第十ニ話 言葉のそばで①
王太子殿下の弔問が終わったあとも、屋敷の中の音はすぐには静まらなかった。扉が閉じ、人の足音が遠ざかり、王宮の侍従が残していった気配が廊下の角を曲がって消えても、客間の空気にはまだ、外から来た礼の堅さが残っていた。黒い縁の書状、弔意の花、香の箱、封蝋の跡、使者が通ったあとの床の光。その一つ一つは正しく置かれているのに、エレオノーラの胸の中では、正しく置かれたものほど遠く感じられた。
アレクシスは来てくれた。王妃陛下の許しを得て、王太子として、そして自分の婚約者として、この屋敷まで来てくれた。名前を呼んでくれた。母のことを話してくれた。リュシアンのことも、自分のことも、励まそうとしてくれた。それなのに、扉が閉じたあと、胸の奥に残ったものは、来てくれた嬉しさだけではなかった。言葉が届かないということは、叫ばれることでも、拒まれることでもなく、こんなふうに静かに胸の底へ沈むものなのだと、エレオノーラは初めて知った。
その日は、夕方が近づいても終わらなかった。弔問の書状は続き、王都の家々からの使者は、黒い手袋をはめた手で花や香や書簡を差し出した。父は必要なところで礼を返し、祖母は返礼の順を確認し、ローレンは出入りする者の名を静かに整えた。エレオノーラはすべてに立ち会ったわけではなかったが、呼ばれれば立ち、礼をとり、座ることを許されれば座った。母の死が、屋敷の外へ出て、家名と書状と弔意になって戻ってくる。そのたびに、エレオノーラは、母がもうこの家の中だけの人ではなくなったように感じた。
夜になっても、屋敷は完全には眠らなかった。弔いの支度をするための足音は絨毯の上で抑えられ、廊下の灯りは低くされていたが、どこかの部屋ではまだ筆が動き、どこかの扉の前では使用人が交代していた。ナディアに支えられて自室へ戻ったとき、エレオノーラは、今日が一日であったことを不思議に思った。母のいない朝から始まり、王家の使者が来て、アレクシスが来て、いくつもの家から弔意が届き、夕方にはアシュベル大公家とディオール家がこちらへ向かっていると知らされた。けれど、体の奥では、まだ母の手を握ったあの夜明け前から、少しも離れていない気がした。
眠ったのか、目を閉じていただけなのか、エレオノーラには分からなかった。窓の外が薄く明るくなり、侍女が火を整える小さな音が聞こえたとき、体は寝台の上にあったが、胸の中は昨日の客間に置いたままだった。ナディアはいつもよりずっと静かに入ってきた。朝の挨拶をして、カーテンを少しだけ開け、光が直接顔にかからないように布を寄せる。その動きは普段と同じであるはずなのに、黒い喪服が椅子の背にかけられているだけで、部屋の中の意味が変わっていた。
「お嬢様、お支度を始めてもよろしゅうございますか」
ナディアの声に、エレオノーラは頷いた。声を出す前に喉の奥が動き、言葉が引っかかるのを感じたからだった。寝台から足を下ろすと、床の冷たさが薄い靴下の下から伝わってくる。昨日、水を飲んだときの冷たさを思い出した。王家の使者が来たあと、アレクシスの弔問の前に、ナディアが小さな杯へ水を注いでくれた。あのとき喉を通った水は、体の中へ入ったはずなのに、胸の奥で止まったように思えた。今も、その場所に何かが残っている。
支度は、いつものように急がされなかった。ナディアは髪を梳き、黒いリボンを選び、喪のための淡い白を襟元に添えた。ドレスは重くはなかったが、色が光を吸うようで、袖を通すと腕の動きまで少し静かになった。鏡の中に映った自分は、昨日より背が伸びたわけでも、顔が変わったわけでもないのに、どこか遠く見えた。七歳の体に、喪服と家名と弔問を受ける役目が重なっている。その重なりが、鏡の中でうまく合わず、エレオノーラはしばらく自分の顔を見つめた。
ナディアが小さな箱を卓の上へ置いた。祖母から渡された、母の真珠のブローチが入っている箱だった。昨日は、受け取っただけで開けることも、触れることも難しかった。今朝、箱の蓋は閉じられている。閉じられているのに、そこに母の手の形が残っているようで、エレオノーラはすぐには目を離せなかった。
