第十一話 同じ手に残るもの④
王家から届けられた香は、使者が退出したあともしばらく祖母の部屋に残っていた。香炉に移されたものではなく、箱の蓋が開かれ、花と書状のそばに置かれただけのものだったのに、屋敷で焚かれているものとは違う、よく整えられた冷たい甘さがあった。エレオノーラは椅子の縁に置いた手を動かせず、その匂いが布や紙や封蝋の上にゆっくり沈んでいくのを感じていた。母のいた奥の部屋には、昨日まで薬湯の匂いがあった。今はそこにも香が運ばれているはずで、母の息を探していた場所が、母を悼むための匂いに包まれていくことを思うと、喉の奥がまた少し狭くなった。
王妃の言葉は正しかった。使者の礼も、運ばれてきた花も、書状の黒い縁も、どれも欠けていなかった。けれど、正しいものが届いたあとで、エレオノーラの胸にはまだ小さな問いが残っていた。アレクシスは来てくれるのだろうか。来るとしても、それは王太子殿下としてなのか、自分の隣に席を持つ人としてなのか、その違いをエレオノーラはまだうまく分けられなかった。ただ、王宮から弔意が届いたのなら、王妃陛下にも自分のことは伝わっているはずで、王太子殿下にも母の死が伝えられているはずだった。そう考えると、待ってはいけないと分かっていても、耳が廊下のほうへ向いてしまう。
父は、王家からの書状を受け取ったあと、すぐに私的な感情を表には出さなかった。封を確かめ、ローレンに短く指示を出し、王宮への返礼の文面について祖母と二、三言を交わした。けれど、机の上に置いた指が一度だけ動かなくなったのを、エレオノーラは見た。父はそのまま何も言わなかった。祖母もそれを見たが、指摘しなかった。部屋の中では、弔いのための仕事が途切れずに進んでいる。書記役の使用人が控えめな音で筆を動かし、ローレンが宛先の順を確認し、侍女が王家から届いた花をどこへ置くかを尋ねに来る。そのすべてが、母のいない朝を、弔いの日の朝へ少しずつ変えていった。
エレオノーラは、祖母に促されて一度部屋を出た。ずっと座って聞いていればよいというものではなく、弔意を受けるたびに立ち、礼を返し、また座るには、今の体はまだ幼く、昨夜からの疲れも残っていた。ナディアに支えられて廊下へ戻ると、朝の光は少し角度を変えていた。床に伸びていた細い光は、窓枠の形を保ったまま横へずれていて、それだけのことで時間が進んだのだと分かった。エレオノーラは、その光の動きを見ながら、母がいないまま時間が進むことに、まだ慣れられなかった。
「少し、お水を召し上がりますか」
ナディアが低く尋ねた。エレオノーラはすぐには頷けなかった。喉は乾いていたが、水を飲むために口を開けば、そこから何か別のものまでこぼれてしまいそうだった。けれど、ナディアは返事を急がせなかった。手に持っていた布を整え、近くの小さな卓に置かれた水差しへ目をやる。昨日の夜、ナディアが水差しを替えに来たことを、エレオノーラは思い出した。眠れない夜、薬の匂いが違うと口にしたこと。神殿の施療師が本日の夕刻を過ぎてから来たと聞いたこと。あのときはまだ、母がこの朝には目を覚まさないとは知らなかった。
「少しだけ」
エレオノーラがそう言うと、ナディアは小さな杯に水を注いだ。杯を両手で受け取ると、指先に冷たさが広がった。水を飲むと、その冷たさが喉を通り、胸のあたりで止まったように感じた。体は水を受け取っているのに、心はまだ何も受け取れないままだった。ナディアは杯を戻すと、エレオノーラの顔を見た。何かを言いたそうに見えたが、言わなかった。侍女として言えることと、言わずにそばにいることの間で、ナディアもまた選んでいるのだと、エレオノーラはぼんやり思った。
しばらくして、屋敷の前庭のほうから、先ほどとは違う馬車の音がした。王家の使者が来たときのように重く整えられた音ではあったが、もっと軽く、馬の蹄も、先ほどよりわずかに軽く聞こえた。廊下を行き来していた使用人たちの動きが、一瞬だけ変わった。早足になるのではなく、互いに視線を交わし、誰がどこへ控えるかを音を立てずに決める動きだった。エレオノーラは杯を戻した手を膝の上で重ねた。なぜか、胸の奥で小さなものが持ち上がる。期待してはいけない、と思う前に、耳がもう前庭の音を追っていた。
