第十話 母②
「薬の匂いがします」
エレオノーラは、ふいにそう言った。
ナディアはすぐには答えなかった。
「昨日と、違う匂いです」
「……薬湯は、処方によって匂いが変わります」
「ナディアも、そう思いましたか?」
今度は、ナディアの手がはっきり止まった。燭台の横に置かれた水差しの影が揺れる。彼女は、答えるべきか迷ったのだろう。侍女として、主人に不安を増やす言葉を渡してよいのか。けれど、エレオノーラはもう匂いに気づいている。気づいたことを、なかったことにはできない。
「わたくしには、詳しいことは分かりません」
ナディアはそう言った。
「ただ、昨日使われていたものとは違う薬湯が用意されておりました」
「お医者様が、そうなさったのですか?」
「医師と、神殿から来た施療師が、奥方様のお加減を見て用意したものだと聞いております」
神殿。
その言葉は、夜の部屋では少し硬く響いた。エレオノーラは神殿のことをよく知らない。祈りを捧げる場所。王家の儀礼にも関わる場所。聖女や祝福という言葉と結びつく場所。けれど、母の病の部屋にある神殿という言葉は、少し違って聞こえた。薬の匂いと一緒に届いたからかもしれない。
「神殿の方は、いついらしたのですか?」
「本日の夕刻を過ぎてからでございます」
「もっと早く来られなかったのですか?」
問いは自然に出た。ナディアの顔がほんの少し強ばった。エレオノーラはその変化を見て、自分が尋ねてはいけないことを尋ねたのかもしれないと思った。だが、もう言葉は部屋に出ている。
「お嬢様」
ナディアの声は低かった。
「そのことは、旦那様がご確認なさっています」
父が確認している。そう言われると、それ以上は踏み込めなかった。父が確認しているなら、自分が今ここで何かを問うてよいものではない。けれど、本日の夕刻を過ぎてから、という時間のずれが、細い針のように胸の中へ入った。母の熱は、もっと早くからあったのではないのか。リュシアンが生まれたあと、まだ部屋に明るさが残っていたころ、母の手はすでに熱かった。そう思いかけて、エレオノーラは自分の手を見た。白い布の端に触れた手。母の熱い手に触れた手。あれから一日が過ぎているのに、屋敷の薬の匂いは薄くならない。
意味は分からないのに、ただ痛かった。
ナディアはそれ以上話さなかった。エレオノーラも聞かなかった。聞けば、ナディアを困らせる。父が確認していることを、自分が夜の部屋で追いかけても、母の熱が下がるわけではない。そう思うのに、問いはまだ喉の奥に残っていた。
そのまましばらく椅子に座っていると、窓の外が少しずつ白み始めた。夜が終わるのではなく、夜が薄くなるような明るさだった。ナディアは、エレオノーラが少しでも眠れるなら寝台へ戻そうとしていたのだろうが、彼女はもう眠れなかった。廊下の音が、朝の支度の音へ少しずつ変わっていく。けれど、いつもの朝とは違う。厨房の音は控えめで、銀盆の音も遠い。母のいる奥の部屋へ運ばれるはずの朝の茶器の音は、聞こえなかった。
扉が叩かれた。今度は、ナディアではない。外から来た侍女が、低い声で何かを告げた。ナディアが扉のそばへ行き、短く返事をする。戻ってきたとき、彼女の顔は整っていた。整っていたからこそ、エレオノーラは胸の奥が冷えるのを感じた。
「大奥様が、お嬢様を控えの間へお呼びでございます」
祖母が呼んでいる。母ではない。父でもない。祖母が。
エレオノーラは立ち上がった。足元が一瞬だけ頼りなくなり、ナディアがすぐに手を添えた。支えられていることも分からないまま、エレオノーラは廊下へ出た。
控えの間には、祖母がいた。椅子には座っていなかった。窓の近くに立ち、外を見ているわけでもなく、ただそこに立っていた。扇は持っていない。昨日も持っていなかった。祖母が扇を持たずにいるだけで、部屋の中の支えがひとつ外れたように見えた。