「おつけになりますか」
ナディアは尋ねたが、答えを急がせる声ではなかった。エレオノーラは箱へ手を伸ばしかけ、指先が蓋に触れる前に止めた。母のものを身につければ、母に近づけるのだろうか。母がもうこの部屋へ戻らないことを、祖母は昨日、静かに言った。真珠を胸元につけても、母の手が戻るわけではない。けれど、つけなければ、母から受け取ったものを避けているようにも思えた。そのどちらも、今のエレオノーラには選びきれなかった。
「今日は、まだ」
そう言うと、ナディアは小さく頷き、箱を元の位置に戻した。
「かしこまりました」
それだけだった。つけたほうがよいとも、つけなくてよいとも言わなかった。その沈黙がありがたくて、エレオノーラは少し息を吸った。窓の外では、前庭へ向かう使用人の足音が増えている。馬車を迎えるための準備だろう。昨日ローレンが告げた言葉が戻ってきた。アルテンブルクのディオール家。ラファエル様ご一行。母の兄。母の故郷から来る人。
母の兄、と頭の中で言ってみても、その言葉はすぐには形にならなかった。エレオノーラにとって、母は母だった。セシリア・ヴァルクレスト公爵夫人であり、父の妻であり、自分とリュシアンの母だった。けれど、ラファエルという人にとって、母は妹だったのだ。妹、と呼ばれる母を、エレオノーラはまだ知らない。母が誰かの妹であったことは当然なのに、その当然が、母の死のあとで初めて扉の向こうから立ち上がってくるようだった。
支度を終えて廊下へ出ると、屋敷の空気は昨日よりさらに整えられていた。弔いの香は奥の部屋のほうからも、客間のほうからも薄く流れている。花の白は増え、黒い布で覆われた台の上には、届いた書状が家ごとに分けられていた。使用人たちは皆、声を低くして動いていたが、その低さの中にも昨日とは違う緊張があった。王都の貴族家の使者とは違う。今日は、母の実家の者が来る。隣国から、母をセシリアと呼ぶ人たちが来る。
祖母の部屋へ入ると、父と祖母はすでに支度を整えていた。父は黒の礼服を着ていたが、襟元の白が昨日よりも硬く見えた。祖母は濃い喪の色をまとい、扇は手にしていなかった。扇を持たない手が膝の上に置かれているだけで、祖母の周りの空気は普段よりも動かない。エレオノーラが礼をとると、父はいつものように短く頷いたが、その目が一度だけ真珠の箱を探すようにエレオノーラの胸元へ向いた。そこに何もないことを見て、父は何も言わなかった。
「ディオール家の一行は、先ほど外門を通ったそうです」
祖母が言った。
「ラファエル殿は、セシリアの兄です。あなたにとっては伯父にあたります。イネス殿もご一緒です。セシリアより少し年上の従姉で、幼いころから近くにいた方です。それから、セシリアが娘のころに仕えていた侍女、ルシールも」
兄。従姉。侍女。祖母の声の中で並んだそれらの言葉は、まだエレオノーラの中で人の姿にならなかった。ただ、母をお母様と呼ぶ前から、別の名で、別の距離から見ていた人たちが、この家の門をくぐったのだと分かった。
「長い道を急がれたはずです。まずは正式に弔意を受け、その後は控えの部屋へお通しします」
エレオノーラは頷いた。伯父。そう言われても、まだ呼び方が胸に落ちてこない。王太子殿下やアシュベル大公閣下のように、礼の中で位置が分かる名ではなく、もっと内側にあるはずの名なのに、自分の中にはその人と過ごした時間がほとんどない。母が生きていれば、きっと隣で教えてくれたのだろう。この方は私の兄ですよ、と。あなたの伯父にあたる人です、と。母の声でそう言われれば、エレオノーラはもっと簡単に受け取れたのかもしれなかった。
ローレンが扉の外から静かに入ってきた。黒い家令服の襟元はいつも通り乱れず、礼も深く、声も低かったが、その低さの中に、普段より少しだけ慎重な響きがあった。
「旦那様、大奥様。アルテンブルク、ディオール家より、ラファエル・ディオール様、イネス・ディオール様がご到着でございます。セシリア様にお仕えしていたルシールも、随行しております」
