同時に一生懸命に見えた。小さな弔花を両手で持ち、指に力が入っている。何を言えばよいのか分からないまま、言葉を落とさないように口を結んでいる子どもの顔だった。さらに後ろには、エルンストが控えている。大公家の家令として、必要なものを必要な場所へ置くためにいる人の静けさがあった。
ギルベルトはまず父へ向かい、深く礼をとった。
「ヴァルクレスト公爵。セシリア夫人のご逝去に際し、アシュベル北方大公家より、深く哀悼の意を表します。夫人がこの家に残されたものの重さを、我らが軽く言葉にすることはできません。ただ、北方大公家として、ヴァルクレスト家の喪に礼を尽くすため、参りました」
へりくだる言葉ではなかった。けれど、重さがあった。形式だけでもなく、感情だけでもなかった。父はその礼を受け、同じように深く返した。
「アシュベル大公閣下。遠路、またご多忙の中お越しくださったこと、ヴァルクレスト家として深く感謝いたします。セシリアも、生前、北方大公家の誠実なお働きに敬意を抱いておりました」
ギルベルトの瞳が、ほんの少しだけ伏せられた。
「夫人には、王都の席でも、北方の報告に耳を傾けていただいた。幼い者が聞くべきことを、聞かせる場を恐れない方でした」
母が北方の報告をどう聞いていたかを、エレオノーラは思い出した。王宮での帰りの馬車の中、分かったふりはしませんでしたと自分が言ったとき、母は聞こうとしたことを受け止めてくれた。母は、王都の美しい部屋の中で聞いた北方の言葉を、ただ遠い土地の話にはしなかった。エレオノーラが薬や記録や生まれる家の話をしたときも、母は、忘れられないように名を待っているのですね、と言った。
その母が、今はここにいない。
エレオノーラは唇を結び直した。ギルベルトの言葉は父へ向けられていたが、母が確かに人の話を聞く人だったことを、別の家の人が覚えている。そのことが、胸の中のどこかをゆっくり押した。
ヘルミーネが一歩進み、祖母へ礼をとったあと、エレオノーラへ視線を向けた。近づきすぎない。けれど、遠くから眺めるだけでもない。その距離の取り方は、セシリアの席へ座ろうとしない人のものだった。
「エレオノーラ様」
声は柔らかかったが、甘やかすために柔らかいのではなかった。
「長い道を来た私どもより、この屋敷でお迎えになっているあなたのほうが、ずっとお疲れでしょう。今ここで、私にきれいな言葉を返そうとなさらなくて大丈夫です。まずは、セシリア様へお悔やみを申し上げることを、お受け取りください」
エレオノーラは礼を返そうとして、少し遅れた。言葉を返さなければと思った。アシュベル大公妃が、自分へ声をかけてくれている。公爵令嬢として、王太子の婚約者として、受けた弔意に礼を返さなければならない。けれど、ヘルミーネはその返事を急がせなかった。言葉を返そうとする前に、受け取ることを先に置いてくれた。
「……ありがとうございます、大公妃様」
それでも、エレオノーラはそう言った。言葉は小さく、礼もいつもより浅かった。浅くなってしまった、と気づいた瞬間、背中がこわばる。けれどヘルミーネはそれを咎めず、少しだけ目を細めた。
「今は、それで十分です」
その言葉は、母の代わりではなかった。母のように包む声ではなく、北方から来た大公妃が、目の前の子どもの体力を見て、その場の重さを少しだけ受け取る声だった。エレオノーラは、胸の奥で小さく息をした。
オスカーが、ヘルミーネの横で花を持つ手を少し持ち上げた。彼は一度兄を見て、それからエレオノーラを見た。明るい青灰色の瞳が、困ったように揺れている。言葉を探しているのだと分かった。けれど、彼にはその言葉がまだ見つからない。
「これを……」
オスカーはそう言いかけて、すぐに口を閉じた。弔花を直接渡してよいのか、台に置くべきなのか、誰へ差し出すべきなのか分からなくなったのだろう。ヘルミーネがそっと手元へ視線を落とすと、エルンストが静かに進み出て、花を受ける位置を整えた。オスカーはほっとしたように息を吐き、もう一度エレオノーラを見た。