「お祖母様」
「こちらへ」
祖母の声は低かった。エレオノーラは近づいた。部屋の奥には、ローレンがいた。彼もまた、いつも通りの礼をとったが、顔色は少し悪かった。机の上には書付があり、まだ封じられていない書状が何枚か重ねられていた。父の字ではなく、医師のものなのか、神殿のものなのかも、エレオノーラには分からなかった。
「セシリアに、短く会わせます」
祖母は言った。
その言葉を聞いた瞬間、喜びより先に恐怖が来た。短く、という言葉だけが先に胸へ入った。長くではない。母のそばにいられる時間が、初めから限られているのだと分かった。
「はい」
返事をしたつもりだったが、声が出ていたか分からなかった。祖母は一度、エレオノーラの顔を見た。いつもなら、背筋を伸ばしなさいと言われる場面かもしれない。けれど、今日は言わなかった。ただ、手を伸ばし、エレオノーラの肩に触れた。祖母の手は硬かった。母の手とは違う。けれど、震えてはいなかった。
「泣いてはいけないとは言いません」
祖母はそう言った。
「けれど、セシリアの前で、あなたがすべてを崩してしまえば、あの子はあなたを案じます。今、セシリアに背負わせるものを増やしてはなりません」
エレオノーラは頷いた。泣いてはいけないと言われるより、ずっと難しかった。泣いてはいけないなら、我慢すればよい。けれど、母に背負わせないようにするということは、自分の涙をただ隠すのではなく、母が自分を見た時に安心できる形を探さなければならないということだった。
「分かりました」
今度は声が出た。細かったが、出た。祖母は頷いた。
奥の部屋へ向かう廊下は、昨日よりも薬の匂いが濃かった。青く苦い薬草の匂いに、甘さを足そうとしたようなものが混じっていた。けれど、その甘さはかえって苦みを目立たせていた。扉の前には父が立っていた。オルドリックは、前に見たときよりもさらに声を落として医師と話していた。エレオノーラが近づくと、会話を止めた。医師の横には、神殿の施療師と思われる男がいた。白い衣に神殿の印をつけ、手には記録板を持っている。表情は整っていたが、部屋の熱や匂いから少し離れたところにいるように見えた。
父がエレオノーラを見た。いつもの父の目だった。けれど、目の下に薄い影があった。
「エレオノーラ」
「お父様」
「短くだ」
「はい」
父はそこで何かを言いかけたように見えた。けれど、言葉にしなかった。エレオノーラの肩へ手を置くことも、抱き寄せることもしない。ただ、扉の方へ目を向けた。その仕草だけで、行け、という意味が伝わった。
部屋の中は、思っていたより暗くはなかった。低く絞られた燭台がいくつか置かれ、窓掛けの隙間からは、夜が薄くなり始めたばかりの青白い気配が入っていた。けれど、明るさがあるから安心できるわけではなかった。寝台のそばには水差しが二つあり、白い布が何枚も置かれていた。前に入ったときよりも薬の器が増えていて、ひとつは空になり、もうひとつには半分ほど残っている。薬湯の色は濃く、匂いも、昨夜から鼻の奥に残っているものより強かった。エレオノーラはそこへ目を留めたが、すぐに母の顔へ戻した。
母は寝台に横になっていた。前に会ったときよりも顔が白く、頬の赤みは熱の色で、普段の柔らかな血色とは違っていた。髪は額に少し張りつき、唇は乾いている。それでも、エレオノーラが入ると、母は目を開けた。
「エレオノーラ」
声は細かった。けれど、母の声だった。エレオノーラはその一言だけで泣きそうになった。祖母の言葉を思い出し、息を小さく吸う。崩れてはいけない。母に背負わせるものを増やしてはいけない。
「お母様」