ローレンが廊下の向こうから姿を見せた。先ほどよりもさらに声を低くし、ナディアへ一度目を向けてから、エレオノーラの前で礼をとる。
「お嬢様。王太子殿下がお越しでございます。王妃陛下のお許しを得て、短く弔問なさりたいとのお申し出でございます」
エレオノーラは、返事をしようとして、息を吸ったまま止まった。来てくださった。最初に胸へ落ちてきたのは、その一つだった。王妃陛下の許しが要ることも、王太子としての礼があることも、父が言っていた。こちらから求めることではないとも分かっていた。それでも、アレクシスは来た。母が亡くなったと聞いて、来てくれた。その事実だけで、胸の奥にあった固いものがほんの少し緩みそうになった。
けれど、緩む前に別のものも上がってきた。どう迎えればよいのだろう。王太子殿下としてお迎えするべきなのか、婚約者として来てくれたことに礼を言えばよいのか。自分の顔は整っているだろうか。泣いたあとが残っていないだろうか。母の死を受け取ったばかりの顔で、王太子殿下の前に出てよいのだろうか。問いがいくつも重なり、エレオノーラは膝に置いた手に力を入れた。
「お嬢様」
ナディアがそばで呼んだ。その声で、エレオノーラは自分が返事をしていなかったことに気づいた。
「参ります」
さきほどローレンに答えたときと同じ言葉だったが、今度は胸の中に別の震えがあった。ナディアが立ち上がる手を支え、ローレンが先に立つ。祖母の部屋へ戻るのではなく、弔問のために整えられた客間へ向かうことになった。廊下を歩くあいだ、エレオノーラは奥の部屋の扉のほうを見ないようにした。アレクシスが来てくれたと知ったあとで、母の部屋の前に立ち止まれば、自分が何を望んでいるのか分からなくなりそうだった。
客間の手前には、王宮侍従がひとり控えていた。彼は深く礼をとり、ローレンへ短く言葉を渡すと、静かに扉の内側へ戻った。黒を基調とした礼装に、王家の小さな印が見える。声は低く整っていたが、屋敷の中の喪の空気を乱さないよう、いつもよりさらに抑えられている。エレオノーラはその横を通り過ぎるとき、王宮の匂いが少ししたように思った。磨かれた石の廊下、白薔薇の間、南庭、王妃の小書斎。母が生きていたころの王宮が、ほんの一瞬だけ遠くから近づいてきた。
客間に入ると、アレクシスはすでに立っていた。黒を取り入れた王子用の礼服を着て、いつもの白と青と金の明るさを抑えられている。明るい金髪はきちんと整えられていたが、その色だけが部屋の中で少し浮いて見えた。彼の顔には、いつものすぐ笑いかける華やかさがなかった。笑わないようにしているのではなく、笑ってよい場ではないことを、彼なりに全身で受け取っているようだった。けれど、その受け取り方はまだ少し硬く、教えられた姿勢を崩さないように立っている子どもの緊張があった。
アレクシスはエレオノーラを見ると、すぐに一歩進みかけた。けれど、横に控えていた王宮侍従がほんのわずかに目を伏せると、彼は足を止めた。その動きだけで、エレオノーラは、アレクシスも自分の思ったままには動けないのだと分かった。王太子殿下として来ている。王妃陛下の許しを得て来ている。彼の一歩にも、礼がついてくる。そう分かるのに、足を止めたことが、なぜか胸の中で小さく冷たく触れた。
「エレオノーラ」
アレクシスの声は、いつもより低かった。名前を呼ばれたことに、エレオノーラの胸は一瞬だけ反応した。来てくれた。名前を呼んでくれた。そこまでは確かに嬉しかった。けれど、彼はすぐに王宮で教えられた弔問の姿勢へ戻り、エレオノーラではなく、先に部屋にいた父と祖母へ向き直った。父はすでに客間に来ており、祖母も近くに座っていた。アレクシスは深く礼をとった。
「ヴァルクレスト公爵、アデライード様。このたびのセシリア夫人のご逝去、心よりお悔やみ申し上げます。王家の一員として、またエレオノーラの婚約者として、ヴァルクレスト家の悲しみに弔意を捧げます」
