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婚約破棄された悪役令嬢は、白銀の大公に最愛を捧げられる  作者: ごゅみ
第一部 婚約破棄

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第十三話 葬送②(改稿版)

焦ってしまい、ボツ案と下書きをそのまま使用したものを投稿してしまったため、一度取り消させていただきました。

申し訳ありません。


また、葬送①のタイトルが葬送②になっていたので、あわせて訂正いたしました。

重ねて申し訳ありません。

礼拝堂の中は、屋敷より石の匂いが強かった。香の煙が高い天井へ上がり、窓から入る光の中で薄く揺れている。中央に運ばれた母の棺のまわりには、花と灯火が置かれていた。アシュベル家から届いた銀の灯火具にも、小さな火が入っている。昨日は箱の中で静かに光を受けていたものが、今日は母のそばで細く燃えていた。


葬送の祈りが深くなるにつれ、エレオノーラの中から、音が少しずつ遠くなっていった。司祭の声も、衣擦れも、足音も、全部が水の向こうにあるようだった。母の棺の輪郭だけが、はっきりしている。母を送る。その言葉を胸の中で繰り返すと、母の棺がそこにあることと、自分たちがそのそばに立っていることが、同じ場所へ沈んでいった。母はもう自分で歩けない。だから父が立ち、祖母が立ち、自分もここにいるのだと思うと、息が苦しくなった。


高位司祭の祈りが一区切りを迎えたところで、神殿書記が葬送録を開いた。羊皮紙は厚く、黒い革の表紙には神殿の印が押されている。ローレンが公爵家の家令としてそのそばに立ち、神殿側の書記と、今日この葬送に立ち会う者の名を確認していった。ローレンは神殿書記の言葉に耳を傾け、必要なところだけ低く答えていた。祈りの声はまだ礼拝堂の奥に残っているのに、羽根ペンが羊皮紙へ触れる音が近く聞こえた。名が読み上げられるたび、エレオノーラは、自分の名前が母の棺のそばで紙の上へ移されていくのを感じた。


父が答える。祖母が頷く。エレオノーラは名を呼ばれるまで、自分がその記録の中にいることを忘れていた。


「エレオノーラ・ヴァルクレスト様。故セシリア・ヴァルクレスト公爵夫人のご息女として、また王太子殿下のご婚約者として、本日の葬送に立ち会われたことを葬送録へ記します」


神殿書記の声に、責める響きはなかった。羽根ペンを止めたまま、ただ次に書き込む言葉を待っている声だった。けれど、王太子殿下のご婚約者として、という言葉が入った瞬間、エレオノーラの胸に冷たいものが落ちた。母の葬儀の記録に、自分は王太子の婚約者として置かれる。間違いではない。間違いではないから、逃げ場がなかった。


神殿書記が羽根ペンを止めたまま、続ける。


「この形で、よろしゅうございますか?」


本来なら、ローレンが家令として確認を受けるだけで済むはずの言葉だったのかもしれない。けれど、その場の視線が、ほんのわずかにエレオノーラへ寄った。母の棺のそばにいるはずなのに、エレオノーラの胸元へ、王太子の婚約者という言葉だけが冷たく戻ってきた。


エレオノーラは答えようとした。はい、と言えばよい。たった一言。それだけで記録は進む。けれど声が出なかった。母の娘としてなら、まだ頷けたかもしれない。公爵令嬢としてでも、何とかできたかもしれない。だが、王太子の婚約者として母を送る自分を、この場で文字にされると、何かが自分の内側から離れていくようだった。


アレクシスが少し動いたのが見えた。彼もその言葉に気づいたのだろう。助けたいのかもしれない。けれど、アレクシスの視線は、神殿書記と王宮侍従のあいだで小さく揺れた。何か言いたそうに唇が動いたが、声にはならなかった。