寝台のそばへ行くと、母が手を出そうとした。腕を上げる力が足りなかったのか、途中で少し止まる。エレオノーラはすぐにその手を取った。熱かった。昨日よりも熱かった。けれど、指の力は昨日より弱かった。
「リュシアンは……」
母が先に尋ねた。自分のことではなく、赤子のことを。
「今日、少しだけ会いました。小さい声でした。でも、元気だと聞きました」
母の目が少しだけやわらいだ。
「そう……よかった」
よかった、という言葉が、母の口からとても小さく出た。その言葉の中には、母の体の痛みも、熱も、疲れも、全部通り抜けたあとの安堵があった。エレオノーラは、母がリュシアンを心から案じていることを知った。知った瞬間、弟が生まれて嬉しかった自分と、母が熱を出して怖い自分が、もう一度同じ場所でぶつかった。
「お母様、熱が」
言いかけて、止まった。熱が高いです。苦しいですか。怖いですか。どれを言えばよいのか分からない。母は、かすかに首を振った。
「大丈夫、とは言えませんね」
その言葉に、エレオノーラは目を見開いた。母はいつも、娘の不安を消すための嘘をつかない。覚えていたはずなのに、今は、その正直さが怖かった。
「けれど、あなたの手を握れている」
母はそう言った。
「だから、今はそれでよいのです」
エレオノーラは母の手を両手で包んだ。熱い。弱い。けれど、確かにそこにある。
「わたくしは、何をすればよいですか?」
また同じ問いをしている。弟が生まれる前にも、祖母に聞いた。何かできることはあるか、と。今も同じだ。何もできないのが怖い。母の熱を下げることも、薬を選ぶことも、医師に命じることもできない。だから、せめて何か言われたい。
母は、息を少し整えてから答えた。
「リュシアンを、怖がらないで」
その言葉は、予想していなかった。エレオノーラは母を見た。
「怖がる……?」
「あなたは、優しいから。わたくしが今、こうして休んでいることで、あの子を見るたび、胸が痛むことがあるかもしれません」
母は、そこまで言って少し息を止めた。エレオノーラは手に力を入れそうになり、慌てて力を抜いた。母の手は弱い。強く握ってはいけない。
「でも、リュシアンは、あなたから何も奪っていません。あの子は、ただ生まれてきただけです」
エレオノーラの喉の奥が熱くなった。そんなことは思っていない。思っていないはずだ。弟を見た時、小さくて、壊れそうで、でも確かに生きていて、嬉しかった。けれど母の手が熱かった。奥の部屋の薬の匂いが強くなった。もし、この先、リュシアンの声を聞くたびに母の熱を思い出したら。そんなことを、母はもう見ていたのだろうか。
「怖がりません」
エレオノーラはすぐに言った。けれど、言ってから、その言葉が早すぎたことに気づいた。母は微笑んだ。熱の中でも、少しだけ困ったような、いつもの母の微笑みだった。
「怖くなったら、怖いまま、そばにいてあげなさい」
「怖いまま……」
「ええ。気持ちは、きれいに整ってからしか人へ向けられないものではありません。あなたが怖いままでも、あの子のそばにいることはできます」
エレオノーラは、声が出なかった。母の言葉は、エレオノーラの中でまだ形になっていない怖さのそばへ、静かに置かれた。困ったと思ってもよい。分からないものを急いで別の名前にしなくてもよい。リュシアンのそばにいることと、怖いと思うことは、同じ胸の中にあってもよいのだと、すぐには飲み込めないまま分かった。
「お母様も、怖いですか?」
その問いは、口に出してから怖くなった。聞いてはいけなかったのではないか。母を余計に苦しめるのではないか。だが、母は目を逸らさなかった。
「怖いです」
その答えは、静かだった。
「でも、あなたの顔を見ると、少しだけ息ができます」




