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婚約破棄された悪役令嬢は、白銀の大公に最愛を捧げられる  作者: ごゅみ
第一部 婚約破棄

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第九話 生まれた日①

母のお腹の中にいる子のことを知ってから、エレオノーラは、季節の進み方をこれまでとは少し違うところで覚えるようになった。王宮から届く書状の封蝋や、机の上に並ぶ家門名簿や、妃教育で使う席次の板だけではない。母の私室の窓辺に置かれる花が、香りの強いものから淡いものへ変わる。長椅子の背に置かれるクッションが、ひとつからふたつになる。母が歩くとき、裾を持つ侍女の手の位置が少しずつ低くなる。父が母の部屋に入る前、扉の前で一度だけ足を止める時間が長くなる。そうした小さな変化は、誰かが大きな声で教えてくれるものではなかったが、屋敷の中で暮らしていれば、静かに積もっていくものだった。


初夏の光が濃くなり、庭の緑が深まり、やがて朝の空気に少し涼しさが混じるころになっても、エレオノーラの机の端には、北方の言葉を書いた紙が残っていた。橋、砦、道、薪、薬、冬、忘れるな。その横に、名、生まれる家、と書いた紙もある。書いた日の気持ちは、日が経つにつれて少し遠くなったが、紙に残った字は、遠くなったものをもう一度手元へ戻すためにあるようだった。エレオノーラは時々その紙を見て、母のお腹にいる子がまだ名前を持たないことを思った。弟か妹かも分からないころは、その子のことを考えようとしても、白い布の向こうにある温かさとしてしか受け取れなかった。けれど、やがて屋敷の中では、男の子かもしれないという言葉が小さく増え、母が笑いながら、まだ決めつけるものではありませんよ、と言うようになった。


その朝、エレオノーラはいつもより早く目を覚ました。目覚めた理由は、誰かが大きな音を立てたからではない。むしろ、屋敷の中が静かすぎたからだった。廊下の足音はある。侍女たちが動いていないわけではない。けれど、その足音は、王宮へ向かう朝の支度のように急ぎながら整っているものでも、普段の朝のように仕事がそれぞれの場所へ流れていくものでもなかった。扉の向こうを通る布の擦れる音が、いつもより低く、言葉を交わす声も短い。エレオノーラは寝台の中で目を開けたまま、帳の布の薄明かりを見ていた。まだ誰も部屋へ入ってきていない。それなのに、今日がいつもの朝ではないことだけは分かった。


やがて扉が控えめに叩かれ、ナディアが入ってきた。彼女はいつも通り礼をしたが、礼をとる前の一瞬に、扉の向こうの気配を聞いてきたような静けさがあった。エレオノーラは起き上がり、寝台の上で手をそろえた。


「ナディア」


「はい、お嬢様」


「お母様のことですか?」


問いは短く出た。ナディアはすぐに答えなかった。嘘をつくためではなく、どこまでを今伝えるべきか考えているようだった。エレオノーラは、その沈黙の間に喉が乾くのを感じた。怖いのか、ただ緊張しているのか、自分ではまだ分からない。


「奥方様は、今朝から産室として整えられた奥の部屋にお入りでございます」


出産のために整えられた奥の部屋。エレオノーラは、その言葉を頭の中で一度だけ繰り返した。これまでも聞いていた言葉だった。祖母が支度を確認するとき、ローレンが取次をするとき、侍女たちが声を落として言うことがあった。けれど、実際に母がそこにいると言われると、言葉は紙の上の準備ではなく、家の中で進んでいる出来事になった。


「もう、生まれるのですか?」


「そのときが近いと、医師と産婆が申しております」


ナディアの声は落ち着いていた。けれど、落ち着いているからこそ、エレオノーラは、自分の中だけが急に騒がしくなったことを知った。弟か妹が生まれる。まだ見ぬ子が、今日、本当に母の腕の中へ来るかもしれない。そう思った瞬間、嬉しさが胸の中で明るく動いた。けれど同時に、母は今どこにいて、痛くないのか、怖くないのか、自分は行ってよいのか、行ってはいけないのか、分からないことが次々に浮かんだ。


「わたくしは、お母様のところへ行けますか?」


「今はまだお控えくださいませ」


拒まれたと分かって、エレオノーラは一瞬だけ唇を結んだ。ナディアはそれを見て、すぐに言葉を足さなかった。足されれば慰めになるかもしれないが、今は慰めよりも、はっきりした形が必要だったのだろう。彼女は寝台の近くへ湯を置き、帳を片側だけ上げた。


