第八話 まだ見ぬ命のために①
ブックマークや評価をいただき、誠にありがとうございます。
拙い作品ではありますが、こうして反応をいただけたことが本当に嬉しく、大きな励みになっております。
進行がじれったく感じられる部分もあるかと思いますが、物語は少しずつ丁寧に進めてまいりますので、ゆっくりお付き合いいただけますと幸いです。
改めまして、読んでくださり、反応を届けてくださった皆さまに心より感謝申し上げます。
本当にありがとうございます。
北方の言葉を書いた紙は、それからもしばらく、エレオノーラの机の端に置かれていた。橋。砦。道。薪。薬。冬。忘れるな。蝋筆で書いた字は、書いた日の夜より少しだけ薄く見えるようになったが、言葉そのものは薄くならなかった。朝の支度でナディアが机の上を整えるたび、その紙だけは勝手に下げずに置いておいてくれた。家門名簿や封蝋の見本とは違い、まだ学びの道具として分類できるものではない。けれど、ただの落書きとして片づけることもできない。そういうものが、机の隅にひとつあるだけで、エレオノーラは王宮で北方の報告を聞いたときの声を、毎朝少しずつ思い出した。
橋が使えなければ、近くても届かない。
その言葉は、ヴィクトルの声で残っていた。けれど、声を思い出すたびに白銀の髪や氷青の瞳だけが戻ってくるわけではなかった。地図の上では小さな点にしか見えなかった村、雪解けの水で緩む橋、冬の前に運ばなければならない薪と薬が、まだ形にならないまま胸の中に置かれている。分からない。けれど、分からないからといって、紙を閉じてよいものではない。父に言われた、分かった顔をして持ち帰るな、という声と、ヴィクトルに言われた、忘れるな、という声は、まったく違う響きなのに、机の上では同じ紙の近くに並んでいるようだった。
その朝、母の私室へ向かう廊下には、いつもより少しだけ甘い薬草の匂いが残っていた。病の匂いではない。湯に葉を浸したときの青さと、蜂蜜を少し混ぜたような匂いだった。エレオノーラは足を止めかけたが、隣のナディアが静かに目を伏せたので、何も尋ねずに歩いた。母の私室の扉の前では、ローレンが控えていた。朝から母の私室の前にいるのは珍しい。けれど、彼の表情に差し迫ったものはなかった。むしろ、何かを乱さないように部屋の外の空気まで整えているように見えた。
「おはようございます、お嬢様」
「おはよう、ローレン。お母様は?」
「奥方様は、旦那様と大奥様とご一緒でございます。お嬢様がお越しになりましたらお通しするよう、仰せつかっております」
父と祖母が、母の私室にいる。エレオノーラは少しだけ背筋を伸ばした。ローレンは扉を叩き、中から返事があるのを待ってから開けた。部屋の中は明るかった。窓掛けは半分だけ開かれ、初夏の白い光が床にやわらかく落ちている。母は長椅子に腰を下ろしていた。背中には淡い薄青のクッションが置かれ、膝には白い布がかけられている。顔色は悪くない。けれど、いつもより少しだけ動きを小さくしているように見えた。
オルドリックは窓際に立ち、祖母は母の向かいの椅子に座っていた。二人とも、深刻な顔をしているわけではない。むしろ、部屋の中にはどこか静かな温かさがあった。エレオノーラは入った瞬間に、その空気の名前を知らないと思った。叱責でもなく、病でもなく、祝いの声ほど華やかでもない。何か大切なものを、まだ大きな声で言わないようにしている部屋だった。
「エレオノーラ、こちらへ」
母が呼んだ。エレオノーラは礼をしてから近づいた。母は手を伸ばし、エレオノーラの手を取った。手はいつも通り温かかった。熱すぎることも、冷たいこともない。その温かさに触れて、エレオノーラは少しほっとした。
「お母様、お加減が悪いのですか?」
「いいえ。そうではありません」
母はそう言って、父へ一度視線を向けた。オルドリックは小さく頷いた。祖母は扇を閉じたまま、静かにこちらを見ている。母は、エレオノーラの手を両手で包み直した。
「あなたに、家のことを一つ伝えます」
家のこと。エレオノーラはその言葉を聞いて、少しだけ肩に力が入るのを感じた。王宮からの知らせでも、父の書斎で聞くような家門の話でもない。母の私室で、母がエレオノーラの手を包んだまま言う家のこと。彼女は返事をしようとして、すぐには声が出なかった。母は急かさず待ってくれた。
「はい」
ようやく答えると、母は微笑んだ。
「あなたは、姉になります」
その言葉は、部屋の中に静かに置かれた。エレオノーラは、すぐには意味をつかめなかった。姉。自分が。母の手の中にある自分の手が、小さく動く。目は母の顔から離れず、それから母の膝にかけられた白い布へ落ち、また顔へ戻った。母は笑っていた。父は窓際で表情を崩してはいないが、いつもの書斎にいるときとは違う目をしていた。祖母の背筋は伸びたままだが、扇を持つ手がほんの少しだけ緩んでいる。