父が立ち上がり、祖母も立った。エレオノーラもナディアに支えられながら立つ。膝が少し重かったが、昨日ほど揺れなかった。揺れなかったのではなく、揺れを感じるより先に、扉の向こうから来る人の気配を聞こうとしていたのかもしれない。
客間へ移る道は、昨日アレクシスを迎えたときと同じ廊下だった。けれど、足を進めるたびに、昨日とは違うものが近づいてくる。王宮の磨かれた石の匂いではなく、遠い道を通ってきた外套の冷たさ、馬車の革、封じられた書状の紙、少しだけ違う香料の気配。エレオノーラは母がアルテンブルクから嫁いできた日のことを知らない。けれど今、同じ国から来た人々がこの屋敷へ入ってくると思うと、母の過去が馬車の車輪の音を持って近づいているように思えた。
客間の扉が開かれた。先に立っていたのは、背の高い男だった。淡い金茶の髪は母の髪より少し濃く、朝の光を受けると古い蜂蜜のように見えた。瞳は灰緑色で、相手を見るときに急がない。顔立ちは整っていたが、母のような柔らかさではなく、言葉を最後まで聞くために静かに立っている人の顔だった。細身で、礼服の肩は過度に広くない。けれど、部屋へ入ってくる動きには無駄がなく、長い道を急いできた人の疲れを表に出さない強さがあった。
その後ろに、落ち着いた貴婦人が続いた。濃い栗色の髪をきちんとまとめ、淡い緑の瞳を伏せて礼をとる。衣装は喪の色に整えられていたが、布地の質と細かな刺繍が、遠い国の家の重みを静かに伝えていた。さらにその少し後ろに、年長の侍女が控えている。灰色の混じった茶髪を低くまとめ、薄茶の瞳を持つその人は、派手なところのない顔立ちだったが、手袋をはめた手を重ねる動きがとても丁寧だった。古い布や手紙を扱うような、物の記憶を壊さない手つきだった。
ラファエル・ディオールは、まず父へ深く礼をとった。
「ヴァルクレスト公爵閣下。突然の訃報に接し、アルテンブルク、ディオール家を代表して、心よりお悔やみ申し上げます」
声は低すぎず、高すぎず、丁寧だった。王宮の使者のように整えられているのに、どこか違った。言葉が先に来るのではなく、その奥にあるものを落とさないために、言葉を選んでいるように聞こえた。父は礼を受け、静かに返した。
「遠路を急がせてしまいました。セシリアのためにお越しくださったこと、ヴァルクレスト家として深く感謝いたします」
ラファエルは、父の言葉を聞いてから、ほんのわずかに息を置いた。その間に、部屋の中の香が少し濃く感じられた。
「妹を、この家で大切にしてくださったこと、兄としても御礼申し上げます」
妹、という言葉が部屋の中に置かれた。
エレオノーラは、その一語を聞いた瞬間、胸の奥が小さく痛むのを感じた。母を、妹と呼ぶ人がいる。母は、自分がお母様と呼ぶ前から、誰かにそう呼ばれていた。母の手の温かさ、母の私室の薄い青緑の布、母が微笑むときの目元、真珠のブローチ、リュシアンを怖がらないでと言った声。そのすべてが、エレオノーラの知っている母だった。けれど、ラファエルの「妹」という言葉の中には、エレオノーラが見たことのないセシリアがいた。自分が知らないころの母。王国へ嫁ぐ前の母。別の国で、別の廊下を歩き、別の窓の光を受けていた母。
知らない母がいたことは、当たり前のはずだった。けれど、その当たり前は、今のエレオノーラには少し残酷だった。母を失ったばかりなのに、まだ知らなかった母まで目の前に現れて、もう一度遠くへ行ってしまうようだった。
祖母がラファエルへ礼を返した。
「セシリアは、この家の者に多くを残しました。お越しくださったこと、あの子も喜んだでしょう」
あの子、と祖母が言った。祖母にとって母は嫁であり、家の奥方であり、同時にあの子でもあったのだろう。母は、いくつもの呼び名の中にいた。エレオノーラは、その呼び名の多さに息を詰めた。お母様。セシリア。奥方様。妹。あの子。どの名も母を指しているのに、どれも少しずつ違う場所から母を見ている。
ラファエルの視線が、やがてエレオノーラへ向いた。急に見られたわけではなかった。父と祖母への礼を終え、場の順を守り、それから初めて、姪を見ることを自分に許したような目だった。灰緑の瞳がエレオノーラの顔に止まる。その瞬間、彼の表情が崩れたわけではない。けれど、ほんの少しだけ、何かが奥で揺れた。エレオノーラは、自分の髪の色を思った。母と似た色。真珠の箱を身につけなかった胸元。礼をとろうとする手。
