第九話 生まれた日②
やがて、廊下の奥で、低い足音が近づいてきた。ローレンだった。彼は控えの間の前で足を止め、祖母へ礼をした。その礼の角度と、息の置き方を見て、エレオノーラは何かが変わったのだと分かった。祖母が立ち上がった。エレオノーラも続いた。喉が鳴りそうになり、彼女は唇を結んだ。
「大奥様、お嬢様」
ローレンの声は、いつもより少し低かった。けれど、その中に悲しみはなかった。エレオノーラはそれだけで、胸の奥が一度大きく動くのを感じた。
「奥方様が、若君をお産みになりました」
若君、という言葉は、エレオノーラの耳に届いてから、少し遅れて胸へ落ちた。弟だ。弟が生まれた。母のお腹の中にいた、まだ見ぬ命が、もう見ぬ命ではなくなった。彼は、若君と呼ばれている。ヴァルクレスト家の子として、屋敷の中に来た。
祖母は深く息を吸い、それから静かに頷いた。
「セシリアは」
その問いが出た瞬間、エレオノーラの胸はまた別の形に固くなった。ローレンはすぐには表情を緩めなかった。
「お疲れでいらっしゃいます。医師がついております。旦那様もお側に」
無事です、と言わなかった。けれど、亡くなったとも言わなかった。エレオノーラは、そこにある間を感じた。喜びの言葉のすぐ隣に、まだはっきりしない影がある。けれど今、最初に渡されたのは、弟が生まれたという知らせだった。祖母はその順番を崩さなかった。
「屋敷の者へ、静かに知らせなさい。騒がず、しかし祝うように」
「承知いたしました」
ローレンが礼をして下がると、祖母はエレオノーラを見た。
「弟が生まれました」
改めて言われると、エレオノーラは頷くことも忘れた。弟。若君。自分の弟。どの言葉も、まだ少しずつ違う場所にあった。
「お母様には、会えますか?」
「医師の許しを待ちます」
「弟には?」
「それも、少し待ちます」
また待つのだと思った。けれど、さっきまでの待つ時間とは違う。もう生まれている。まだ会えないだけだ。屋敷の空気は、ほんの少しずつ明るさを取り戻し始めていた。廊下の向こうで、侍女が目元を押さえながら礼をしているのが見えた。別の従僕は、声を抑えながらも、少しだけ足取りが早い。厨房のほうから、誰かが急いで火を整える音がする。まだ大きく喜んではいけないような空気の中で、それでも喜びは、床の下から温かい水が滲むように、屋敷の中へ広がっていった。
父が控えの間へ来たのは、それから少ししてからだった。オルドリックはいつものように崩れてはいなかった。けれど、顔に浮かんだ疲れは隠れていなかった。襟元は整っている。髪も乱れてはいない。だが、目の奥だけが、長い時間を越えてきた人の色をしていた。エレオノーラは立ち上がった。
「お父様」
父はエレオノーラの前で足を止めた。低い声が、いつもよりわずかに柔らかくなった。
「弟だ」
エレオノーラは頷いた。ようやく、少しだけ息ができた。
「お母様は?」
「疲れている。だが、お前に会いたがっている。少しだけだ」
父の言葉に、エレオノーラはすぐに動きかけたが、祖母の視線を感じて止まった。急いではいけない。母のそばへ行くなら、静かに。彼女は裾を整え、ナディアが差し出した小さな布で手を拭いた。なぜ手を拭くのかを考えるより前に、母と弟へ触れるかもしれないのだと分かった。
出産のために整えられた奥の部屋の近くへ進むと、空気が変わった。薬草の匂いと、温めた布の匂いと、開けられた窓から入る外の空気が混じっている。エレオノーラは、呼吸を小さくした。扉の前にいた侍女が父へ礼をし、そっと扉を開ける。中の光は柔らかかった。昼の強い光ではなく、布で少し和らげられた明るさだった。
母は寝台に横になっていた。いつもの柔らかな血色は薄く、額には汗が残っていた。けれど、目は開いていた。エレオノーラを見ると、疲れた中で小さく微笑んだ。その微笑みを見た瞬間、エレオノーラは喉の奥が熱くなるのを感じた。泣いてはいけないと思ったわけではない。ただ、泣くより先に、母のそばへ行かなければと思った。