「弟か、妹が……?」
「ええ。まだ、どちらかは分かりません」
母の声は、喜びを隠していなかった。けれど、その喜びは弾むものではなく、胸の奥で温めてきたものをそっと娘に分けるような声だった。エレオノーラは、言葉を探した。おめでとうございます、と言うのは違う気がした。嬉しいです、と言えばよいのかもしれない。けれど、嬉しいという言葉の前に、母の手を見た。これまで自分を撫でてくれた手。王宮から帰る馬車の中で、手袋の上に重ねてくれた手。今、その手の向こうに、自分の知らない命がいる。
胸の中に、温かいものが広がった。けれど、その温かさの端には、小さく心細いものもあった。母の温かさがなくなるわけではない。そう分かっている。分かっているのに、母の中に自分の知らない誰かがいると思うと、母が少し遠くなるような感じがした。その感じに名前をつける前に、母の指がエレオノーラの手を軽く包んだ。
「驚かせましたね」
「……少し」
「嬉しいだけでなくてもよいのですよ」
母は、エレオノーラが何も言う前にそう言った。エレオノーラは顔を上げた。母はいつものように、娘の中でまだ形になっていないものを急いで整えようとはしなかった。
「嬉しいです」
声にすると、その言葉は本当だった。
「でも、まだ、どうしたらよいのか分かりません」
「それでよい」
答えたのは父だった。オルドリックは窓際から離れ、母が座る長椅子のそばへ来た。低い声はいつも通りだったが、エレオノーラを見る目は少し柔らかかった。
「今日からすぐ姉らしくあれと言われても、分かるものではない。生まれる前から、少しずつ覚えればよい」
エレオノーラは、少しずつ、という言葉を胸の中で受け取って頷いた。王宮の席次も、言葉の距離も、北方の報告も、最初から全部は分からなかった。姉になることも、同じなのかもしれない。けれど、王宮のことや北方のことと違って、これは家の中のことだった。母のすぐそばにあることだった。そのぶん、分からないことがいっそう近く感じられた。
少し間を置いて、祖母が口を開いた。
「屋敷の中も、少しずつ支度を変えます。あなたの暮らしが急に変わってしまうわけではありません。ただ、セシリアの体を第一に考える日が増えるでしょう。あなたも、まだ幼い身です。できることと、できないことを取り違えないように」
祖母の言葉は、この場でも形を崩さなかった。エレオノーラは、そのことに少し安心した。祖母がいつも通りでいてくれると、部屋の中にある知らない温かさも、少し形を持つように思えた。
「わたくしに、できることはありますか?」
「あります」
母が答えた。
「わたくしのそばで、いつも通りに話してくれること。あなたが王宮で見たこと、机に向かって覚えたこと、分からなかったことを、これまで通り聞かせてくれること。それから、無理に姉らしくしようと急がないこと」
「姉らしくしなくてもよいのですか?」
「いつか、自然にそう呼ばれる日が来るでしょう。けれど、今日のあなたは、今日のあなたでよいのです」
母の言葉に、エレオノーラは手の中の温かさをもう一度確かめた。今日の自分。七歳で、王太子の婚約者で、公爵令嬢で、北方の言葉をまだ少ししか分からず、そして、これから姉になる子。どれも一つの言葉だけでは収まらない。けれど、部屋の中で誰もそれを急いで一つにしようとはしなかった。
その日から、エレオノーラは母の私室へ行くとき、扉の前で一度だけ足を止めるようになった。急に入ってはいけないからではない。母が休んでいることもあるし、自分の中の気持ちを置くためでもあった。母の手に触れるとき、その奥にまだ見ぬ命があると思うと、不思議に静かになる。嬉しいと思うのに、まだ顔も声も知らない。弟か妹かも分からない。ただ、その子が来る未来が、屋敷のどこかにもう入り込んでいる。
北方の言葉を書いた紙にも、変化があった。エレオノーラはその紙を捨てず、新しい紙を一枚足した。橋、砦、道、薪、薬、冬。そこにすぐ、まだ見ぬ子のことを書き足すのは、なぜかためらわれた。北方の村にいるかもしれない小さな命と、母のお腹にいる子を、同じ紙に並べてよいのか分からなかったからだ。けれど、薬、という文字を見るたびに、母の私室に残る薬草茶の匂いを思い出した。薪、という文字を見るたびに、冬の部屋で暖炉の火に手を伸ばす小さな子のことを思った。はっきり想像できるわけではない。けれど、言葉の向こうに人がいるのだと知ってしまうと、紙の上の文字はもうただの文字には戻らなかった。
予定より遅れてしまい、申し訳ありません……。
「書き終えるまで寝ないぞ!」と思っていたのですが、気づいたら寝落ちしてしまっていました……。
②はもう少々お待ちいただけますと幸いです。
次回は12時〜13時頃に投稿できればと思っております。
お待たせしてしまいますが、どうぞよろしくお願いいたします。