エレオノーラは唇を開いた。声は出ない。


そのとき、ヴィクトルがはっきりと一歩出た。


今度は隠すような一歩ではなかった。大きな声を出したわけでもない。けれど礼拝堂の石の床に、彼の靴音が静かに響き、その場にいた者の意識が彼へ向いた。


「葬送録には、母君の葬送に立ち会った娘として残せば足ります」


神殿書記が顔を上げた。高位司祭も目を向ける。ヴィクトルは、彼らへ礼を欠かない角度で立ち、けれど退く気のない目をしていた。


「この場で、彼女に婚約者としての確認を向ける必要はありません。ここは王家との婚約を確かめる場ではなく、母君を送る場です」


礼拝堂の空気が止まった。


礼拝堂の石の床に、ヴィクトルの声は低く残った。少年の声ではある。けれど、神殿書記の羽根ペンも、高位司祭の視線も、その声を子どもの割り込みとして流すことはできなかった。エレオノーラは、声もなくヴィクトルを見た。ヴィクトルの横顔は白く、黒い喪服の襟元の上で、唇だけが少し強く結ばれている。言ったあとで目を伏せることも、父のほうへ逃げることもしなかった。白い横顔のまま、ヴィクトルは神殿書記を見ていた。


神殿書記が戸惑うように高位司祭を見た。高位司祭はわずかに眉を動かしたが、その場で反論する前に、ギルベルトの声が低く届いた。


「アシュベル北方大公家も、その記し方で差し支えない。葬送録に残すべきは、公爵家の息女として母君を送った事実だ。王家との婚約に関わることは、別の記録に委ねればよい」


父も続いた。


「ヴァルクレスト家としても、その形を求める」


それで、場は決まった。神殿書記は深く礼をとり、羊皮紙へ筆を戻した。高位司祭は祈りの流れを乱さぬよう、静かに頷く。記録は改められた。


「故セシリア・ヴァルクレスト公爵夫人のご息女、エレオノーラ・ヴァルクレスト様。本日の葬送に立ち会われたことを、葬送録へ記します」


今度は、息が入った。エレオノーラは声を探した。喉はまだ狭い。それでも、先ほどより自分の名前が自分の体に戻っていた。


「……はい」


小さな返事だった。だが、届いた。神殿書記が礼をとり、筆を走らせる。


ヴィクトルはすぐに戻らなかった。ほんの少しだけ、エレオノーラのほうを見る。何かを急がせる目ではなかった。彼の言葉が、まだ彼女のそばに残っているかどうかを確かめるような目だった。


エレオノーラは、ほんの少し頷いた。


ヴィクトルの表情が、かすかに緩んだ。笑みと言うには小さい。けれど、礼拝堂の冷たい光の中で、そのわずかな変化だけが、エレオノーラの胸に残った。


葬送の祈りは最後へ進んだ。母の名が読み上げられる。セシリア・ヴァルクレスト。ディオール家の娘。ヴァルクレスト公爵夫人。オルドリックの妻。エレオノーラとリュシアンの母。名が読み上げられるたび、母のそばに、別の場所の気配が増えていった。ディオール家の娘としての母。ヴァルクレスト公爵夫人としての母。父の妻としての母。自分とリュシアンの母。そのどれもが礼拝堂の中に残っているのに、棺だけは静かに送られていく。


最後の祈りのとき、エレオノーラは泣かなかった。泣けなかったのか、泣かずにいたのか、自分でも分からない。けれど、涙が出ないことを責める余裕もなかった。胸元の真珠が重い。指の下には、さっきヴィクトルに支えられた感触が残っている。耳には、ここは王家との婚約を確かめる場ではなく、母君を送る場です、という声が残っている。


葬儀が終わると、人々はすぐには動かなかった。祈りの余韻が礼拝堂に残り、香の煙がまだ細く上がっている。父は母の棺のそばに立ち、長く目を伏せていた。祖母はその少し後ろにいる。ラファエルが静かに父へ近づき、二人は短く言葉を交わした。イネスは祈祷書を胸に抱え、ルシールはその横で白い布の端を整えている。ヘルミーネはオスカーの肩に手を置き、オスカーは唇を噛んで、泣くのをこらえていた。