「セシリア様へ、です」
それだけ言うと、彼は深く礼をとった。声は少し震えていた。七歳の子どもが弔いの場で言える、精一杯の言葉だった。エレオノーラは、その短さを痛いとは思わなかった。オスカーは、何かを分かったふりをしていない。ただ、花を持って来て、母へと告げた。その手が強く花の茎を握っていたことだけで、彼がこの場を軽く思っていないことは伝わった。
「ありがとうございます、オスカー様」
エレオノーラが言うと、オスカーは少し驚いたように目を開いた。自分の名を呼ばれるとは思っていなかったのかもしれない。すぐにもう一度礼をしようとして、ヘルミーネの手が軽く肩へ触れた。今はそれでよい、と伝えるような手だった。
ヴィクトルは、その間も一歩後ろにいた。目立つことはしていない。けれど、視線は何度もエレオノーラの手元へ来ていた。礼を返すたびに、エレオノーラの指が少し重なる。立つたびに息がわずかに浅くなる。言葉を選ぼうとする前に、喉が一度動く。ヴィクトルはそれを見ていた。見ているだけではなかった。何かを言おうとして、一度黙ったのが分かった。
ギルベルトと父が、北方からの弔意の品について言葉を交わしている。白い毛織布、銀の小さな灯火具、北方で弔いの間に使うという細い香が、エルンストの手で順に示された。豪華さを誇るためのものではなかった。雪深い土地で、亡き人の名を家の内側に残すためのものだという。ギルベルトは、布の端に手を添えながら説明した。
「北方では、冬の前に亡き者の名を家の中で語り直します。忘れぬためだけではない。名を口にできる者がいるうちは、その者がいた場所を家が失わずに済むからです。この布は、葬儀のあと、夫人の品とともに置いていただければよい。使うかどうかは、ヴァルクレスト家のご判断に委ねます」
忘れぬためだけではない。名を口にできる者がいるうちは、その者がいた場所を家が失わずに済む。エレオノーラは、その言葉を聞いて、ラファエルたちの顔を思い出した。妹。従姉。セシリア様。お仕えしておりました。母は、いくつもの名で呼ばれていた。名を口にできる人がいるうちは、母がいた場所は消えない。そう考えようとすると、胸が少し温かくなりかけて、同時に痛んだ。
温かさを受け取るには、まだ早いのかもしれない。けれど、痛みだけではなかった。
ヘルミーネが、銀の灯火具を見ながら言った。
「これは、すぐに火を入れなくてもよいものです。置いておくだけでも、弔いのしるしになります。何かを受け取ったからといって、すぐに使わなければならないわけではありません」
エレオノーラは、はっとした。真珠のブローチ。母の手紙。祈祷書の箱。どれもまだ、受け取れていない。受け取ったのに、開けられない。触れられない。身につけられない。けれど、ヘルミーネは今、別の品について言いながら、受け取ったものをすぐ使わなくてもよいと言った。エレオノーラに向けてだけの言葉ではない。場の中で自然に出た言葉だった。だからこそ、胸の中に無理なく入ってきた。
「置いておくだけでも、よいのですか」
エレオノーラは、思わず尋ねていた。
ヘルミーネは頷いた。
「ええ。無理に意味を決めなくても、置いておくことはできます。あとから見たときに、ようやく分かるものもありますから」
その言葉に、エレオノーラは小さく頷いた。母の祈祷書も、真珠の箱も、母の手紙も、今すぐ意味を決めなくてよいのかもしれない。母から残されたものを、今日の自分が全部受け取れないからといって、捨てているわけではない。ただ、置いておく。あとで見られるかもしれない場所に、壊さずに置いておく。
そう思ったとき、エレオノーラの体から少しだけ力が抜けた。抜けたことで、逆に立っている足の重さが戻ってきた。膝がわずかに揺れる。ナディアがすぐに手を添えたが、その前にヴィクトルが一歩だけ動いた。