「奥方様から、お嬢様は朝の支度を整え、朝食を少しでも召し上がるようにと仰せつかっております。大奥様も同じお考えでございます」


母がそう言ったのなら、従わなければならない。そう思っても、身体はすぐには動かなかった。エレオノーラは布団の上に置いた手を見た。七歳の手は、少しずつ大きくなってきたはずなのに、今朝はとても小さく見えた。母のために何もできない手。まだ見ぬ子のためにも、何をすればよいのか分からない手。これまでなら、姉になるとは少しずつ覚えるものだと父に言われた言葉を思い出せた。けれど、今日になると、少しずつ覚えている時間がもう終わってしまったような気がした。


それでも、ナディアが差し出した室内履きに足を入れると、床の冷たさが体へ戻ってきた。顔を洗い、髪を整え、朝のドレスに袖を通す。ナディアは華やかなものを選ばなかった。淡い灰白の布に、細い青の刺繍が入ったものだった。母の部屋へすぐに向かえなくても、家の中で乱れた姿でいるわけにはいかない。けれど、祝いの席に出るような装いでもない。その中間を、ナディアは選んでいた。エレオノーラは鏡の前で、髪に小さな銀のピンが差されるのを見ていた。顔は静かだった。静かに見えるだけで、胸の中は何度も母のいる方へ走ろうとしている。


「ナディア」


「はい、お嬢様」


「お母様は、わたくしのことを考えて、朝食を食べるようにと仰ったのですね」


「はい」


「では、食べます」


ナディアはほんの少しだけ目を伏せた。いつものように、ようございました、とすぐに言わなかった。その沈黙に、侍女としての安堵と、ひとりの年若い女性としての心配が混じっているように見えた。エレオノーラは、それ以上は聞かなかった。今は、自分が聞けばナディアが答えにくくなることもあるのだと、少しずつ分かるようになっていた。


朝食は母の私室ではなく、小さな食堂に用意されていた。母の席は空いている。父の席も空いていた。エレオノーラの前には、温かいミルクと、柔らかく煮た果物と、薄く切られたパンが置かれている。食べやすいものばかりだった。誰かがそう考えてくれたのだろう。エレオノーラは匙を持った。けれど、口へ運ぶまでに少し時間がかかった。部屋の外では、従僕の足音が一度近づき、すぐに遠ざかった。いつもなら食器の音がもっと聞こえるはずの朝なのに、今日は屋敷全体が息を小さくしているようだった。


一口目の果物は、甘いのに味が遠かった。二口目で、少しだけ舌に戻ってくる。母が食べなさいと言った。食べることも、今の自分にできることのひとつなのだろう。そう思いながら、エレオノーラはゆっくり食べた。急ぐ必要はない。急いでも、出産のために整えられた奥の部屋の扉が早く開くわけではない。けれど、ゆっくり食べても、胸の中の落ち着かなさが消えるわけではなかった。


食堂を出ると、廊下の向こうに祖母がいた。アデライードは濃い青紫のドレスを着て、扇も持っていなかった。いつもなら手にあるものがないだけで、印象が少し違う。背筋は伸びている。けれど、立ち止まっている姿には、王宮で人々を見渡すときとは別の硬さがあった。


「エレオノーラ」


「お祖母様」


エレオノーラは礼をした。祖母はそれを受けたあと、少しだけ目を細めた。


「朝食は」


「少し、いただきました」


「よろしい。今日、あなたが落ち着かないのは当然です。ただし、屋敷の者があなたの顔を見ることも忘れてはなりません」


エレオノーラはすぐには意味をつかめなかった。祖母は廊下の向こうを見た。そこには、侍女が二人、布を抱えて足を止めている。エレオノーラに気づくと、深く礼をしてからまた動き出した。その足取りは静かだったが、急いでいた。


「あなたが大きく揺れれば、セシリアを案じる者たちの心も揺れます。泣くなと言っているのではありません。怖がるなとも言いません。ただ、怖いなら、怖いまま、どこへ立つかを選びなさい」


祖母の言葉は、朝の冷たい水のように届いた。優しく包む声ではない。けれど、突き放す声でもなかった。エレオノーラは頷いた。今はその奥の部屋に入れない。母の手を握れない。赤子を見ることもできない。ならば、今いる廊下で、怖いまま立つしかない。そう思うと、少しだけ息がしやすくなった。


