第十話 母③
エレオノーラは、もう泣きそうだった。泣かないようにするのではなく、泣くと母の息が苦しくなる気がして、口を結んだ。母は手を少しだけ動かした。エレオノーラの指を撫でるような動きだった。
「泣きたいなら、あとで泣きなさい。今は、顔を見せて」
エレオノーラは頷いた。頷くしかできなかった。母の目に、自分の顔が映っているのだと思った。どんな顔をしているのかは分からない。けれど母は、それを見たいと言った。だから、顔を伏せなかった。
部屋の奥で、医師が低い声で産婆に何かを言った。薬の器が動く音がした。母の目が少し揺れた。時間なのだと分かった。父に言われた、短くだ、という言葉が戻ってくる。もう出なければならない。
「また来ます」
エレオノーラが言うと、母は小さく頷いた。
「ええ」
その返事が、約束のように聞こえた。けれど、その約束が確かなものかどうかは分からなかった。エレオノーラは母の手を離した。離した瞬間、指先から熱がなくなり、空気が冷たく感じた。扉へ向かう前に、もう一度振り返った。母は目を閉じていた。眠っているのではない。息を整えているのだろう。
廊下へ出ると、父がそこにいた。彼は何も聞かなかった。エレオノーラの顔を見て、すぐに全てを読んだようだったが、何も言わなかった。代わりに、彼女の肩に手を置いた。父の手は大きく、重かった。その重さがあるから、立っていられる気がした。
「お母様は、怖いと仰いました」
父の手が、ほんの少しだけ動いた。エレオノーラは顔を上げなかった。上げると涙が落ちそうだった。
「そして、わたくしの顔を見ると、少し息ができると」
父はしばらく黙っていた。廊下の向こうで神殿の施療師が記録板を抱えて立っている。医師が部屋の中へ戻っていく。ナディアが少し離れたところで待っている。それらがすべて、同じ廊下にあった。
「なら、顔を見せに行ったお前は、今日すべきことをした」
父の声は低かった。慰めではなかった。けれど、エレオノーラはその言葉で、肩に置かれた手の重さを少し深く感じた。
その後の時間は、いくつもの音でできていた。薬の器を替える音。水差しが運ばれる音。低い声で交わされる医師と父の言葉。祖母が使用人へ短く指示を出す声。リュシアンの小さな泣き声。泣き声が聞こえるたび、エレオノーラは胸の中でリュシアンの名を呼んだ。怖がらないで。怖くなったら、怖いまま、そばにいてあげなさい。母はそう言った。その言葉を思い出しながら、エレオノーラは泣いている弟を見ていた。
昼を過ぎても、母の熱は下がらなかった。
夕方に近くなるころ、神殿の施療師がまた薬を用意した。匂いが変わった。青い苦みの奥に、別の甘さが混じっている。エレオノーラは遠くの控えの間にいたが、その匂いが廊下を通って届いた。ナディアが器を運ぶ侍女の手元を一瞬見た。ほんの一瞬だったが、エレオノーラはそれを見た。ナディアは何も言わなかった。だが、その手つきが、いつもの薬湯を見ているときと違っていた。
父が神殿の施療師に記録を求めたのは、そのあとだった。
声は低く、抑えられていた。怒鳴ってはいない。けれど、抑えられているからこそ怖い声だった。エレオノーラは控えの間の椅子に座ったまま、扉の向こうの声を聞いた。
「到着時刻と、最初に用いた薬を書き出せ」
「公爵閣下、記録はのちほど神殿へまとめて提出を――」
「今だ」
それ以上は聞こえなかった。聞いてはいけない気がして、エレオノーラは膝の上の手を見た。父が記録を求めている。神殿の施療師が、今ではなくのちほどと言った。どうして今ではいけないのか。なぜ父の声があんなに低いのか。分からない。分からないのに、そのやり取りは、薬の匂いと一緒に胸の中へ残った。
祖母は扉の近くに立っていた。顔は動かなかった。けれど、目だけが冷たかった。エレオノーラはその目を見て、これはただ母の体を案じている目ではないのだと思った。何かを見ている。けれど何を見ているのかは、まだ分からなかった。