言葉は正しかった。途切れず、乱れず、王太子として恥ずかしくないように整えられていた。たぶん、王妃から教えられたのだろう。王宮侍従がわずかに息を落としたのが見えた。アレクシスはきちんと言えたのだ。エレオノーラはそのことを分かったし、彼がこの場のために練習したのかもしれないとも思った。式典で古い称号を読み上げたときのことが、遠く重なった。あのときも、アレクシスは言葉を間違えないようにしていた。今日もそうだった。
父は静かに礼を受けた。
「殿下のお心遣い、痛み入ります。王妃陛下のお許しを得てお越しくださったこと、ヴァルクレスト家としてありがたく存じます」
父の言葉は、感情を見せすぎず、しかし冷たくはなかった。祖母も続いて礼を述べた。アレクシスは頷き、それからようやくエレオノーラのほうを見た。青い瞳が、いつもより落ち着かないように揺れている。何かを言いたいのだと分かった。けれど、その何かが彼の中でまだ形になっていないことも、同じくらい分かった。
「エレオノーラ、大丈夫……」
言いかけて、アレクシスは止まった。大丈夫か、と言おうとしたのだろう。けれど、大丈夫なはずがないことに、言葉の途中で気づいたのかもしれない。彼の口元が少し強張った。エレオノーラは、それを見て、来てくれたことへの嬉しさがまた少し胸に戻るのを感じた。アレクシスは何も考えていないわけではない。彼は彼なりに、自分を傷つけない言葉を探そうとしている。
「……来てくださって、ありがとうございます、殿下」
エレオノーラは礼をとった。王太子へ返す礼として整えようとしたが、膝がまた少し揺れた。アレクシスが反射のように手を動かしかける。けれど、やはりその手は途中で止まった。王宮侍従がいる。父も祖母もいる。婚約者とはいえ、王太子がこの場で不用意に触れてよいのか、彼には判断できなかったのだろう。エレオノーラはその手の動きを見てしまった。助けようとしたのかもしれない。けれど、届く前に止まった手だった。
「うん。来たかったんだ」
アレクシスはそう言った。声は少し急いでいた。
「母上から、短くなら、とお許しをいただいた。セシリア夫人には、ぼくも何度もお会いしたし、君の……君の、大切なお母上だから」
大切なお母上。言葉としては間違っていなかった。母は大切だった。大切だったから、今こうして息がしにくい。けれど、アレクシスの声の中でその言葉を聞くと、母の熱い手や、リュシアンを抱いた腕の重さまでは入ってこなかった。エレオノーラは頷いた。頷くことはできた。来てくれてありがとうと思う気持ちも本当だった。けれど、頷いたあとに、胸の奥の寒さが消えなかった。
「お母様は、殿下にもいつも、よくしておられました」
そう言うと、アレクシスの顔に少しだけ安堵が見えた。何か返せる言葉が見つかったように、彼はすぐに続けた。
「うん。とても優しい方だった。王宮でお会いすると、いつも静かに礼をなさっていて、ぼくが言葉に迷ったときも、急がせずに待ってくださった」
アレクシスはそこで言葉を探した。セシリアを褒めようとしているのだと分かった。自分が知っているセシリアの姿を、エレオノーラに返そうとしているのだと分かった。けれど、その母は、王宮で会う公爵夫人の母だった。美しく礼をし、優しく待ってくれる母だった。エレオノーラが昨夜失った母は、熱い手でエレオノーラの指を握り、怖いです、と言い、リュシアンを怖がらないでと息の間から残した母だった。その二人は同じ人なのに、アレクシスの言葉の中では、遠いところで礼服を着て立っているように見えた。
「はい」
エレオノーラはそう返した。ほかに何を言えばよいのか分からなかった。アレクシスは、エレオノーラが短く返したことに少し戸惑ったようだった。いつもなら、彼が何かを言えば、エレオノーラはもう少し言葉を整えて返していた。足りないところを補ったり、言葉の先を受け取ったりしていた。けれど今は、その力がなかった。母のことを、公爵夫人としてきれいに並べ直すことができなかった。




