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婚約破棄された悪役令嬢は、白銀の大公に最愛を捧げられる  作者: ごゅみ
第一部 婚約破棄

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第十一話 同じ手に残るもの⑤

「エレオノーラ」


アレクシスが、もう一度名を呼んだ。今度は王太子としてではなく、少しだけいつもの彼に近い声だった。


「君は……その、しっかりしているから。きっと、セシリア夫人も安心しておられると思う。リュシアンも生まれたばかりだし、君がそばにいてあげたら、きっと」


その言葉を聞いた瞬間、エレオノーラは、自分の手が膝の上で動かなくなるのを感じた。しっかりしている。母も安心している。リュシアンがいる。君がそばにいてあげたら。どれも悪い言葉ではなかった。アレクシスは励まそうとしている。悲しみから少しでも前を向かせようとしている。それは分かった。分かったのに、胸の奥で何かが薄く軋んだ。


母は、本当にそう思っているのだろうか。母は怖いと言った。自分の顔を見ると少し息ができると言った。リュシアンを怖がらないでと言った。エレオノーラがしっかりしているから大丈夫だとは、言わなかった。怖いままそばにいてあげなさいと言ったのだ。しっかりしなさいではなく、怖いまま、と言った。その違いを、どう伝えればよいのか分からなかった。


エレオノーラは、アレクシスを見た。彼の青い瞳はまっすぐで、不安そうで、返事を待っていた。彼は本当に、エレオノーラを傷つけようとしていなかった。だからこそ、エレオノーラは言えなかった。その言葉は違います、とも、今はしっかりしたくありません、とも、母は安心しているかどうか分かりません、とも言えなかった。アレクシスが来てくれたことを、傷つけたくなかった。


「……リュシアンは、まだ小さくて」


エレオノーラは、それだけ言った。自分でも、なぜその言葉を選んだのか分からなかった。けれど、リュシアンの重さがまだ腕に残っていた。小さくて、軽くて、泣いていて、ただ誰かの腕を必要としていた弟。そのことだけは、今のエレオノーラにも言えた。


アレクシスは少し表情を明るくしようとした。


「うん。公爵家のご子息だものね。まだ、生まれたばかりで……」


そこまで言って、彼はまた止まった。今それを言うのがよいことか分からなくなったのだろう。エレオノーラはその止まった言葉を見て、アレクシスも迷っているのだと分かった。迷っているのに、彼の迷いは、自分がいま立っている場所までは来ない。彼は外側で正しい道を探している。エレオノーラはその内側で、まだ母の手の熱を持っている。


「怖かったら、怖いままそばにいてあげなさいと、お母様はおっしゃいました」


気づくと、エレオノーラはそう言っていた。声は大きくなかった。けれど、部屋の中にいた父と祖母が、わずかにこちらを見たのが分かった。アレクシスも瞬きをした。


「怖いまま……?」


「はい」


エレオノーラは頷いた。これ以上説明できるか分からなかった。けれど、言ってしまった以上、途中で止めるほうが苦しかった。


「私は、リュシアンを抱くのが怖かったです。でも、怖くないふりをして抱くのではなく、怖いままそばにいてよいのだと、お母様が……」


最後まで言う前に、喉が詰まった。母が、と言っただけで、奥の部屋の扉がまた背中に戻ってきたようだった。ナディアがそばで動いたが、エレオノーラは首を振らなかった。崩れたくないのではなく、今ここで崩れたら、母の言葉を最後まで言えなくなる気がした。


アレクシスは、真剣に聞いていた。けれど、聞いた言葉をどう受け止めればよいのか、分からない顔をしていた。


「でも、君は、ちゃんと抱いたのだろう?」


彼はそう言った。悪意のない、ほっとさせようとする声だった。


「それなら、君は強い。ぼくなら、そんなふうにはできないかもしれない。君は、きちんと立とうとしている」


強い。きちんと立とうとしている。エレオノーラは、胸の中でその言葉が静かに沈んでいくのを感じた。アレクシスは褒めている。自分を励ましている。自分が崩れないように、よいところを見つけてくれている。そう分かるのに、その言葉は、母が残した「怖いまま」とは違う場所へ落ちた。


怖かったから抱いたのではない。強かったから抱いたのでもない。怖いままでも抱かなければ、リュシアンは泣いたままだった。母がそう言ったから。母がもう抱けないから。自分が姉だからというより、リュシアンがただそこに生きていたから。けれど、その順番をアレクシスに伝えるには、エレオノーラの中にまだ言葉が足りなかった。


「ありがとうございます、殿下」


エレオノーラは、礼を言った。言わなければならないと思った。アレクシスの言葉を拒んではいけないとも思った。けれど、礼を言ったあと、胸の中に小さな空白が残った。来てくれたことをありがたいと思う気持ちも本当だった。名前を呼んでくれたことも、母のことを話してくれたことも、励まそうとしてくれたことも、全部嘘ではない。なのに、届かなかった。届かないということが、こんなに静かに痛むものだと、エレオノーラは初めて知った。