日が落ちるころ、リュシアンがまた泣いた。今度は少し長く泣いた。エレオノーラは立ち上がった。誰も止めなかった。ナディアがそばに来る。
「若君のお部屋へ参りますか?」
「はい」
リュシアンは、奥の部屋から離れた小さな部屋にいた。乳母が抱いていて、侍女が布を整えている。泣き声は細いのに、部屋の中ではとても大きく聞こえた。エレオノーラは入口で足を止めた。怖くなったら、怖いまま、そばにいてあげなさい。母の声が戻る。
「抱いても、よいですか?」
乳母が少し驚いたように顔を上げ、そばに控えていた年嵩の侍女へ目を向けた。短い頷きが返り、ナディアがエレオノーラのそばへ寄る。乳母が椅子に座るよう促し、エレオノーラは言われた通りに座った。腕の位置を教えられ、白い布に包まれたリュシアンがそっと乗せられる。重さは、思っていたより軽かった。けれど、軽いのに、腕の中へ来た瞬間、世界の中心がそこへ移ったようだった。
リュシアンは泣き止まなかった。小さな顔を赤くして、口を開けている。エレオノーラはどうしてよいか分からなかった。揺らせばいいのか、声をかければいいのか、ただ持っていればいいのか。けれど、落としてはいけないことだけは分かる。腕に力を入れすぎないように、でも離さないように、彼女は必死で赤子の重さを受け止めた。
「リュシアン」
名前を呼ぶと、泣き声は止まらなかった。けれど、自分の中の何かが少し変わった。これは母から何かを奪った子ではない。白い布に包まれて、泣きながら息をしている小さな弟だ。怖い。けれど、怖いまま抱いていることはできる。母が言った通りだった。
「お母様は、あなたを心配していました」
そう言うと、ナディアが少しだけ顔を伏せた。乳母も何も言わなかった。リュシアンはまだ泣いている。エレオノーラは、その泣き声を聞きながら、自分の涙がようやく少しだけこぼれたことに気づいた。声を上げて泣いたわけではなかったが、涙だけが頬を伝った。リュシアンのせいではなかった。母のせいでもなかった。何のせいなのか、まだ分からない。ただ、腕の中に小さな命があり、廊下の向こうに熱の下がらない母がいる。その二つを同時に持つには、自分の胸はまだ小さかった。
夜が深くなってから、屋敷の音が変わった。
それは、大きな声ではなかった。誰かが叫んだわけでもない。泣き崩れる音でもない。むしろ、音が一つ消えたように感じた。奥の部屋へ出入りしていた足音が、少し前までとは違う間合いで途切れ、扉の向こうで低い声が交わされ、そのあと、長い沈黙が廊下に落ちた。
エレオノーラは、リュシアンを乳母に返して、控えの間へ戻っていた。椅子に座っていたが、眠ってはいなかった。ナディアがそばにいる。祖母は扉の近くに立っていた。父は部屋の中にいるはずだった。ローレンが廊下の向こうから来て、祖母の前で止まった。何も言わないうちに、祖母の手が動いた。扇はない。指だけが、ほんの少し握られた。
その動きだけで、エレオノーラは何かを聞く前に分かってしまった。分かりたくないものが胸の奥へ落ちてくるのを止められなかった。
祖母がこちらを向いた。いつものように背筋は伸びていた。けれど、その顔には、これまで見たことのない疲れがあった。祖母がこんな顔をするところを、エレオノーラはこれまで見たことがなかった。見たことがない、と思った瞬間、その先を考えることが怖くなった。
「エレオノーラ」
祖母の声は静かだった。
「セシリアは、逝きました」
言葉は、部屋の中に落ちた。母は亡くなりました、とは言わなかった。逝きました、と言った。その言葉の意味は分かる。分かるのに、体がすぐには受け取らなかった。エレオノーラは立ち上がろうとして、膝に力が入らなかった。ナディアの手がすぐに背に添えられる。支えられていることも分からないまま、エレオノーラは祖母を見ていた。