アレクシスが近づいてきた。王宮侍従が少し後ろに控える。アレクシスはエレオノーラの前で立ち止まり、いつものような明るさを探そうとして、見つけられない顔をした。


「エレオノーラ」


エレオノーラは顔を上げた。


「今日は、その……ちゃんと、立っていたと思う。僕には、あんなふうにはできなかった」


アレクシスの声は小さく揺れていた。笑おうとしているわけではなく、慰めの形を探しているのは分かった。けれど、ちゃんと、という言葉は、先ほどの葬送録の中で自分がまた役割へ戻されかけた感覚と少しだけ重なった。エレオノーラは、礼を返すべきだと分かっていた。王太子が声をかけてくれている。来てくれた。そう思う気持ちはある。けれど、言葉は胸の上で止まった。


「ありがとうございます、殿下」


それだけは言えた。アレクシスは頷いた。けれど、そのまま下がるには何か足りないと思ったのか、もう一度口を開きかけた。次の言葉は出てこなかった。王宮侍従の視線があり、彼自身も王太子としてその場にいる。エレオノーラの喉の奥で止まっているものに、彼は手を伸ばせなかった。


アレクシスが下がったあと、エレオノーラは礼拝堂の壁際へ少し移った。ナディアがそばへ来る前に、ヴィクトルが近づいた。今度は、人々の視線が少しずつ散り始めたあとのことだった。喪の場を乱す動きではない。その足はまっすぐエレオノーラのほうへ向いていた。


ヴィクトルはすぐには話さなかった。エレオノーラの胸元の真珠を見て、それから顔へ視線を戻した。


「そのブローチは、母君のものか」


エレオノーラは、胸元へ手をやりかけて止めた。


「……はい」


「そうか」


ヴィクトルの視線は、真珠の上に長く残らなかった。礼拝堂の灯火を映した氷青の瞳が、すぐにエレオノーラへ戻ってくる。


「誰かが、立派だったと言うかもしれない。俺も、そう思わなかったわけじゃない。でも、その一言だけで、今日の君を覚えたくない」


エレオノーラは息を止めた。


ヴィクトルは、少しだけ視線を落としてから、またエレオノーラを見た。氷青の瞳が、葬儀の灯火を小さく映している。


「君は、祈りを添えるとき、手が震えていた。屋敷を出るときは目を伏せたし、葬送録で名を呼ばれたときも、すぐには声が出なかった。それでも、君は母君へ祈りを添えたし、歩いたし、返事をした。俺は、立派だったという言葉より、そのことを覚えている」


胸の中で、何かがほどけるより先に痛んだ。立派だった、と言われるより苦しかった。苦しいのに、逃げたくなかった。ヴィクトルの言葉の中には、鏡に映った喪服の自分はいなかった。震えた手と、止まりかけた足と、遅れて出た返事が、そのまま残っていた。


「そんなところまで、覚えなくても……」


声は弱く出た。ヴィクトルは首を横に振らなかった。すぐに否定もしなかった。ただ、少しだけ困ったように眉を寄せた。


「覚えたいと思った」


その言葉は、あまりにまっすぐだった。エレオノーラは返事を失った。


ヴィクトルは、自分でも言いすぎたと思ったのか、ほんのわずかに目を伏せた。けれど、言葉を取り消さなかった。代わりに、少し声を低くする。


「君が思い出したくないなら、俺からは話さない。でも、いつか今日のことがぼやけて、母君をどう送ったのか分からなくなったら、俺に聞けばいい。君が母君へ祈りを添えたことも、声を出したことも、俺は覚えている」


エレオノーラの目に、涙が上がってきた。葬儀の最中には出なかった涙だった。今になって出るのはおかしいのではないかと思ったが、ヴィクトルは慌てなかった。涙が落ちることを急かさず、止めようともしないまま、ただそこにいた。


一粒だけ、頬を伝った。ナディアが手巾を差し出そうとしたが、少し離れたところで止まった。ヴィクトルが、自分の胸元から白い手巾を取り出していた。


彼はすぐには押しつけず、エレオノーラの手が届く少し手前で止めた。


「使うか?」


エレオノーラは、涙で少し滲んだ視界の中で、その白い手巾を見た。受け取ってよいのか迷った。けれど、今度は迷っていることを隠そうとは思わなかった。


「……お借りしても、よろしいですか?」


「借りるんじゃなくて、持っていていい」


「でも、それでは」


「返したくなったら、そのとき返してくれればいい。今すぐ返すことを考えなくていい」


エレオノーラは手巾を受け取った。手巾には、北方の香とは違う、冷えた布とわずかな革の匂いがあった。ヴィクトルのものだと思った瞬間、なぜか手の中の白が少し温かく感じられた。頬を拭くと、涙は少しだけ止まった。