「お母様」
「エレオノーラ」
声はかすかだったが、確かに母の声だった。エレオノーラは寝台のそばへ近づいた。そこに、小さな包みがあった。侍女に抱かれている。白い布の中から、かすかに動く気配がする。赤子の顔は、想像していたよりずっと小さかった。目は閉じられ、頬は赤く、口元が小さく動いている。泣いているわけではない。けれど、息をしている。その当たり前のことが、エレオノーラには驚くほど大きなことに見えた。
「弟ですよ」
母が言った。
エレオノーラは、赤子を見たまま頷いた。弟。さっきローレンが言った若君。父が言った弟。母が言った弟。その言葉が、ようやく白い布の中の小さな顔と結びついた。
「小さいです」
それしか言えなかった。母は疲れを残した顔で、少しだけ笑った。
「ええ。とても小さいですね」
侍女が少しだけ赤子を近づけた。触れてよいのか分からず、エレオノーラは父を見た。父は頷いた。祖母は扉の近くで見守っている。ナディアは少し後ろに控えていた。エレオノーラは指を伸ばし、布の端に触れた。赤子の肌には触れなかった。触れたら壊れてしまいそうだったからだ。布の中から、小さな声が聞こえた。泣き声と呼ぶには細く、けれど確かに命の声だった。
その声を聞いた瞬間、エレオノーラの中で、姉になるという言葉が少しだけ形を持った。誰かを守ると決めたわけではない。立派な姉になろうと誓ったわけでもない。ただ、この小さな声が屋敷の中に加わったのだと分かった。これから、母の私室へ行くとき、食堂で席を見るとき、廊下で侍女の足音を聞くとき、この声がどこかにある家になる。そう思うと、胸の奥がじわりと温かくなった。
「お名前は?」
エレオノーラは小さく尋ねた。
母は父を見た。父は静かに答えた。
「リュシアン」
リュシアン。エレオノーラは心の中でその名を繰り返した。北方の紙に書いた、名、という文字が戻ってくる。名を待っている。母がそう言った。今日、この子は名を持った。リュシアン。まだ目も開けていない弟が、その名でこの家に迎えられた。
「リュシアン」
声に出すと、赤子が小さく口を動かした。偶然なのだろう。それでも、エレオノーラには返事をされたように思えた。彼女は少しだけ笑った。母もそれを見て、目を細めた。
「あなたの弟です」
「はい」
返事は短かった。けれど、胸の中では、いくつもの言葉にならないものが動いていた。嬉しさも、怖さも、赤子の小ささも温かさも、母の白い顔も、いつもより静かな父の横顔も、扉の近くで息をつめている祖母の姿も、すぐ後ろに控えるナディアの手の位置も、すべてが同じ部屋の中にあった。
長くはいられなかった。医師が母を休ませる必要があると告げ、父がエレオノーラへ目を向けた。エレオノーラは礼をし、母の手に一度だけ触れた。その手は熱かった。出産のあとだからだろう、と最初は思った。母は疲れている。だから熱いのだろう。けれど、手を離したあとも、その熱さが指先に残った。
「また、来てもよろしいですか?」
母は小さく頷いた。
「ええ。あとで、また」
あとで。その言葉に安心しようとした。けれど、寝台のそばに立つ医師の顔は、喜びだけの顔ではなかった。父が医師へ何かを低く尋ね、医師がさらに低い声で答えた。エレオノーラには聞き取れなかった。聞き取れないまま、彼女は部屋を出た。
廊下へ出ると、扉の向こうからリュシアンの小さな声がまた聞こえた。細い声だった。けれど、確かにそこにいる。エレオノーラは立ち止まり、扉を振り返った。弟が生まれた。母は疲れている。母の手は熱かった。どれを一番に胸の中へ置けばよいのか分からない。
祖母が隣へ来た。父はまだ部屋の中に残っている。ナディアはすぐ後ろにいた。屋敷の中には、静かな喜びが広がっていた。けれど、その奥の部屋の扉の隙間からは、薬草の匂いが少し強く流れてきた。
