第十一話 同じ手に残るもの②
奥の部屋の扉を過ぎても、エレオノーラの足はすぐには前へ進まなかった。背中の後ろに閉じた扉が残っているようで、ナディアの支えがなければ、もう一度振り返ってしまいそうだった。そのとき、控え廊下のほうからローレンが姿を見せ、深く礼をした。
いつもの取り次ぎの礼よりも深く、けれど、急がせるためのものではなかった。ローレンは顔を上げる前に、エレオノーラの足元と、ナディアが支えている手の位置を一度だけ見た。見たことを言葉にはしなかったが、その沈黙の中に、今のエレオノーラが自分だけで歩き切れる状態ではないことも、だからといってこの場で何も聞かずに立ち尽くさせてよいわけではないことも、両方受け取っている気配があった。
「お嬢様」
低く呼ばれて、エレオノーラは返事をしようとした。けれど、喉の奥にまだリュシアンの泣き声が残っていて、すぐには声にならなかった。ローレンはそのわずかな遅れを待った。廊下の向こうでは、香の箱を持った侍女が角を曲がり、喪の支度に使う布を抱えた別の侍女が奥の部屋の前で足を止めて、扉の内側へ静かに入っていった。扉が細く開いた一瞬、そこから強い薬湯の匂いではなく、香と冷えた空気が混じった匂いが漏れた。昨日まで母の息を探していた場所が、もう別のものを整える場所へ変わっている。その変化が、目に見えるほどはっきりしているのに、心はまだ追いつかなかった。
「旦那様と大奥様が、お部屋にてお待ちでございます。弔いの支度につき、お嬢様にもお聞きいただきたいことがございます」
ローレンは、すぐに歩き出さなかった。言い終えてから、エレオノーラがその言葉を受け取るだけの間を置いた。旦那様。大奥様。祖母の部屋。弔いの支度。どの言葉も、昨日までなら屋敷の中で何度も聞いたはずなのに、今はひとつひとつが重く、床に置かれた石のようだった。エレオノーラは、弔いという言葉を頭の中で繰り返した。母のためのものだと分かっている。けれど、母を弔うということが、母がもう起き上がらないことと同じ意味だと、まだ体が認めたがらなかった。
ナディアの手が、ほんの少しだけ背中に添えられた。押すためではなく、ここにいると知らせるための手だった。エレオノーラは息を吸い、奥の部屋の扉を見ずに、ローレンへ頷いた。
「参ります」
言葉だけは、教えられた通りに整っていた。けれど、その声を支える息は浅く、ローレンへ届くまでに少し細くなった。それでもローレンは、少しも表情を変えず、もう一度深く礼をしてから先に立った。彼の歩幅はいつもより小さかった。普段なら家令として、廊下をまっすぐ進み、扉の前で流れるように控える人だったが、今はエレオノーラがナディアに支えられて歩く速さに合わせている。背中だけでそうしているのが分かった。
祖母の部屋へ向かう廊下では、従僕が封蝋の箱を両手で持って進んでいた。いつもなら来客のための銀器や茶器が運ばれる時間に、今は黒い布に包まれた文箱や、花を挿すための細い花器が運ばれている。エレオノーラは、そのひとつひとつを見ながら、自分が母の死をまだ胸の中で受け止めきれていないのに、屋敷はもう母の死を外へ知らせる準備をしているのだと思った。残酷だとは思わなかった。けれど、待ってはくれないのだと思った。泣き止むまで、理解できるまで、母のいない朝に慣れるまで、誰も時間を止めてはくれない。止められないから、誰かが手を動かしているのだと、そう思うしかなかった。
祖母の部屋の扉は、いつもより大きく開かれていた。中へ入ると、最初に目に入ったのは、机の上に重ねられた黒縁の便箋だった。白い紙の縁に引かれた黒が、朝の光の中でひどくはっきり見えた。次に、まだ溶かされていない封蝋の塊、ヴァルクレスト家の印章、宛名を控えた紙、使者の出立順を書いた細い札、香と供花の目録が見えた。どれも整っていた。誰かが乱れた手で置いたものではなく、必要なものが必要な順に並べられている。その整い方のほうが、かえって息をしにくくさせた。
父は窓際ではなく、机の横に立っていた。手には封じる前の書状があり、指先に強く力を入れているわけではないのに、紙がわずかにしなっていた。祖母は椅子に座っていたが、深く腰を預けているのではなく、すぐに立てる姿勢で、机の上の宛名を見ていた。部屋の隅には、書状を写すための年若い書記役の使用人が控えている。誰も大声を出していない。けれど、部屋の中は止まっていなかった。父の目が紙から離れ、エレオノーラを見る。祖母も、扇を持たない手を膝の上で一度だけ重ね直した。
「来たか」
父の声は低かった。昨夜、自分を抱き寄せたときの声と同じ人のものなのに、今は公爵としてこの部屋に立っている声だった。けれど、その声の奥から父がいなくなったわけではなかった。エレオノーラの足元を見て、すぐに礼を求めなかった。その目の動きだけで、今この場で何を優先するかを父が決めたのが分かった。