ヴィクトルが小さく息を吐いた。安堵したようにも、まだ何かを言うべきか迷っているようにも見えた。やがて彼は、ほんの少しだけ口元を緩めた。笑ったと言えるほどではない。けれど、エレオノーラには分かった。冷たいと思っていた瞳の奥で、灯火のようなものが揺れた。


「ありがとうございます、ヴィクトル様」


ヴィクトルは頷いた。今度は、うん、と言わなかった。何かをこらえるように少しだけ唇を結び、けれど目元の強さは先ほどより少しやわらいでいた。


「今日は、もう一人で全部受けなくていい。言葉が出ないときは、君の父上が前に立つ。大奥様も、君の家の者たちも、君を一人で立たせるつもりはない」


そこで一度、彼は言葉を止めた。止めたあと、少しだけ低く続ける。


「俺もいる」


エレオノーラは顔を上げた。


ヴィクトルは、言ってしまったあとで逃げなかった。十三歳の少年のまっすぐさと、北方大公家の嫡男としての矜持が、同じ顔の中にあった。たったそれだけの言葉なのに、エレオノーラはすぐに返事ができなかった。礼拝堂で聞いた祈りよりも近い場所に、その声が残った。


「……はい」


エレオノーラは答えた。小さな声だったが、消えなかった。


葬儀のあとも、すぐにすべてが終わるわけではなかった。王家の使者と神殿の者は定められた挨拶を終えると退き、アレクシスも王宮侍従に促されて王宮へ戻る支度に入った。ディオール家とアシュベル大公家、近しい親族だけが、弔いの品と記録、この後の挨拶を確認するため、いったん屋敷へ戻ることになった。


屋敷へ戻る道で、空は昼を過ぎていた。朝より光が柔らかく、庭の影が長くなっている。母を送ったあとも、屋敷はそこにあった。扉も、廊下も、窓も、弔いの台も、すべて残っている。残っていることが、少し残酷で、少しだけ助けにもなった。


玄関を入ると、リュシアンの泣き声が遠くから聞こえた。細く、短く、まだ世界の何も知らない声だった。エレオノーラの足が止まった。母を送った。次は弟のところへ行かなければならない。そう思った瞬間、胸がまた狭くなる。行きたいのか、行かなければならないのか、分からない。母は怖くなったら怖いままそばにいてあげなさいと言った。けれど、今日の自分は、怖いままそばへ行けるほど形を保てているのだろうか。


ナディアがそばに来た。


「お嬢様」


エレオノーラは返事をしようとした。リュシアンのところへ行きます、と言わなければと思った。言えば、行けるかもしれない。けれど、声を出す前に、手の中の白い手巾に気づいた。ヴィクトルの手巾。返さなければと思って握りしめていたものだ。