ほんの一歩だった。けれど、その場にいた者には分かる動きだった。ヴィクトル自身も、動いたあとで、自分が前へ出たことに気づいたように止まった。ギルベルトの視線が息子へ向く。咎めるものではなかったが、場の順を確かめる目だった。ヴィクトルは一度父を見て、それからエレオノーラを見た。
「そんなに、きちんとしなくていい」
声は低かったが、硬くはなかった。思わず出た言葉のようだった。エレオノーラが顔を上げると、ヴィクトルは少しだけ眉を寄せた。責めたように聞こえたかもしれないと、その瞬間に気づいた顔だった。
「違う。君が悪いと言っているんじゃない。……さっきから、誰かが来るたびに、立って、礼をして、言葉を返している。そうしなければならないのは分かる。俺も、ここへ来る前に父上から、喪の家で勝手に振る舞うなと言われている。だから、君が礼を守ろうとしていることを、軽く言うつもりはない」
そこで一度、ヴィクトルは言葉を切った。切ったのは余韻のためではなかった。次に何を言えば、エレオノーラを責めずに済むのか、探しているようだった。氷青の瞳が、エレオノーラの顔から手元へ、そしてまた顔へ戻る。
「でも、今の君が、それを全部ひとりで受けようとしなくてもいい。言葉が出ないなら、出ないままでいい。礼が浅くなったとしても、それを失礼だとは思わない。少なくとも、俺は」
最後の「俺は」は、少し迷ってから足された。北方大公家嫡男としての「私」ではなく、ヴィクトル自身として言ってしまったことに、彼も気づいたのかもしれない。けれど言い直さなかった。エレオノーラは、その言葉を聞いたまま、すぐには返事ができなかった。
アレクシスは、王宮へ戻る未来を示してくれた。ラファエルは、母の知らない過去へ扉を開いてくれた。ヘルミーネは、受け取ったものをすぐ使わなくてもよいと言ってくれた。ヴィクトルは、今ここで自分が礼を返そうとしていることを見ていた。正しい言葉を返せるかどうかではなく、返そうとして息を詰めているところを見ていた。
それが急に胸へ入ってきて、エレオノーラは困った。礼を言わなければと思ったのに、礼を言えばまた、今の言葉に逆らうような気がした。けれど何も言わなければ、失礼なのではないかと思う。その二つの間で口元が動かずにいると、ヴィクトルが少しだけ目を伏せた。
「返事も、今はいい」
その言い方は、さっきより少し不器用だった。言ったあとで、また何か足りないと思ったのか、彼は続けた。
「……いや、命じたわけじゃない。返したいなら返せばいい。ただ、返さなければならないと思っているなら、それは違うと言いたかった」
エレオノーラは、胸の奥で何かが少しほどけるのを感じた。完全に楽になったわけではない。悲しみが軽くなったわけでもない。母が戻るわけでもない。ただ、言葉を返す前に一度止まってもよいのだと、体が少しだけ理解した。
「ありがとうございます」
結局、エレオノーラはそう言った。けれど、いつもの礼とは少し違った。整った弔問の返礼ではなく、今の言葉を聞いたという返事だった。ヴィクトルは、何かを言い返そうとして、やめた。やめたが、顔をそらして逃げるのではなく、受け取ったことが分かるように小さく頷いた。
ギルベルトは、そのやり取りを黙って見ていた。息子が前へ出すぎたかどうかを測るような目だったが、止めることはしなかった。ヘルミーネは、オスカーの肩に置いた手を少しだけ緩めた。オスカーは兄を見て、何か言いたそうにしたが、喪の場であることを思い出したように口を閉じた。その動きが、少しだけ子どもらしかった。
父は、ヴィクトルを見たあと、エレオノーラへ視線を戻した。父の顔には、責める色はなかった。むしろ、ほんのわずかに、娘が何かを受け取ったことを確かめるような静けさがあった。
