第十話 母①
リュシアンが生まれてから一日が過ぎても、母の熱は下がらなかった。昨日、まだ部屋に明るさが残っていたころに触れた手の熱さを、エレオノーラは何度も思い出した。寝台に横たわった母が、疲れた顔で自分を見て、リュシアンの名を告げたとき、その手に触れた。いつもの温かさではなかった。王宮へ行く日の馬車の中で、手袋越しに重ねてくれる手とも、夜に髪を撫でてくれる手とも違った。熱いのに、指先の力は弱く、それでも母は笑っていた。弟ですよ、と言った。母は大変なことを終えたのだから、疲れているのも、手が熱いのも、声が細いのも、すぐに休まなければならないのも当然なのだと、エレオノーラは何度も思おうとした。
けれど、夜になっても廊下の薬草の匂いは薄くならず、奥の部屋へ向かう足音は昼間よりさらに小さくなっていた。
寝台に横になっていても、眠りは浅いところでほどけてしまった。耳だけが廊下に置き去りにされているようで、布団の中に引き寄せた手には、昨日、リュシアンの布にそっと触れた感触がまだ残っている。赤子は小さかった。息をしていた。口元がかすかに動き、細い声が部屋の空気を震わせた。その同じ部屋で、母の手は熱く、母は笑っていた。
リュシアンの声を思い出すと胸の奥は確かに温かくなるのに、その温かさのすぐそばに、母の熱い手を思い出したときの怖さが残っていた。
二つが同じ場所にあることに、エレオノーラは慣れていなかった。王太子殿下に遠いと言われたときも、正しいことと痛いことが一緒にあった。北方の報告を聞いたときも、分からなさと忘れたくなさが一緒にあった。けれど、今夜のそれはもっと近かった。母のいる奥の部屋はこの屋敷の中にある。リュシアンもこの屋敷の中にいる。扉を開けて廊下へ出れば、そこから続く場所に二人ともいるのに、自分だけは寝台の中にいる。
やがて、どこか遠くで水差しの触れる音がした。ほんの小さな音だった。けれど、寝つけずにいた耳にははっきり届いた。エレオノーラは目を開けた。天蓋の布は暗く、窓の外の夜もまだ深い。まだ朝ではないはずなのに、屋敷の中には起きている人の気配があった。目を覚ましたのではなく、眠ることを諦めた人たちの気配だった。
廊下の足音は、奥の部屋へ急ぐものより少しゆっくりしていた。扉の前で止まり、すぐには声がかからない。金具が触れるかすかな音がして、扉が細く開いた。低く絞った燭台の灯りが先に入り、そのあとにナディアの白い袖が見えた。
眠っているなら起こさず、水差しだけを替えて下がるつもりだったのだろう。ナディアは寝台へ近づく前に、天蓋の内側へ目を向けた。そこで、エレオノーラがすでに体を起こしていることに気づき、ほんの少しだけ動きを止める。
「……お嬢様」
ナディアの声は低く、すぐ近くまで来る前に、部屋の中へそっと落ちた。
「眠れないの」
答えると、自分の喉が乾いていることに気づいた。ナディアは何も問い返さず、寝台のそばへ静かに膝をつき、水差しから杯へ水を注いだ。
「少し、お飲みください」
エレオノーラは杯を受け取った。陶器が冷たく、指に触れたその冷たさで、自分の手まで強ばっていたことに気づいた。水を飲むと、喉の奥がようやく動いた。
「お母様は……?」
ナディアはすぐに答えなかった。嘘をつくための沈黙ではなかった。どこまで言葉にしてよいかを、扉のこちら側で計っている沈黙だった。
「奥方様は、まだお休みになれておりません。医師と産婆がついております。旦那様も、先ほどまでお側にいらっしゃいました」
「先ほどまで?」
「今は、隣室で医師とお話しでございます」
医師と話す。父が。夜のこの時間に。
エレオノーラは杯を両手で持ったまま、指先に力が入りそうになるのを感じた。ナディアはそれを見て、杯を戻すように手を差し出した。無理に取るのではなく、落とす前に受け止める手だった。エレオノーラは杯を渡した。
「わたくしは、行けませんか?」
「今はまだ」
ナディアの返事は小さく、けれどはっきりしていた。今はまだ。その言葉に、昨日から何度も触れている。今はまだ母のそばへ行けない。今はまだリュシアンに長く会えない。今はまだ何も分からない。
「お母様は、わたくしを呼んでいませんか?」
聞いてしまってから、答えが怖くなった。もし呼んでいないと言われたら寂しい。もし呼んでいるのに行けないと言われたら、もっと怖い。ナディアは燭台の火を見て、それからエレオノーラへ視線を戻した。
「奥方様は、お嬢様には眠っていてほしいと仰せでした」
母らしいと思った。自分が熱で眠れないのに、娘には眠っていてほしいと言う。そういう人だ。けれど、その優しさが今は胸を刺した。
「目を閉じても、すぐ起きてしまうの」
声にすると、急に子どもの言葉になった。王宮で礼をとるときの言葉でも、公爵令嬢として整える言葉でもなかった。ナディアはそれを聞いて、ほんの少し表情を変えた。侍女としてではなく、夜に起きている子どもを見る人の顔だった。
「では、少しだけ椅子へ移りましょう。寝台の中で起きていると、余計にお苦しくなります」
ナディアはそう言い、厚手の肩掛けを持ってきた。エレオノーラは寝台を下り、室内履きに足を入れた。床は冷たくなかった。けれど、夜の床は昼間より静かで、自分の足音まで部屋に残るように思えた。窓際の椅子に座ると、ナディアが肩掛けをかける。布の重さが肩に落ちると、少しだけ体の形が戻ってくる。
部屋の外で、また足音がした。
今度はナディアも顔を上げた。足音は近づいてこず、廊下を奥へ進んでいく。奥の部屋の方角だった。エレオノーラは肩掛けの端を握った。足音が遠ざかるまで、二人とも話さなかった。