ラファエルは一歩近づきすぎなかった。近づきたい気持ちを持ったまま、その場に留まったように見えた。エレオノーラは、公爵令嬢として礼をとった。
「ラファエル様。遠いところを、お越しくださいまして、ありがとうございます」
声は思ったより細くなった。伯父上、と呼ぶべきなのか迷ったが、口に出せなかった。自分の中にまだその呼び方の時間がないのに、弔いの場で急に親しさを装うことができなかった。
ラファエルは、その迷いを責める顔をしなかった。
「エレオノーラ様」
彼は静かに名を呼んだ。様をつけた。姪であっても、まずこの家の令嬢として扱う呼び方だった。近づきすぎず、遠ざけすぎもしない、その距離にエレオノーラは少しだけ息をした。
「道中、あなたに何を申し上げればよいのか、ずっと考えておりました」
ラファエルはそう言って、短く目を伏せた。
「けれど、母を亡くした娘に、兄である私がすぐに渡せる言葉は多くありません。慰めになる言葉を持っているふりは、したくありませんでした」
エレオノーラは、返事を忘れた。
昨日、アレクシスは来てくれた。励まそうとしてくれた。しっかりしている、母も安心している、王宮へ戻る日を待っていると、未来へ向けた言葉を置こうとしてくれた。その気持ちは嬉しかった。けれど、その言葉は、エレオノーラのいる場所まで届かなかった。ラファエルは今、届く言葉を持っていると言わなかった。慰められるとは言わなかった。そのことが、かえって胸の奥へ静かに触れた。
「私は……」
エレオノーラは言いかけたが、何を言おうとしたのか分からなくなった。来てくださって嬉しい、と言えばよいのか。お母様のことを教えてください、と言えばよいのか。母が亡くなりました、と言うには、もう皆が知っている。母は怖いと言いました、と言うには、初めて会う伯父の前で口にするには近すぎた。
ラファエルは待った。急がせなかった。母のように待つのではない。母とは違う待ち方だった。外交の場で相手の言葉を最後まで聞く人のように、けれど今だけは、姪が言葉を探す時間を壊さないように待っている。
「お母様は……私のお母様になる前から、ラファエル様の妹でいらしたのですね」
そう言ってから、エレオノーラは自分の言葉に驚いた。もっと整えた礼を言うつもりだった。けれど、胸の中に最初からあったのはそれだったのだと、口に出して初めて分かった。
ラファエルの目が、わずかに細められた。痛みをこらえたようにも、遠いものを見たようにも見えた。
「はい。私にとって、セシリアは妹でした。あなたのお母様である前から、私の妹でした」
その言葉は、母を奪うものではなかった。けれど、母の輪郭を広げるものだった。エレオノーラの中で、母は少し遠くなり、同時に少し深くなった。自分が知らない母を知る人が目の前にいる。そのことは寂しかった。けれど、母がこの屋敷に閉じた記憶だけの人ではなく、遠い国にも確かに愛されていた人だと分かることは、寂しさだけではなかった。
イネスが静かに一歩進み、礼をとった。
「エレオノーラ様。イネス・ディオールと申します。セシリア様とは従姉でございました。幼いころから互いの家を行き来しておりましたので、王国へ嫁がれる前のお姿も、よく覚えております」
母代わりに近づく声ではなかった。落ち着いた貴婦人として、距離を守りながら、それでもセシリアを知っている者として来ている声だった。エレオノーラが礼を返すと、イネスは少しだけ表情を和らげた。
「セシリア様から、あなたがお生まれになった知らせをいただいた日のことを覚えております。手紙の文字が、いつもより少し傾いておりました。疲れていらしたのでしょうに、最後まで丁寧に書こうとなさっていて、けれど封の端に、ほんの小さな墨の滲みがございました」
エレオノーラは、思わず顔を上げた。母が、自分が生まれたことを隣国へ書いた手紙。自分の知らないところで、自分の誕生が紙になり、遠い国へ届いていた。母の文字が少し傾き、封の端に墨が滲んでいた。そんな小さなことを、イネスは覚えている。
