第十一話 同じ手に残るもの③
「アシュベル大公家へも知らせを出します」
ローレンの声が続いた。
その名が耳に入ると、エレオノーラは北方の地図が広げられていた王宮の一室を思い出した。紙を押さえる石と、革の匂いと、ヴィクトルが短く置いた言葉。橋、砦、道、薪、薬、冬。あのときは遠い土地のための言葉だったものが、今は母のいた奥の部屋の匂いに触れて、胸の奥で別の重さを持った。
父が、エレオノーラの顔色を見た。
「大公家は、王国の大貴族家だ。弔意を交わすべき家でもある。先の報告でも、薬と記録のことでは言葉を交わした」
薬と記録。その二つの言葉に、エレオノーラは指先を握った。以前、閲覧室で北方の薬草と備蓄の話を聞いたとき、薬は、村や冬や数えることと一緒に置かれていた。忘れた家には何も届かないのだと、ヴィクトルは言った。けれど今、同じ言葉は、母のいた奥の部屋に満ちていた匂いと、父が神殿の施療師へ向けた声を連れて戻ってきた。
到着時刻と、最初に用いた薬を書き出せ。
その言葉の意味を、エレオノーラはまだ知らない。何を疑えばよいのかも、誰に尋ねればよいのかも分からない。ただ、書き出せ、と言った父の声だけが、机の上に並んだ封蝋や宛名の紙のそばに落ちて、他の言葉と同じようには消えてくれなかった。
「お嬢様」
ナディアの声で、エレオノーラは自分が机の上を見つめたまま動かなくなっていたことに気づいた。封蝋の赤黒い色が目に残っていたが、瞬きをすると、それはただの封蝋に戻った。
やがて、前庭のほうから馬車の音がした。普段の来客よりも、車輪の音がゆっくりしていた。馬の蹄も、石畳を強く打たない。屋敷に入ってくる音そのものが、弔いの場に合わせて低く整えられているようだった。ローレンが顔を上げる。部屋の外に控えていた従僕が入り、王宮からの使者であることを告げた。
エレオノーラは、椅子から立とうとした。膝に力が入る前に、ナディアの手がそばに来た。父がそれを見て、すぐに首を横へ振った。
「無理に前へ出なくてよい」
その声は、昨夜の「泣いてよい」とは違っていた。けれど、同じ父の声だった。
「だが、聞いておきなさい。これは、お前の母への弔意だ」
エレオノーラは頷いた。母への弔意。母の死は、リュシアンの部屋で抱いた小さな重さでもあり、真珠のブローチを戻した箱でもあり、父の腕の中で泣いた夜でもあった。けれど今から入ってくるものは、王家の言葉だった。母が公爵夫人であり、王家と結ばれた家の人であり、王国の礼の中で悼まれる人であったことが、馬車の音とともにこの部屋へ入ってくる。
使者は、王妃付きの女官長格の女性だった。黒を基調とした装いに、王家の紋章を控えめに示す飾りをつけ、年齢を重ねた顔には、礼を乱さない静けさがあった。後ろには、王家の紋章が入った黒縁の書状を持つ侍従と、白い花、香の箱を捧げ持つ者が続いている。国王と王妃本人ではない。けれど、王家として正式に整えられた弔意であることは、エレオノーラにも分かった。
女官長格の使者は、父と祖母へ深く礼をとり、それから声を低く整えた。
「国王陛下ならびに王妃陛下は、セシリア・ヴァルクレスト公爵夫人のご逝去を深く悼まれておいででございます。ヴァルクレスト公爵家の悲しみに、王家として謹んで弔意を表されます。王妃陛下は、セシリア夫人の人柄と、エレオノーラ様を慈しみ育てられたお心を、決してお忘れにならぬとのお言葉でございました」
言葉は正しく、整っていた。誰かの喉で崩れたり、途中で途切れたりしない。礼法の中で選ばれた言葉だった。