ヴィクトルは少し後ろにいた。アシュベル家の者たちはまだ玄関近くに残り、父たちと短く話している。ヴィクトルの視線が、止まったエレオノーラの足元へ落ちた。


彼は近づいた。けれど、リュシアンの部屋へ行けとは言わなかった。


「弟君の声か?」


エレオノーラは頷いた。


「行かなければと、思います」


ヴィクトルは、すぐには答えなかった。廊下の奥からもう一度、リュシアンの泣き声がした。エレオノーラの胸が、その声に合わせて小さく痛む。


「行かなければならない、だけで歩こうとすると、足が止まることがある」


ヴィクトルはそう言ったあと、少しだけ眉を寄せた。


「君が行きたいのか、行かなければと思っているのか、俺が決めていいことじゃない」


エレオノーラは、手巾を握ったまま聞いていた。ヴィクトルはすぐに答えを置かなかった。行けとも、休めとも決めなかった。分からないところを、分からないまま置いた。


「だから、少しだけここに立っていればいい。歩けると思ったら歩けばいい。今すぐ行けないからといって、弟君を大切にしていないことにはならない」


「でも、お母様は……」


言いかけて、言葉が詰まった。母は怖いままそばにいてあげなさいと言った。けれど母の言葉を守れない自分になりたくない。母を送った日に、弟を怖がる自分でいたくない。


ヴィクトルは、その先を急がなかった。少し待って、それから静かに言った。


「母君の言葉を、今日のうちに全部守ろうとしなくていい」


エレオノーラは息を止めた。


「母君の言葉は、今日すぐ全部できなければ消えるものじゃない。残してくれたものなら、壊さないように持てばいい」


母の言葉は、胸元の真珠のように、今すぐ使い切らなくてもそこに残るのだと、エレオノーラは少し遅れて思った。エレオノーラは、胸元の真珠に触れ、手の中の白い手巾を見た。


「少しだけ、立ってから行きます」


「うん」


ヴィクトルは頷いた。それから、ふと何かに気づいたように、少しだけ口元を緩めた。


「手巾は、まだ持っていていい」


エレオノーラは、自分が返そうとしていたことを見られていたと分かって、ほんの少しだけ目を見開いた。


「返す顔をしていた」


「顔に出ていましたか?」


「出ていた」


ヴィクトルはそこで、その日初めて、ほんの少しだけ笑った。喪の場に似つかわしくない明るさではない。けれど、冷えた廊下の空気の中で、ほんの少しだけ息ができる笑みだった。


「返したくなったら返してくれ。返す日を決めるのは、君でいい」


エレオノーラは、手巾を握り直した。借りたものを返さずに持っているのは落ち着かない。けれど今は、その白い布が手の中にあることで、リュシアンの声のほうへ歩き出すまでの時間を少しだけ保てる気がした。


「ありがとうございます」


「礼は、今ので受け取る」


「今ので、ですか?」


ヴィクトルは、少し困ったように息を落としてから言った。


「何度も返さなくていいと言っただろう」


エレオノーラは、泣いたあとの目で彼を見た。白銀の髪。黒い喪服。氷青の瞳。礼拝堂で一歩出た人。祈りを添える手を支えた人。葬送録から自分を母の娘へ戻してくれた人。立派だった、という言葉の外側まで覚えていると言った人。


リュシアンが、また泣いた。


エレオノーラは、その声へ顔を向けた。怖さは消えていない。母がいないことも変わらない。けれど、母の言葉を今日すべて守れなくても、なくならないと言われた。今すぐ、姉の顔を間違えずに作れなくてもいい。怖いまま、少し立って、少し歩く。それなら、できるかもしれない。


「行ってきます」


その言葉は、誰へ向けたものか自分でも分からなかった。ナディアへか、父へか、母へか、ヴィクトルへか。けれどヴィクトルは、きちんと受け取った。


「行ってらっしゃい」


その返事に、胸の奥が小さく揺れた。行ってらっしゃい、という言葉は、戻ってくる場所のある人へ向けられるものだった。リュシアンの部屋へ行っても、自分はどこかへ消えるわけではない。戻ってくる場所がある。そう思える声だった。


エレオノーラはナディアに支えられ、廊下の奥へ歩き出した。手の中には、白い手巾がある。胸元には、母の真珠がある。背中の向こうには、父と祖母がいる。別の場所には、母の記憶を持つ人たちがいる。そして玄関近くには、ヴィクトルが立っている。


振り返らなかった。けれど、振り返らなくても分かった。ヴィクトルはまだそこにいる。振り返らなくても、その視線が廊下の途中で切れていないことだけは分かった。


リュシアンの泣き声が近くなる。エレオノーラは、怖いまま、白い手巾を握ったまま、その声のするほうへ進んだ。母を送った日の光は、廊下の窓から薄く差し込み、黒い喪服の裾と、胸元の真珠と、手の中の白い布を静かに照らしていた。

本日中にもう一話投稿する予定ですが、今回の件を踏まえ、本日は投稿時間を定めずに投稿させていただきます。

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