「母は、何と書いていたのですか」
尋ねてから、失礼だったかもしれないと思った。けれど、イネスは咎めなかった。
「長い手紙ではありませんでした。無事に娘を授かったこと、名をエレオノーラと決めたこと、髪の色が朝の光に透けると不思議な色に見えること。泣く声はまだ細いけれど、指で布を握る力は思ったより強い、とも」
指で布を握る力。エレオノーラは、自分の手を見た。今は黒い袖の上に置かれている手。昨日はリュシアンの布に触れた手。母の熱い手を握った手。自分にも、そんなふうに母に見られていたころがあった。母はリュシアンを見るように、自分を見ていたのだ。小さな指が布を握るのを見て、遠い国へ知らせるほどに覚えていたのだ。
胸の奥が熱くなり、同時に苦しくなった。リュシアンのことを思った。母は、リュシアンの指の力を遠い誰かへ書くことはもうできない。リュシアンがどんなふうに布を握るか、どんな声で泣くか、母は知る時間を奪われた。エレオノーラはそれを思った瞬間、膝に置いた手を強く重ねた。
ルシールが、イネスの少し後ろで目を伏せていた。年長の侍女は、主家の人々が話すあいだ出すぎず、けれどセシリアの名が出るたびに、手袋の指をわずかに合わせ直していた。エレオノーラの視線に気づくと、ルシールは深く礼をとった。
「エレオノーラ様。ルシールと申します。セシリア様がアルテンブルクにいらしたころ、お仕えしておりました」
その声を聞いたとき、エレオノーラは不思議な感覚を覚えた。ナディアが自分をお嬢様と呼ぶように、この人は母を、かつて別の家で見ていたのだ。母が公爵夫人になる前、母と呼ばれる前、若い娘として支度を受け、髪を結われ、衣装を選んでいたころを知っている。
「お母様は……アルテンブルクでは、どんな方でしたか」
問いは自然に出た。聞いてはいけないような気もしたが、聞かなければ、目の前に開いた扉が閉じてしまうようだった。
ルシールはすぐには答えなかった。言葉を選び、ラファエルとイネスのほうを一度見た。二人が静かに頷くと、彼女はエレオノーラへ向き直った。
「よく、窓辺で手紙を書いておいででした。お小さいころから、急いで書くことがお嫌いで、封をする前には必ず、紙の端を指でそっと撫でておられました。王国へお輿入れなさる前の日も、同じようにしておられました」
エレオノーラの頭の中に、若い母の姿が浮かびかけた。けれど、それはまだはっきりした絵にはならなかった。窓辺、手紙、紙の端を撫でる指。母の手。昨夜、熱かった手。リュシアンを怖がらないでと言った手。すべてが重なり、胸の中で少し揺れた。
「その日、怖くはなかったのでしょうか」
エレオノーラはそう聞いてしまった。自分でも、なぜその問いになったのか分からなかった。母は最後に、怖いです、と言った。母にも怖いことがあった。なら、王国へ嫁ぐ前の日も、母は怖かったのだろうか。母はいつも柔らかく微笑んでいたけれど、その微笑みの前に、どんな夜があったのだろうか。
ルシールの目元が、少しだけ細くなった。
「怖くないと、おっしゃいました」
それから、静かに続けた。
「けれど、手袋の縫い目を何度も指でなぞっておいででした。セシリア様は、ご不安なときほど、声を荒らげたりはなさいませんでした。ただ、身につけるものの端を、何度も確かめる癖がおありでした」
エレオノーラは、母の真珠のブローチの箱を思った。今朝、自分は触れられなかった。母も、怖いときに身につけるものを確かめていた。そう思うと、母が遠いだけの人ではなく、同じように手元へ不安を逃がしていた人として、少しだけ近づいた。
「お母様も、怖いことがあったのですね」
声に出すと、喉の奥がまた狭くなった。母は最後に怖いと言った。けれど、それは弱さではなかった。母は怖いまま、自分の顔を見て、リュシアンのことを残した。王国へ嫁ぐ前の日も、怖くないと言いながら手袋の縫い目をなぞって、それでも来たのだ。この家へ来て、父と出会い、自分を産み、リュシアンを産んだ。
ラファエルが静かに言った。
