第七話 北方②
報告の終わりに近づくころ、ギルベルトは次の冬へ向けた備蓄の話をした。薪、穀物、塩、薬、布、鉄の釘。エレオノーラには、薪や穀物は分かる。塩も分かる。薬も、少しは分かる。けれど、鉄の釘が冬支度に並ぶことは分からなかった。砦を直すためだろうか。橋を補強するためだろうか。そう考えていると、ヴィクトルが地図の上の一点を見ていた。その視線は、王宮の者たちに向けられたものではない。そこにある何かを、すでに知っている者の目だった。
報告の場が終わると、正式な礼が交わされ、重い空気が少しずつほどけた。茶席のあとのような笑い声はなかった。王都の貴族たちは低い声で言葉を交わし、文官たちは報告書を束ね、北方大公家の者たちは地図の位置を確認している。エレオノーラは席を立ったが、すぐには動けなかった。足が疲れていたわけではない。言葉のほうが重かった。橋、砦、薪、薬、冬。どれも普通の言葉のはずなのに、今日聞いたあとでは少し違っている。
「分からなかったか」
声がして、エレオノーラは顔を上げた。ヴィクトルが近くにいた。控えの間で声をかけられたときのように、不意を突かれたわけではなかった。彼は北方大公のところへ戻る途中で、彼女が地図から目を離せずにいることに気づいたのかもしれない。
エレオノーラは、すぐに答えられなかった。分からなかった、と言うことは恥ずかしい。王宮で、北方大公家の嫡男に向かって、自分は分からなかったと告げることになる。けれど、父に言われていた。分かった顔をして持ち帰るな。
「全部は、分かりませんでした」
そう言うと、ヴィクトルは笑わなかった。驚きもしなかった。
「全部分かるなら、報告を聞く必要がない」
それだけだった。
言葉は短かったのに、エレオノーラは少し息をしやすくなった。分からないことを責められなかった。慰められたわけでもない。ただ、分からないから聞くのだと置かれた。それが不思議に、先ほどまでの地図よりも分かりやすかった。
「覚えたいなら、言葉だけ持ち帰ればいい」
「言葉だけ、ですか」
「橋。砦。道。薪。薬。冬。そこから聞けばいい」
ヴィクトルは、報告書へ目を向けるでもなくそう言った。まるで、それらが北方を覚えるための入り口だと知っているようだった。エレオノーラはその言葉を胸の中で繰り返した。橋。砦。道。薪。薬。冬。先ほど自分が覚えようとしていたものと似ていた。けれど、ヴィクトルの口から出ると、それはただの単語ではなく、彼の土地へ続く扉のように聞こえた。
「ありがとうございます、アシュベル卿」
エレオノーラが礼を言うと、ヴィクトルは短く頷いた。
「礼は要らない。忘れるな」
それだけ言って、彼は北方大公のいるほうへ戻った。白銀の髪が王宮の光の中で静かに遠ざかる。エレオノーラは追いかけなかった。ただ、その背を見送りながら、忘れるな、という声を胸の中で受け止めた。座らないのか、と言われたときと同じように、甘くはない。けれど、消えにくい言葉だった。
帰りの馬車の中で、母はしばらく何も聞かなかった。王宮を出たばかりのころ、エレオノーラは窓の外を見ていた。王都の道は乾いていて、馬車が渡る橋も、何事もないように整って見える。馬車は揺れながらも、当然のように進んでいく。けれど、今日聞いた北方では、橋は緩み、道は崩れ、村は孤立する。自分が通っているこの道が、整えられているものなのだと、エレオノーラは初めてはっきり感じた。
「難しいお話でしたか」
母が静かに尋ねた。
「はい」
エレオノーラは、今度はすぐに答えた。
「分からない言葉がたくさんありました」
「そう」
「でも、分かったふりはしませんでした」
母は、少しだけ目を細めた。
「それなら、よく聞いていましたね」
褒められたのだろうか。エレオノーラは少し迷った。分からないことを分からないまま持ち帰るのは、褒められることなのだろうか。けれど母の声は、少なくともそれを恥とはしていなかった。
「アシュベル卿が、言葉だけ持ち帰ればよいと仰いました」
「そうですか」
「橋。砦。道。薪。薬。冬。そこから聞けばよい、と」
その言葉を口にすると、馬車の中の空気が少し変わった気がした。母は窓の外へ目を向けた。王都の初夏の光が、硝子越しに母の頬へ淡く落ちている。
「よい言葉をいただきましたね」
「はい」
エレオノーラは頷いた。よい言葉。甘い言葉ではない。褒め言葉でもない。けれど、持ち帰るべき言葉だった。母もそれを分かっているようだった。
屋敷へ戻ると、ナディアが迎えに出ていた。いつものように外套を受け取り、手袋を外す手伝いをする。今日のエレオノーラは疲れてはいたが、以前、儀礼の間で長く立ち続けた日のように、足の裏まで重くなるほどではなかった。けれど、頭の中にはいくつもの言葉が入っていて、どこから出せばよいのか分からない。ナディアはその顔を見て、すぐに何かを尋ねることはしなかった。
「ナディア、机を使うわ」
「かしこまりました。紙と蝋筆をお持ちいたします」
ナディアはすぐに動いた。エレオノーラは自室へ入り、まだ外出用のドレスのまま椅子へ座った。ナディアが紙を置く。白い紙の上は、まだ何も知らないように明るかった。エレオノーラは蝋筆を取り、最初の言葉を書いた。
橋。
字は少し硬くなった。続いて、砦。道。薪。薬。冬。聞いた順番とは違うかもしれない。けれど、胸の中に残った順番はこうだった。橋が使えなければ、近くても届かない。砦は冬の前に直す。道がなくなれば、荷も人も届かない。薪と薬は、村まで運ばなければならない。冬は、王都の部屋で聞くよりもずっと早く来るのだろう。
彼女はしばらく紙を見つめた。書いた言葉は短い。説明にはなっていない。けれど、ここから聞けばよいとヴィクトルは言った。ならば、ここから始めればいいのだと思った。
最後に、少し迷ってから、もう一行だけ書いた。
忘れるな。
書いたあとで、これは北方の言葉ではなく、ヴィクトルの言葉なのだと気づいた。けれど消さなかった。橋や砦や薬のことは、まだほとんど分からない。けれど、忘れるなという声だけは、今の自分にも分かる。分からないものを、分からないからといって遠ざけないこと。美しい旗や古い称号の向こうに、寒い土地で冬を待つ人がいること。王宮の初夏の光の中で聞いたものを、忘れないうちに紙へ置いておくこと。
ナディアがそっと温かい茶を置いた。エレオノーラは礼を言い、紙の端へ手を添えた。外では、王都の夕方が静かに降りてきている。北方の冬はまだ遠い。けれど、遠いからといって、今は何もしなくてよいわけではないのだと、今日初めて知った。
彼女はもう一度、紙の上の言葉を見た。
橋。砦。道。薪。薬。冬。忘れるな。
声に出すには短すぎる言葉ばかりだった。けれど、それらは頭の中で静かに並び、王宮の地図の上では小さかった北方を、少しだけ重くした。エレオノーラはその重さを、まだ理解とは呼べなかった。ただ、持ち帰ったものとして、その紙をしばらく両手の下に置いていた。