「エレオノーラ、座っていなさい」
父が言った。今度は、エレオノーラもすぐに頷けた。ナディアに支えられて椅子へ座る。座った途端、足の裏から力が抜けるのが分かった。どれほど立っていたのか、座って初めて分かることがあるのだと思った。
アシュベル大公家からの品は、父と祖母の確認を経て、弔いの品として別に整えられることになった。白い毛織布は、セシリアの品々のそばへ置くか、葬儀のあとに用いるかを改めて決める。銀の灯火具は、今すぐ火を入れず、まずは箱のまま預かる。北方式の香は、王家から届いた香とは別に分けられ、ローレンが慎重に控えを取った。エルンストはその手順を見守り、必要なところでだけ言葉を添えた。大公家の随行として、出すぎず、しかし品の扱いを間違えさせない人だった。
その間、エレオノーラは、白い毛織布の端を見ていた。雪の白ではなく、羊毛の白だった。光を強く返すのではなく、柔らかく受けている。北方の冬に使われる布なのだろうか。暖かいものなのに、弔いの場に置かれる。死を冷たいものだけにしない土地の品なのかもしれない。そんなことを思い、すぐに、自分は北方のことをまだほとんど知らないのだと思った。
ヴィクトルが、エレオノーラの視線の先に気づいた。
「北方の布は、見た目より重い」
彼はそう言ってから、少しだけ言葉を探すようにした。
「寒さを防ぐために織るから、薄くはできない。けれど、重いだけでは使えない。体にかけたとき、どこか一か所に重さが集まらないように織る。……これは、葬送のための布だから、普段使うものより柔らかくしてあると聞いている」
エレオノーラは、布を見たまま聞いた。ヴィクトルの声は、先ほどより少し落ち着いていた。北方のものを説明するとき、彼は自分の足場を少し取り戻すのかもしれない。けれど、その説明は、知識を見せるためではなかった。エレオノーラが見ていたものについて、見ているままに言葉を足してくれている。
「重いものでも、かけ方を間違えなければ、苦しくならないのですか」
エレオノーラは尋ねた。布のことを聞いたつもりだった。けれど、言ってから、別のことにも聞こえると気づいた。母の死。弔問。祈祷書。真珠の箱。王家の書状。ディオール家の記憶。アシュベル家の弔意。重いものは、今、いくつも自分の上にある。
ヴィクトルはすぐには答えなかった。布を見て、それからエレオノーラを見た。今度は決めた言葉を置くのではなく、答えを間違えないように考えている顔だった。
「苦しくならない、とは言えないと思う」
彼はゆっくり言った。
「重いものは、重い。布なら、肩にかければ重さが分かる。人が支えれば少し変わるけれど、消えるわけじゃない。……でも、ひとりで全部抱えるよりは、かけ方を考えたほうがいい。誰かが端を持てるなら、そのほうがいい」
その言葉は、北方の布の説明のままでもあったし、そうではないものにも聞こえた。ヴィクトルはそれを分かっているのか、分かっていないのか、最後に少しだけ唇を引き結んだ。言いすぎたかもしれないと思ったのだろう。けれど、もう引っ込められない言葉として、そこに残った。
エレオノーラは、白い布の端を見た。ひとりで全部抱えるよりは、かけ方を考えたほうがいい。誰かが端を持てるなら、そのほうがいい。母の死を誰かに渡すことはできない。母を失った痛みは、エレオノーラの中にある。けれど、弔問を受ける礼、届いた品を預かる順、母の知らない記憶、葬儀の日に立つこと、そのすべてを一人で抱えなくてもいいのかもしれない。
「……端を、持ってもらうことも、礼に反しないのでしょうか」
その問いは、エレオノーラ自身にも幼く聞こえた。けれど、ヴィクトルは笑わなかった。父や祖母も笑わなかった。ヘルミーネが少しだけ視線を下げ、ギルベルトは黙って聞いていた。
ヴィクトルは、少し困ったように眉を寄せた。
「たぶん、反しない。いや、俺が決めることじゃないけれど」