「セシリアは、怖さを持たない人ではありませんでした。怖さを、ほかのものの邪魔にしないよう努める人でした」
その言葉は、エレオノーラの胸の中でゆっくり広がった。しっかりしている、とは違った。強い、でもなかった。怖さを持っていた。その怖さを消すのではなく、ほかのものの邪魔にしないようにしていた。母がリュシアンについて言った「怖いままそばにいてあげなさい」という言葉と、少し遠いところでつながる気がした。
エレオノーラは、初めてラファエルをまっすぐ見た。母に似た髪の色。母とは違う静かな目。妹を失った兄の顔。その人は、自分を慰めきれるとは言わなかった。けれど、母がどんな人だったかを、エレオノーラの知らない場所から少しだけ持ってきてくれた。
「教えてくださって、ありがとうございます」
エレオノーラは礼をとった。今度は膝が少し揺れた。ラファエルの手が、ほんのわずかに動いた。支えようとしたのかもしれない。けれど、彼はすぐには触れなかった。父ではないから。母の代わりではないから。その一瞬のためらいが、エレオノーラには分かった。触れてもらえない寂しさではなく、触れ方を選んでくれているのだと分かる距離だった。
父が低く言った。
「エレオノーラ、座りなさい」
命じるというより、体を見ている声だった。エレオノーラが頷くと、ナディアがそばの椅子へ導いた。ラファエルたちにも席が勧められたが、喪の場であるため長くは崩れない。ローレンが控えめに入ってきて、ディオール家から持参された弔意の品を確認する。黒い布に包まれた箱、アルテンブルク大公妃からの正式な書状、白い刺繍布、そして小さな古い箱が一つ。
ラファエルは、その小さな箱を見たとき、手を伸ばす前に一度止まった。
「これは、今日ここでお渡しすべきか迷いました」
父と祖母が彼を見る。ラファエルは続けた。
「セシリアが王国へ嫁ぐ前、ディオール家に残していった小さな祈祷書です。正式な形見として扱うほど大きなものではありません。ただ、彼女が若いころ、旅の前や大きな式の前に、よく手にしていたものです。今すぐお読みになる必要はありません。エレオノーラ様が、いつか知りたいと思われたときに、母君がこの国へ来る前にも祈り、迷い、支度をしていたことを知る手がかりになればと思い、持参しました」
小さな箱は、エレオノーラの前へ直接置かれなかった。まず父へ、そして祖母へ確認される。公爵家の礼として、その順は必要だった。けれど、箱の中にあるものが、やがて自分へ届くのだとエレオノーラは分かった。母が若いころに手にしていた祈祷書。母の指が触れた紙。母が王国へ来る前に、怖くないと言いながら、本当は何かを胸に抱えていたかもしれない時間。
父は箱を見て、長く黙った。表情は崩れなかったが、机の上に置いた指が一度だけ止まる。昨日、王家の書状を受け取ったときと同じだった。祖母もそれを見たが、やはり何も言わなかった。
「お預かりします」
父は言った。
「いずれ、エレオノーラが受け取れるときに」
ラファエルは頷いた。
「それでお願いいたします」
エレオノーラは、箱を見つめた。今すぐ開けたい気持ちと、今開けたら母の知らない顔が一度に流れ込んできて、自分の中にある母の声が押し流されてしまいそうな怖さがあった。読めるときに読みなさい、と祖母は母の手紙について言った。母の祈祷書も、きっと同じなのだろう。母に近づくものほど、急いではいけない。急いで触れれば、受け取る前に壊してしまう。
イネスが、エレオノーラの様子を見て、静かに言った。
「セシリア様は、急いで開けることを好まれませんでした。封も、箱も、贈り物も、まず手で確かめて、それから開ける方でした」
エレオノーラは、その言葉に少しだけ頷いた。母の手が戻ってきたわけではない。けれど、母の手の動きを覚えている人がいる。母がどんなふうに箱を開けたか、どんなふうに封を撫でたか、そういう小さなことを覚えている人がいる。そのことが、胸の中で痛みと一緒に温かく残った。
