表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約破棄された悪役令嬢は、白銀の大公に最愛を捧げられる  作者: ごゅみ
第一部 婚約破棄

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

26/64

第八話 まだ見ぬ命のために②

数日後、北方大公家からヴァルクレスト公爵家へ、正式な訪問があった。王宮へ上げた報告に関して、国王から求められた補足の写しを、重臣であるオルドリックが確認することになったのだとローレンが説明した。エレオノーラには直接関係のない用件だった。だが、父は昼過ぎに彼女を呼んだ。書斎ではなく、家族用の小さな閲覧室だった。大きな窓のある部屋で、外の庭木が風に揺れる音がかすかに聞こえる。重い会談のためというより、書類を広げて確認するための部屋だった。


ギルベルト・アシュベルはオルドリックと向かい合って座り、机の上には王宮で見たものより小さな地図と、いくつかの書付が置かれていた。ヴィクトルも同行していた。今日は王宮ではない。だが、彼は北方大公家の嫡男としてそこにいた。初夏の公爵家の閲覧室に立っていても、彼の装いには北方の気配が残っていた。濃い青灰の上着、銀の留め具、袖口に見える厚手の布。白銀の髪は王宮で見たときより少し柔らかく光っていたが、彼の周囲だけ、部屋の温度がわずかに違うように思えた。


エレオノーラは礼をとった。


「アシュベル大公閣下、ヴィクトル様。本日はようこそお越しくださいました」


ギルベルトはオルドリックへ向けるのとは違う、少し和らげた礼を返した。ヴィクトルも過不足なく礼をする。エレオノーラはその動きを見ながら、今日の自分は王宮の控えの席ではなく、ヴァルクレスト家の娘としてこの部屋にいるのだと思った。けれど、机の上に広げられた北方の地図を見ると、胸の中にまた王宮で北方の報告を聞いたときの空気が戻ってくる。


「エレオノーラ」


父が呼んだ。


「先日、北方の報告で分からぬ言葉を書き留めたと聞いた」


「はい」


「アシュベル大公閣下が、北方の薬草と備蓄について、いくつか実物を持ってこられた。見るだけなら許す。分からぬことがあれば、分からぬと言え」


父の言葉に、エレオノーラは頷いた。机の端には、小さな布包みがいくつか置かれていた。乾かした葉、根、粉にしたもの。匂いはそれぞれ違っていて、母の私室で飲む薬草茶よりもずっと強いものもある。ギルベルトが一つずつ名前を言ったが、エレオノーラは半分も覚えられなかった。ただ、その中の一つが熱を下げる薬草だと聞いたとき、自然に母のことが浮かんだ。母は病ではない。けれど、体を大切にしなければならない時期にいて、母のお腹にいる、まだ見ぬ子のことも自然に浮かんだ。


「熱があるときにも使うのですか?」


エレオノーラは思わず尋ねた。ギルベルトは頷いた。


「用いることはある。ただ、薬草は葉ひとつ、量ひとつでも扱いを誤れば、助けるはずの者の体を損ねることがある。だから北方では、どの村でも扱いを任せる者を決め、誰がどの薬草を持ち、いつ使ったのかを残すようにしている」


村ごとに、という言葉を聞いて、エレオノーラは前に書いた紙の上の文字を思い出した。薬。村。冬。橋。どれも別々に見えていたものが、少しずつ同じ場所へ近づいていく。


「冬に、橋が使えなくなって、薬が届かない村では……」


そこまで言って、エレオノーラは口を閉じかけた。自分はまた、よく知らないことを言おうとしている。北方のことを軽く聞いてはいけない。けれど、母のお腹の子のことを聞いたあとでは、薬が届かないという言葉を、ただ報告の中の一つとして置けなくなっていた。彼女はもう一度息を吸い、言葉を選んだ。


「その村に、赤子が生まれる家があったら、どうするのですか」


部屋の空気が、ほんの少しだけ変わった。父は黙っていた。ギルベルトもすぐには答えなかった。問いが無礼だったのかと、エレオノーラは手袋の中で指を動かした。けれど、誰も叱らなかった。ギルベルトは机の上の地図へ目を落とし、ゆっくり答えた。


「冬前に分かっていれば、先に届ける。薬だけではなく、布や薪、塩、乾いた食べ物もあわせて送る。子を産む者がいる家には、村の中でも支える者を決めておく」


産む者。エレオノーラは、母の顔を思い出した。長椅子で手を包んでくれた温かさ。あなたは姉になります、と言った声。屋敷には父がいて、祖母がいて、ナディアがいて、ローレンがいて、医師を呼ぶこともできる。けれど、北方の村では橋が使えなくなれば、近くに見えても届かない場所になる。母と同じようにお腹に子がいる人がいて、薬も薪も届かなかったら。


「冬になる前に、分からなかったら……?」


声は小さくなった。ギルベルトの目が、わずかに細くなった。答えを選んでいるのだと分かった。だが、その前にヴィクトルが口を開いた。


「だから数える」


エレオノーラは顔を上げた。ヴィクトルは地図を見ていた。けれど、その声は彼女の問いへ返されたものだった。


「生まれる家を、冬の前に数える。病人も、年寄りも、赤子も。道が使えるうちに数えなければ、雪が来てからでは間に合わない」


言い方は静かだった。けれど、そこには王宮の報告の間で聞いたときよりも、少しだけ近い重さがあった。エレオノーラはその言葉を、母のお腹にいる子のことと一緒に受け取った。数える、という言葉は冷たく聞こえる。人を数字にするように聞こえる。けれど、北方では、数えることがその人へ荷を届けるための始まりなのだ。