アレクシスは、その礼に安心したように少し息をついた。彼はきっと、自分の言葉がエレオノーラを少し助けたと思ったのだろう。その表情を見て、エレオノーラは、胸の空白を隠すように手を重ね直した。ここで違うと言えば、アレクシスは傷つく。来てくれたのに、慰めようとしてくれたのに、自分がそれを壊すことになる。そう思うと、言葉は喉で止まった。


父が静かに口を開いた。


「殿下、お越しいただいたこと、改めて御礼申し上げます。長くお引き留めする場ではございません。王妃陛下にも、ヴァルクレスト家より深く御礼をお伝えください」


アレクシスは、まだ何か言いたそうだった。けれど、父の言葉が弔問の終わりを示していることは分かったのだろう。王宮侍従も一歩控えた位置で、退出の頃合いを見ていた。アレクシスは小さく頷き、もう一度礼をとった。


「はい。母上に伝えます。エレオノーラ……」


そこでまた、彼は言葉を探した。何かを言おうとしている。最後に、彼自身の言葉を置こうとしている。エレオノーラは待った。待ちながら、少しだけ期待してしまった。来てくれたのだから。今度こそ、自分の胸の奥に触れる言葉が来るかもしれないと、思ってしまった。


「また、王宮で会える日を待っている。無理はしないでほしい。でも、君が戻ってきたら、母上もきっと安心なさると思う」


その言葉は、未来へ向いていた。王宮へ戻る日。王妃が安心する日。エレオノーラがまた、王太子の婚約者として席に着く日。アレクシスは、そこへつなげようとしてくれているのだろう。悲しみの中に留めないように、次の場所を示してくれているのだろう。けれど、エレオノーラはまだ、奥の部屋の扉を背中に感じていた。リュシアンの重さを腕に残していた。母の手紙をまだ読めずにいた。王宮へ戻る日を考えるには、今朝の光さえ遠すぎた。


「はい」


それでも、エレオノーラは返事をした。返事をしなければ、アレクシスが困ると思った。自分も困ると思った。だから、はい、と言った。その一音の中には、まだ戻れるか分からないことも、母がもういないことも、リュシアンの泣き声が耳に残っていることも、自分が強いわけではないことも、何ひとつ入らなかった。


アレクシスは退出した。王宮侍従が続き、ローレンが静かに見送る。扉が閉まるまで、エレオノーラは礼の姿勢を保っていた。扉が閉じたあと、ナディアの手がそっと近づいた。エレオノーラはその手を見て、初めて自分の指が冷たくなっていることに気づいた。


来てくれた。アレクシスは確かに来てくれた。王妃陛下の許しを得て、黒い礼服を着て、正しい弔問の言葉を持って、この屋敷へ来てくれた。それは嬉しかった。嬉しかったことを、なかったことにはしたくなかった。けれど、その嬉しさの下に、言葉が届かなかった痛みが薄く残っている。エレオノーラは、その二つをどちらか一つにできなかった。


祖母が、何も言わずにエレオノーラを見ていた。父もまた、アレクシスが出ていった扉を見たあと、すぐには言葉を置かなかった。責める言葉はなかった。慰める言葉もなかった。その沈黙が、エレオノーラには少しありがたかった。誰かに今の気持ちを聞かれても、答えられなかったからだ。


弔問は、そのあとも続いた。王都の貴族家からの使者が、次々に書状や花を届けた。直接来る者もいれば、まず使者だけを出す家もあった。ローレンは出入りの順を整え、祖母はどの家へどの返礼をするかを確認し、父は必要なところで言葉を返した。エレオノーラはすべての場に立ったわけではない。何度か控え、何度か礼をとり、何度か座ったまま聞いた。人の名と家名と弔意の言葉が、布の上に降る小さな音のように重なっていった。


夕方に近づくころ、光は朝よりも柔らかくなっていた。庭の木々の影が伸び、廊下の端に置かれた花の白が、昼よりも静かに見えた。エレオノーラは、何度目かの弔意を受けたあと、祖母の部屋へ戻った。机の上の書状は朝よりも減っていたが、代わりに届いた書状が積まれている。母の死は、外へ出て、また紙と言葉になって戻ってきていた。


ローレンが新しい報告を持って入ってきた。礼をとり、まず父へ、次に祖母へ目を向ける。


「アシュベル大公家より、明日、大公閣下ご一家がお越しになるとの先触れがございました。あわせて、アルテンブルクのディオール家からも、国境へ向けて使者が発っております。ラファエル様ご一行は、最短の道を取られるとのことでございます」


アシュベル大公家。ディオール家。朝、宛名として聞いた名が、今度は実際にこちらへ向かっている人々の名になった。エレオノーラは、疲れた体の奥で、その二つの名を受け取った。母の故郷から来る人。北方から来る人。母の死は、また別の場所から人を呼び、この屋敷へ連れてくる。


アレクシスは来てくれた。けれど、言葉は届かなかった。明日来る人たちは、何を持ってくるのだろう。エレオノーラには分からなかった。ただ、屋敷の外へ広がった母の死が、今度は人の足音になって戻ってくるのだと、夕方の薄い光の中で思った。母のいない朝から始まった一日は、まだ終わっていなかった。悲しみは小さくなるのではなく、形を変えながら、次に開かれる扉の前まで来ていた。

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