エレオノーラはそれを聞きながら、母の声を思い出していた。王妃の言葉が届いているのに、その向こうで、母が自分の名を呼ぶ声のほうが近かった。エレオノーラ、と言うときの、少し息を含んだ柔らかい声。あなたは姉になります、と告げたときの声。怖いです、と答えたときの声。公爵夫人としての母を悼む言葉は、立派で、正しく、必要だった。それでも、その言葉の中には、エレオノーラが昨日握った熱い手の温度までは入っていなかった。
それが礼を欠くことだとは思わなかった。きっと、弔意とはそういうものなのだ。母を知るすべてを言葉にできるわけではない。王家の使者が持ってきたのは、王家として差し出せる最も正しい悲しみだった。けれど、正しい悲しみと、自分の胸の中でまだ形にならない悲しみは、同じ場所には重ならなかった。
使者がエレオノーラへも目を向けた。エレオノーラはナディアの支えを受けながら立ち上がった。膝はまだ頼りなかったが、座ったまま受け取ってよい言葉ではないと分かった。
「王妃陛下より、エレオノーラ様へもお言葉を預かっております。今はご無理をなさらず、御身を大切になさるように、と」
エレオノーラは礼をとった。深くしすぎれば崩れてしまいそうで、浅ければ失礼になる。そのあいだを、体が覚えている礼法でどうにか探した。
「王妃陛下のお心遣い、ありがたく存じます」
言葉は出た。祖母や母に教えられた通りの言い方だった。けれど、言い終えたあと、自分の声が部屋の中に置かれて、そのまま戻ってこないように感じた。母がいれば、あとで褒めてくれただろうか。硬かったところを直してくれただろうか。それとも、今日はそれでよいのですよ、と言ってくれただろうか。考えた瞬間、礼の姿勢を解いた指先に力が入った。ナディアの手が、すぐそばにあった。
白い花と香が受け取られ、書状は父の手に渡った。ローレンが取り次ぎの手順を静かに進め、侍女たちは花を置く場所を確認する。王家からの使者が退出したあとも、部屋には香の匂いが残った。屋敷の香と、王宮から届いた香が混ざる。その匂いの中で、エレオノーラは母の死が、またひとつ別の場所へ届いてしまったことを知った。
父は書状を見下ろしたまま、しばらく何も言わなかった。祖母は机の上の宛名を見直し、ローレンへ次の使者の手配を確認した。王都内の縁戚、遠方の親族、領地の代官、ディオール家、アシュベル大公家。名が並ぶたびに、母のいない朝は、屋敷の外へ広がっていった。
エレオノーラは椅子の縁に手を置いた。リュシアンを抱いた腕はまだ重く、真珠のブローチを箱に戻した指はまだ冷たかった。その冷たさと重さのあいだに、アレクシスの名が浮かぶ。
王妃の言葉は届いた。王家の花も香も届いた。けれど、アレクシスはまだ来ていない。
「王太子殿下ご本人の弔問については、王妃陛下のご判断を待つことになります」
ローレンが、父へ確認するように言った。父は短く頷いた。
「幼い身であり、王太子でもある。こちらから求めることではない」
その通りなのだと分かった。分かるだけのことは、エレオノーラの中にも育っていた。王太子は、自分の気持ちだけで馬車に乗って来られる人ではない。王妃の許しが要る。王宮の礼がある。弔問にも順番がある。けれど、分かることと、胸の中に残るものは別だった。
来てくださるだろうか。
エレオノーラはその問いを、誰にも聞こえないところで抱えた。王太子殿下としてだけではなく、昨日まで自分の隣に席を持っていた人として、アレクシスはこの屋敷へ来てくれるのだろうか。母の死に、どんな言葉を持ってくるのかは分からない。それでも、来てくれると信じたい気持ちだけが、王家の香の残る祖母の部屋で、まだ答えを得られずに残っていた。