「数えることは、忘れないためですか?」


問いは自然に出ていた。ヴィクトルは、今度は彼女を見た。氷青の瞳は、王宮で見たときと同じように静かだったが、ただ冷たいわけではなかった。


「忘れた家には、何も届かない」


エレオノーラは息を飲んだ。その短さは怖かった。けれど、怖いからこそ、目を逸らしてはいけないと思った。


ギルベルトが、息子の横顔を一度見た。それから、オルドリックへ向き直る。


「今年、冬前に出す報告には、出産を控えた家の数も改めて入れさせる。薬の配分と合わせて、村役人の記録も照合する」


父は頷いた。


「ヴァルクレスト家からも、神殿側へ記録の確認を求める」


エレオノーラは驚いて父を見た。自分の問いが、大人たちの話へ入ってしまった。自分はただ、母のお腹にいる子を思い、北方の村にいるかもしれない誰かを思っただけだった。それが書類や記録や神殿の話へつながるとは思っていなかった。急に怖くなり、口を開きかける。


「わたくし、余計なことを……」


「余計ではない」


ヴィクトルが言った。エレオノーラは言葉を止めた。


「聞かなければ、そこには印がつかない」


その言葉は、叱責でも慰めでもなかった。地図の上に記された小さな印のように、ただそこに置かれた。エレオノーラは何も返せなかった。余計ではない、と言われたことが、胸の中でゆっくり沈んでいく。王宮で褒められた時のような明るさではない。けれど、自分の問いを軽く扱われなかったことだけは分かった。


ギルベルトとオルドリックの話は、その後もしばらく続いた。エレオノーラは途中で母の私室へ戻るよう言われ、礼をして部屋を出た。廊下へ出る前、彼女は一度だけ振り返った。ヴィクトルは地図の上の一点を見ていた。エレオノーラのほうを見ていたわけではない。けれど、彼女の問いがまだ部屋の中に残っているように思えた。


母の私室へ戻ると、母は長椅子で待っていた。エレオノーラが何を聞いてきたのか、すぐには尋ねなかった。ただ、エレオノーラの顔を見て、膝の上の白い布を少しだけ寄せた。


「こちらへ」


エレオノーラは母のそばに座った。部屋の中は静かで、閲覧室の地図や薬草の匂いとは違う。母の髪からは、いつもの柔らかな香りがした。母のお腹にいる子がまだどんな顔をしているのか、どんな声で泣くのか、何も分からない。けれど、エレオノーラはさっき聞いた言葉を思い出した。数えること、そして、忘れた家には何も届かないということ。


「お母様」


「はい」


「北方では、生まれる子のいる家も数えるのだそうです」


母は少しだけ目を伏せた。


「そうですか」


「忘れたら、何も届かないから、と」


その言葉を口にすると、少し苦しくなった。母はエレオノーラの手を取り、自分の膝の上へ置いた。


「では、その子たちも、忘れられないように名を待っているのですね」


名を待っている。エレオノーラは母の言葉を聞いて、胸の中の怖さが少しだけ形を変えるのを感じた。まだ見ぬ弟か妹にも、いつか名がつく。北方の村にいるかもしれない子にも、きっと名がある。紙に印をつけることは、その子を数字にするためではなく、忘れないために始まるのかもしれない。


母の私室を出てからも、その言葉はエレオノーラの中に残っていた。夕食を終え、寝室へ戻るころになっても、数える、という響きは消えなかった。その夜、エレオノーラは机に向かった。


北方の言葉を書いた紙の横に、新しい紙を置く。橋。砦。道。薪。薬。冬。忘れるな。その並びを見てから、彼女は蝋筆を取り、少し迷ってから新しい紙に、まず「名」と書いた。それから少し下に、「生まれる家」と続けた。


字は少し不揃いだった。けれど、今日の言葉を忘れないうちに置いておきたかった。ヴィクトルの声も、父とギルベルトが記録の話をしたことも、母が名を待っていると言ったことも、全部を理解できたわけではない。ただ、母のお腹にいる命を知った日、北方にもまだ見ぬ命があり、その命を忘れないために大人たちが動くのだと知った。


エレオノーラは紙の上に手を置いた。机の上には、北方の紙と、家門名簿と、封蝋の見本が並んでいる。どれもまだ全部は分からない。けれど、分からないから閉じてしまうのではなく、分からないままでも手を離さずにいたいと思った。自分が姉になることも、王太子の婚約者であることも、北方の村のことも、今はまだ一つの場所には収まらない。


部屋の外で、ナディアが静かに湯を用意する音がした。エレオノーラはその音を聞きながら、母のお腹にいる子が生まれるころには、今日より少しだけ何かを分かっていたいと思った。誰かの名を忘れないために、何を覚えればよいのか。そう考えているうちに、蝋筆の先が紙の上で止まった。


その日の終わりに残ったのは、喜びだけでも、怖さだけでもなかった。母の中にいるまだ見ぬ命と、北方の雪の前に数えられる命と、ヴィクトルが置いた言葉が、互いに離れたまま、けれど同じ机の上に並んでいた。エレオノーラはそのすべてに、まだ名前をつけられなかった。ただ、忘れないように、紙の端をそっと押さえていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