「座りなさい、エレオノーラ」
祖母が言った。命じる声ではあったが、突き放すためではなかった。ナディアが椅子のそばまで支え、エレオノーラは腰を下ろした。座ると、膝の震えが少し強く分かった。立っていたときは、震えていることを足全体で隠していたのだと気づいた。
「今から話すことは、すべて覚えなさいとは言いません。けれど、あなたの母が、どこへ知らせを送られる人であったかは、聞いておきなさい」
祖母の言葉に、エレオノーラは机の上を見た。母の死を、どこへ知らせなければならないのか。母は母だった。朝に髪を撫で、言葉を直し、急がなくてよいと教え、リュシアンを怖がらないでと言った人だった。それなのに、今、母は書状の宛名の中で広がっていく。屋敷の外へ、王宮へ、領地へ、隣国へ、エレオノーラの知らない場所へ向かっていく。
ローレンが、一枚の控えを手に取った。
「王宮へは、夜のうちに第一報をお届けしております。国王陛下、王妃陛下には、すでにお伝えが届いているものと存じます。正式な弔意は、本日中に届けられるかと」
父がわずかに頷いた。
「王宮は最優先だ。セシリアは公爵夫人であり、お前は王太子殿下と婚約を結んでいる。この家の喪は、家の中だけのものでは済まぬ」
家の中だけのものでは済まない。エレオノーラはその言葉を、すぐには飲み込めなかった。母が亡くなったことは、自分の胸の中でまだ形を持たない。リュシアンの泣き声と、真珠のブローチと、熱い手と、閉じた扉に分かれている。それなのに、王宮へはもう届いている。王妃陛下が知る。国王陛下が知る。王宮の廊下にも、母の死が言葉として置かれる。そう思うと、自分の知らないところで母の名が呼ばれているようで、胸の奥が冷たくなった。
ローレンは次の控えを見た。声は乱れなかったが、ただの読み上げではなかった。どの家へどの順で知らせるか、その重さを間違えないように、言葉を慎重に置いている。
「ヴァルクレスト家の主だった縁戚、姻戚にあたる家々、先代より弔意を交わしてまいりました高位の家へも、順に書状をお出しいたします。王都内へは本日中に。遠方へは早馬を立てます」
エレオノーラには、すべての家名を追えなかった。聞き覚えのある名もあれば、父や祖母の会話の中でだけ聞いたことのある名もあった。けれど、数が多いことは分かった。母の死を知らなければならない人が、こんなにいるのだと分かった。母は、エレオノーラの部屋と、エレオノーラが知っている屋敷の中だけにいた人ではなかった。茶席で微笑む人であり、王宮で礼を交わす人であり、親族の名を覚え、手紙を書き、季節の贈り物を選び、家と家のつながりの中に立っていた人だった。
「領地へも知らせる」
父が言った。
ローレンは控えを少し下げ、父の言葉を待った。父は、机の上に置かれた領地宛ての書状へ目を落とした。
「代官、領地の館、主要な家臣へ。領内で弔鐘を鳴らす者たちにも、正式な形で知らせる。公爵夫人の喪を、領地が知らぬままにはできない」
領地、と聞いて、エレオノーラはまだ数えるほどしか訪れたことのない遠い土地を思った。ヴァルクレストの名を持つ土地。そこで働く人々。母が送っていた布や薬、冬前の備えについて、父と話していたこと。母の死は、王宮だけでなく、領地にも届くのだ。屋敷の中で泣いている赤子の声とは別に、遠い場所で誰かが書状を開き、奥方様が、と声を低くするのだろうか。母の顔を直接知らない人もいるかもしれない。それでも、母はその人たちの暮らしの上にも名を持っていた。
「そして、アルテンブルクのディオール家へ」
ローレンがそう続けたとき、エレオノーラは顔を上げた。
アルテンブルク。母の故郷。母が時折、遠い季節の色を思い出すように口にした国。ディオール家。手紙の封蝋に見たことのある名。けれど、それは母の過去として知っていただけで、母の死を受け取る相手として考えたことはなかった。
「ディオール家へも……」
「セシリアは、ディオール家の娘でした」
祖母が言った。セシリア、という名を口にしたとき、祖母の声はほんの少しだけ低くなった。規範を置くための声ではなく、亡くなった人の名を崩さないように持ち上げる声だった。
「父母はすでに亡くとも、セシリアには兄君がいます。あなたにとっては伯父です。あちらへ知らせぬまま、こちらだけで弔いを進めることはできません」
「お母様の、お兄様」
エレオノーラは、繰り返した。口に出してみても、その人の顔は浮かばなかった。母と同じ色の髪なのだろうか。エレオノーラが聞いたことのない母の声を覚えている人なのだろうか。母がまだヴァルクレスト公爵夫人ではなかったころ、その人の前ではどんな声で笑っていたのだろう。
知りたいと思ったが、今それを知ることが怖くもあった。自分の知らない母がいることは、母を奪われることではないはずだった。それでも、母のいない朝にその広がりを受け取るには、胸がまだあまりに痛かった。