「お嬢様」
ナディアが静かに呼んだ。
「お水をお持ちいたします」
エレオノーラは頷いた。喉が渇いていることに、そのとき初めて気づいた。ナディアがそばを離れる。祖母は扉から目を離さなかった。エレオノーラも同じように扉を見ていた。弟が生まれたのだから、喜んでよいはずだった。けれど、喜びだけで部屋が満ちているわけではないことを、彼女の体はもう感じていた。
その夜、リュシアンのために屋敷の厨房では小さな祝いの支度がされた。使用人たちは声を抑えながらも、目元に明るさを持っていた。ローレンは父の指示を受け、王宮と親族へ出す知らせの準備を進めていた。祖母は屋敷の者へ必要なことを伝え、騒ぎすぎぬよう、しかし新しい若君を迎えた家として不足のないよう整えた。エレオノーラはそのすべてを、少し遠いところから見ているような気持ちで受け取っていた。
その日の食卓は、いつもより少しだけ華やかに整えられていた。けれど、母の席は空いている。父も何度か席を外した。エレオノーラは、リュシアンという名を心の中で何度も言った。弟の名。今日から家の中に増えた名。そう思うたびに温かくなる。けれど、母の手の熱さを思い出すたびに、胸の中でその温かさの端が揺れた。
夜の支度のとき、ナディアはいつもより丁寧に髪を梳いた。エレオノーラは鏡の中の自分を見ていた。今日、弟が生まれた姉の顔なのだろうか。そう思ってみても、鏡の中の自分は昨日と大きく変わったようには見えない。少し疲れて、少し目元が静かになっているだけだった。
「ナディア」
「はい、お嬢様」
「リュシアンは、とても小さかったわ」
「はい」
「触れたら、壊れてしまいそうでした」
「赤子は、小さく見えても、きちんと生きようとなさいます」
ナディアの声はやわらかかった。エレオノーラは頷いた。リュシアンは、あの細い声で、小さな口元で、布の中でわずかに動いた手で、確かに生きようとしている。そのことを思うと、また胸が温かくなった。
「お母様の手が、熱かったの」
ナディアの櫛の動きが、ほんの少しだけ遅くなった。
「奥方様は、お産のあとでお疲れでいらっしゃいます」
「そうね」
エレオノーラは答えた。そう思うほかなかった。母は大変なことを終えたのだ。疲れているのは当然だ。熱いのも、きっとそのせいだ。そう思おうとした。けれど、ナディアの櫛が遅くなった一瞬を、彼女は覚えてしまった。
「明日になれば、少し楽になりますか?」
ナディアはすぐには答えなかった。少し考え、それから静かに言った。
「医師がついております。旦那様も、大奥様もお側にいらっしゃいます」
それは、楽になるという答えではなかった。けれど、不安を大きくしすぎないための答えだった。エレオノーラはそれ以上聞かなかった。聞けば、ナディアが答えられないことがある。今はまだ、聞いてよいことと、聞かないほうがよいことの境目が分からなかった。
寝台へ入ると、屋敷の中はいつもより静かだった。リュシアンの声は聞こえない。奥の部屋の音も届かない。けれど、静けさの中に、今日増えた命の気配だけは残っているようだった。エレオノーラは布団の中で手を開いた。白い布の端に触れた感触と、母の熱い手に触れた感触が、同じ手に残っている。
弟が生まれたこと、リュシアンという名がこの家に増えたこと、そしてお母様の手が熱かったこと。その三つの言葉が、眠りの手前でゆっくり並んだ。どれも本当だった。どれか一つだけを選んで、ほかを消すことはできなかった。エレオノーラは目を閉じた。喜んでよいのか、怖がってよいのか、まだ分からない。けれど、リュシアンの小さな声と、母の手の熱さを、どちらも忘れないでいようと思った。そう思いながら、彼女はその夜、なかなか眠りへ落ちることができなかった。