しばらくして、ローレンがラファエルたちを控えの部屋へ案内することになった。長旅のあとであり、正式な弔意を終えたばかりでもあった。葬儀の細かなことは父と祖母が改めて話す。エレオノーラは立ち上がろうとしたが、父の視線がそれを止めた。今は座ったままでよいという合図だった。けれど、ラファエルが退出する前に、エレオノーラはどうしても一つだけ言わなければならない気がした。
「ラファエル様」
呼ぶと、彼はすぐに振り返った。
「私は、お母様のことを、まだ少ししか知らなかったのかもしれません」
言った瞬間、胸が痛んだ。少ししか知らなかった、という言葉は、自分が母を足りなく愛していたようにも聞こえたからだった。けれど、ラファエルはそう受け取らなかった。
「娘が知る母と、兄が知る妹は、同じ人でも、同じ形ではありません」
彼は静かに言った。
「あなたが知っているセシリアを、私たちは知りません。私たちが知っているセシリアを、あなたはこれから少しずつ知ることができます。どちらかが足りないのではありません。どちらも、彼女です」
エレオノーラは、その言葉をすぐには返せなかった。母がいくつもの呼び名を持っていたこと。自分の知らない母がいたこと。けれど、自分が知っている母も、少なくない母だったこと。その全部を一度に受け取るには、胸の中がまだ狭かった。
「……はい」
ようやくそう返すと、ラファエルは初めて、ほんの少しだけ表情を和らげた。笑みというほど明るくはない。けれど、姪の言葉を受け取った人の顔だった。
「いつか、セシリアの話をいたしましょう。今日でなくてもよいのです。あなたが聞けるときに」
今日でなくてもよい。その言葉は、エレオノーラの体から少しだけ力を抜いた。今すぐ母を全部知らなくてもよい。今すぐ泣かなくても、今すぐ強くならなくても、今すぐ祈祷書を開かなくてもよい。母の故郷から来た人たちは、母の知らない顔を一度に押しつけるために来たのではなく、これから先、母へ続く扉がまだ閉じていないことを知らせに来たのだ。
ラファエル、イネス、ルシールがローレンに導かれて客間を出ていく。扉の向こうへ消える前、ルシールが一度だけエレオノーラを見た。その目には、母を幼いころから見ていた侍女の静かな痛みがあった。エレオノーラは、母がこの人に髪を梳かれていた日を想像しようとした。まだうまく見えなかった。けれど、いつか見えるかもしれないと思った。
扉が閉じると、部屋の中には弔いの香と、遠い国から持ち込まれたわずかに違う紙の匂いが残った。王家の香とは違う。昨日のアレクシスの言葉とも違う。母の故郷から来た匂いだった。
エレオノーラは、父の手元に置かれた小さな箱を見た。まだ開かれていない。母の祈祷書は、その中で静かに待っている。祖母から受け取った手紙も、真珠のブローチも、まだすべてを受け取れたわけではない。けれど今、母は少しだけ、奥の部屋で亡くなった人だけではなくなっていた。王国へ嫁ぐ前、手袋の縫い目をなぞり、封の端を撫で、怖くないと言いながら遠い国へ来た人でもあった。
母をもう一度失ったような痛みがあった。自分の知らない母がいたことは、やはり寂しかった。けれど、その寂しさの中に、母を少し返されたような感覚もあった。母は消えてしまったのではなく、いくつもの人の記憶の中に、違う呼び名で残っている。エレオノーラはそのことを、すぐ慰めとは呼べなかった。ただ、昨日アレクシスの言葉が届かなかった場所とは別のところに、ラファエルの言葉と、イネスの手紙の記憶と、ルシールの手袋の縫い目の話が、静かに置かれているのを感じた。
窓の外で、馬車の音ではない別の音が遠くから近づいてきた。屋敷の者が動く気配が、廊下の向こうでまた変わる。エレオノーラは顔を上げた。まだ一日は終わっていない。母の故郷から来た人たちの足音が部屋の奥へ案内されたあと、今度は別の人々が、この屋敷へ近づいているのだと分かった。
母の死は、また別の扉を開こうとしていた。エレオノーラは膝の上で手を重ねたまま、その音を聞いた。今朝、真珠のブローチには触れられなかった。母の祈祷書も、まだ開けない。けれど、母へ続くものは、すべて閉じてしまったわけではなかった。そのことだけを、エレオノーラは遠い足音の中で、ゆっくり胸の奥へ置いた。