そこで一度、彼は父のほうを見た。ギルベルトは何も言わない。ヴィクトルはまたエレオノーラへ向き直る。
「北方では、重いものを一人で運んで落とすほうが叱られる。誰かを呼べるのに呼ばないのは、強いこととは違うと教えられる。……王都の礼が同じかは、俺にはまだ分からない。でも、少なくとも、ここで君が倒れることを、誰も礼だとは思わない」
最後の言葉は、少し強くなった。十三歳の彼の中にあった苛立ちが、ほんの少し滲んだのかもしれない。母を亡くした子が立ち続けていることへの苛立ち。何かしたいのに、場を乱せずにいた苛立ち。けれど、怒鳴るほどではない。彼はすぐに息を整えた。
「……すまない。言い方が強かった」
「いいえ」
エレオノーラは首を横に振った。強い言葉だったのに、刺さらなかった。自分を責める強さではなかったからだ。
「倒れないように、します」
そう言うと、ヴィクトルは少しだけ困った顔をした。
「それも、少し違う」
エレオノーラが見上げると、彼は言葉を探していた。先ほどよりも長く、迷っている。短い正解を置くのではなく、自分が本当に言いたいことを見つけようとしている顔だった。
「倒れないように、ひとりで頑張るという意味なら、違う。倒れそうになる前に、誰かに言うという意味なら、そうしてほしい。ナディアでも、君の父上でも、大奥様でもいい。俺でなくてもいい。……いや、俺にも言っていいけれど、今の君が、俺に言う理由はないかもしれない。だから、誰でもいい」
言い終えてから、ヴィクトルは少しだけ視線を落とした。自分で言っていて、言葉が散らかったことに気づいたのだろう。けれど、その散らかり方が、エレオノーラには不思議と嫌ではなかった。彼は自分をうまく慰める人ではない。完璧な言葉を持っているふりもしない。ただ、倒れる前に誰かに言ってほしいと言うために、遠回りして、言い直して、最後に自分をその「誰か」に無理に入れないようにしていた。
「ありがとうございます、ヴィクトル様」
今度の礼は、少しだけ声になった。ヴィクトルはそれを聞いて、ほんの少し目を見開いた。名前を呼ばれたことに反応したのかもしれない。けれど、すぐに表情を整えた。
「……うん」
それだけ言ってから、彼はまた大公家嫡男としての位置へ戻った。けれど、その「うん」は、さきほどまでの礼の言葉とは違う場所に落ちた。短かったが、硬い決め台詞ではなかった。十三歳の少年が、返された言葉をどう受け止めればよいか分からず、それでも受け取った返事だった。
その後、父とギルベルトは葬儀の参列と明日の流れについて短く確認した。神殿の高位司祭が到着する時刻、弔いの列の順、王家からの供花をどの位置へ置くか、ディオール家とアシュベル家の席をどう整えるか。祖母が必要なところで口を挟み、ローレンが控えを取る。エレオノーラはそのすべてを理解できたわけではないが、明日が母を送る日になるのだということだけは分かった。
母を送る。言葉にすると、母が遠くへ行くことを自分たちで認めるようだった。奥の部屋で亡くなった母。真珠の箱を残した母。祈祷書をディオール家に残していた若い母。北方の弔いの布のそばに名を置かれる母。いくつもの母が、明日、一つの弔いの場へ運ばれていく。
ヘルミーネは退出の前に、エレオノーラへ深く礼をとった。
「明日も、私どもは参ります。今日お渡ししたものは、どう扱うかを急がなくて大丈夫です。置いておくことも、弔いの一つですから」
「はい」
エレオノーラは頷いた。返事はまだ小さかったが、先ほどより喉に引っかからなかった。
オスカーも礼をとった。花を渡したあとの手は空いていて、その空いた手をどうしてよいか分からないように見えた。彼は一度兄を見て、それからエレオノーラへ向いた。
「あの……明日も、来ます」