「お父様は?」


「セシリアの近くにいます。必要なときには医師やローレンと話すでしょう」


「お祖母様は?」


「屋敷を見ています」


それだけ言って、アデライードは歩き出した。エレオノーラはその後ろ姿を見送った。祖母は母のそばへ行きたいのだろうか。それとも、行きたいからこそ、屋敷を見ているのだろうか。どちらかは分からなかった。けれど、祖母が何も感じていないわけではないことだけは、扇を持たない手の硬さで分かった。


午前の時間は、長かった。妃教育の本を開くことはできなかった。隣国語の教本も同じだった。字を追おうとしても、母のいる方角へ耳が行ってしまう。だからエレオノーラは、机に向かう代わりに、北方の言葉を書いた紙を取り出した。橋。砦。道。薪。薬。冬。忘れるな。名。生まれる家。字は変わらずそこにある。王宮で聞いた言葉も、北方大公家が持ってきた薬草の匂いも、母のお腹にいる子のことも、今は全部が同じ屋敷の中にあるように感じた。


エレオノーラは、蝋筆を持った。何を書けばよいのか分からなかった。弟か妹、とはまだ書けない。母、と書くのも違う。彼女はしばらく紙を見つめたあと、何も書かずに蝋筆を置いた。書けないこともある。そう思うと、少しだけ悔しかった。分からないものを分からないまま聞けと父は言った。けれど、分からないものを紙に書くことすらできないときもあるのだと、今日初めて知った。


昼近くになって、廊下の空気が少し変わった。足音が増えたのではない。声が大きくなったわけでもない。けれど、屋敷の奥から流れてくる気配が、今までより少し深くなった。ナディアが扉の近くで顔を上げた。エレオノーラも同じように顔を上げる。すぐに何かが知らされたわけではない。けれど、待つ時間の中には、何も起きていない時間と、何かが進んでいる時間があるのだと、その時はっきり分かった。


「お嬢様」


ナディアが静かに言った。


「大奥様のお許しがあれば、近くの控えの間まで参りましょう」


「お母様の近くですか?」


「出産のために整えられた奥の部屋の前ではございません。ですが、お知らせが届きやすい場所でございます」


エレオノーラは頷いた。急いで立ち上がりそうになり、すぐに裾を整えた。走ってはいけない。足音を立ててはいけない。けれど、急ぎたい気持ちは止まらなかった。ナディアはその歩幅に合わせて、少しだけ早く歩いた。廊下を曲がると、母の私室へ続く通路はいつもより人の気配が多かった。けれど、誰も騒がない。白い布を抱えた侍女が礼をし、医師付きの者が書付を持って通り過ぎ、ローレンが奥の扉の近くで低い声で何かを確認している。


控えの間には、祖母がいた。椅子に座ってはいたが、背もたれにはほとんど身を預けていなかった。エレオノーラを見ると、来なさいとも、待ちなさいとも言わず、隣の低い椅子を目で示した。エレオノーラはそこへ座った。母のいる部屋は、すぐ壁の向こうではなく、少し離れた廊下の先にあった。声は聞こえず、音もほとんど届かなかった。ただ、屋敷の中の誰もがそちらへ意識を向けていることだけが分かる。


「お祖母様」


「何です」


「わたくし、何かできることはありますか?」


祖母はすぐには答えなかった。膝の上に置いた手が、ほんの少し動いた。強い人でも、すぐに答えられないことがある。エレオノーラはその手を見て、祖母も待っているのだと思った。


「今は、待つことです」


「待つことも、できることですか?」


「そうです。勝手に動かず、呼ばれたときに動けるようにしていることは、ただ何もしないこととは違います」


エレオノーラは、膝の上の手をそろえた。待つこと。ただ座っているだけではない。呼ばれたときに動けるように、体を整えておくこと。喉が渇いたら飲む。気持ちが乱れたら息をする。もし母が自分を呼んだなら、泣きながら駆け出すのではなく、ちゃんと立って行く。それが今の自分にできることなら、待つことにも形があるのだと思った。


そこからの時間は、さらにゆっくり流れた。窓の外の光が少しずつ動き、壁にかかる影の形が変わる。途中でナディアが水を持ってきた。エレオノーラは少しだけ飲んだ。祖母も飲んだ。誰も、「まだですか」とは言わなかった。言っても仕方がないからではなく、その言葉が扉の向こうへ届いてはいけないような気がしたからだった。

次回は20時ごろに投稿出来たらと思います

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