言ってから、オスカーは自分でもそれが弔問の言葉として正しいのか分からなくなったようだった。顔が少し赤くなる。エレオノーラは、その様子を見て、胸の奥のどこかがわずかに緩んだ。笑うほどではなかった。けれど、同じ年の子が、言葉を間違えまいとして困っている。その気配は、今日の重さの中で、ほんの少しだけ息ができる場所を作った。
「ありがとうございます、オスカー様」
オスカーはほっとしたように頷いた。
ヴィクトルは、最後にエレオノーラを見た。何かを言うべきか、言わないほうがよいか、迷っているのが分かった。先ほどまで十分に言葉を置いたから、ここでまた言えばしつこいかもしれない。けれど、何も言わずに去れば、先ほどの言葉が宙に残るかもしれない。そう考えているようだった。
結局、彼は少しだけ近づき、声を低くした。
「明日、また来る」
オスカーと同じような言葉だった。けれど、ヴィクトルはそこで終わらなかった。
「何かを言わなければと思ったら、言わなくていい。言いたいことがあれば、言っていい。どちらでも、俺は聞く。……うまく返せるかは分からないけれど、聞くことはできる」
エレオノーラは、その言葉を聞いて、胸の中にゆっくり置いた。うまく返せるかは分からない。けれど、聞くことはできる。ヴィクトルは、自分を救えるとは言わなかった。慰められるとも言わなかった。それでも、聞くと言った。聞くことだけならできると、不器用に差し出した。
「はい」
エレオノーラは答えた。今度は、はい、の中に少しだけ意味が入った気がした。何を言うかは分からない。明日、言葉が出るかも分からない。けれど、聞く人がいると知ったことは、胸の端に残った。
アシュベル大公家の一行が退出していく。ギルベルトの重い足音、ヘルミーネの静かな衣擦れ、オスカーの少し小さな歩幅、エルンストの控えた動き。そしてヴィクトルの、最後まで振り返らないようにしながらも、扉の手前で一度だけほんのわずかに歩みが遅れた気配。エレオノーラはそれを見送った。
扉が閉まると、部屋には、ディオール家の残した紙の匂いと、アシュベル家の北方式の香が一緒に残った。王家の香の冷たい甘さとは違う。母の故郷から来た紙と、北方から来た布と香。エレオノーラの前には、まだ開けられないものが増えていた。母の手紙、真珠のブローチ、祈祷書、北方の布、銀の灯火具。そのどれも、今すぐ意味を決めなくてよいと言われた。
祖母が、静かに言った。
「明日は、セシリアを送る日になります」
エレオノーラは、その言葉を聞いた。送る日。母を送る日。喉の奥がまた狭くなったが、今度は、狭くなることを隠そうとしてすぐに言葉を探すことはしなかった。息を吸って、吐いた。ナディアの手がそばにある。父が近くにいる。祖母がいる。別の部屋には、母の兄がいる。明日また来ると言った人たちもいる。
母の死は消えない。明日、母を送っても、母がいないことは変わらない。けれど、母へ続くものがすべて閉じたわけではなかった。母をお母様と呼ぶ自分の記憶。妹と呼ぶラファエルの記憶。従姉として見ていたイネスの記憶。仕えていたルシールの手つき。北方から来た布と、重いものは一人で抱えなくてもよいという不器用な言葉。
エレオノーラは、膝の上で手を重ねた。今朝は真珠のブローチに触れられなかった。母の祈祷書も、まだ開けない。北方の灯火具にも、まだ火は入れない。けれど、置いておくことはできる。壊さず、急がず、今の自分が受け取れるところに、置いておくことはできる。
窓の外の光は、昼を少し過ぎて、柔らかく傾き始めていた。屋敷の中では、明日のための支度がまた静かに動き始める。エレオノーラはその音を聞きながら、母を送る日が近づいていることを、胸の奥で少しずつ受け取っていった。
昨日はまとめて更新できず、できた分から順次更新する形になってしまい申し訳ありませんでした。
本日はいつも通り、1話分をまとめて、できれば3話更新できたらと思います。
次回は13時〜14時頃の投稿を予定しております。




