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婚約破棄された悪役令嬢は、白銀の大公に最愛を捧げられる  作者: ごゅみ
第一部 婚約破棄

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第七話 北方①

茶席の日から、屋敷の中ではいくつかの小さな変化が続いた。ベアトリス・クラインからは、桃色の封蝋を押した礼状が届き、クラリッサ・エルヴェールからは、文字の間まで整った短い礼状が届いた。ロシュフォール侯爵家からの書状は家令ローレンを通じて父の書斎へ運ばれ、その写しの一部だけを、エレオノーラは母の許しを得て見せられた。どれもきちんと礼を尽くしたものだったが、紙に残った声は、茶席で聞いた声と同じではなかった。ベアトリスの文字は近くへ来るように明るく、クラリッサの文字は距離を保ったまま静かで、ベルナールの書状には、王太子殿下と同席できたことへの光栄が何度も丁寧に書かれていた。


返事は母と祖母の助けを受けながら整えた。すぐに名を崩すことはしなかったが、次に会うことを拒む言葉にもならないように、エレオノーラは何度も文を読み直した。封蝋が冷えて固まるまでのあいだ、彼女は、声より紙のほうが長く残るのだと知った。茶席で交わした言葉は、記憶の中で少しずつ柔らかくなる。けれど、紙に書いた言葉は、相手の家に届き、箱にしまわれ、必要ならあとから開かれる。自分の手を離れたあともそこに残るものを、軽く扱ってはいけない。そのことを覚えたころ、王宮から別の知らせが届いた。


北方大公家より、雪解け後の報告が上がるという。


その言葉を聞いたとき、エレオノーラは机の上の封蝋の見本から顔を上げた。北方大公家。アシュベル。王宮の儀礼の間で見た、雪と星の旗。青い礼装の裾が重かった日の、白銀の髪と氷青の瞳。そして、座らないのか、と短く告げた声。思い出したのは、華やかな式典の音だけではなかった。果実水の冷たさや、椅子に座った瞬間に足の裏から力が抜けた感覚まで、身体のどこかが覚えていた。


「式典ではないのですか?」


父の書斎で、エレオノーラはそう尋ねた。オルドリックは机の向こうで封を確認していた。重い指が王宮の封蝋を撫で、割れのないことを確かめてから、書状を閉じる。窓の外では、初夏に近い光が庭木の葉を明るくしていた。王都では花がまだ残っている。温室の硝子には柔らかい光が入り、廊下を歩く侍女たちの袖も春より軽くなっていた。けれど、書状の中の北方は、その光とは別の場所にあるようだった。


「式典ではない。報告だ」


父は短く答えた。


「北方では雪が解け始めると、街道、橋、砦の傷みを調べる。次の冬に入る前に何を修繕し、どの村へ何を運び、どれほど備えるかを王宮へ上げる。王太子殿下も同席される。お前も、王妃殿下のお許しのもと、控えの席で聞くことになる」


「わたくしも、ですか?」


「すべてを理解せよという意味ではない」


父はそこで初めて、娘のほうを見た。


「分からぬものは、分からぬまま聞け。分かった顔をして持ち帰るな」


その言葉に、エレオノーラは頷いた。分かった顔をして持ち帰るな。父の声は、いつも少し重い。けれど、この重さは彼女を沈めるためではなく、立つ場所を教えるためのものだった。王宮の茶席や席次の板なら、まだ机の上で覚えられる。招待者の名や封蝋の色なら、祖母が教えてくれる。けれど、北方の橋や砦の傷みを、七歳の自分がすぐに理解できるはずはない。そう思うと少し怖かった。分からないまま王宮に立つことは、恥ずかしいことのようにも思えた。だが父は、分からないことそのものより、分かったふりを持ち帰ることを戒めた。


その日の支度は、茶席の時とは違っていた。華やかさよりも、王宮の報告の場で目立ちすぎないことが優先された。ナディアが選んだのは、白に近い薄灰のドレスで、襟元には細い銀糸が入っているだけだった。髪も高く上げず、後ろでゆるくまとめられる。銀のピンは一本だけ。鏡の中のエレオノーラは、茶席の菫色よりも静かに見えた。幼い顔立ちの整い方は隠せない。けれど、今日の装いは、その美しさを前へ押し出すのではなく、王宮の壁の色に溶け込ませるように整えられていた。


「ナディア」


「はい、お嬢様」


「今日、分からない言葉が多かったら、どんな顔で聞けばよいのでしょうか?」


ナディアは手袋を整える手を止めずに、鏡の中で主人を見た。


「分からないことを隠すのではなく、聞こうとしていらっしゃればよろしいかと存じます」


「聞こうとする顔、ですか?」


「はい。分かったふりをするお顔ではなく、覚えようとしているお顔でございます」


その違いがすぐに分かったわけではなかった。けれど、エレオノーラはその言葉を胸の中に入れた。分からない顔ではなく、聞こうとする顔。知らないことを恥じて目を伏せるのではなく、知らないからこそ目を向ける。できるかどうかは分からなかったが、今日の自分にできることは、まずそれだけなのだと思った。


報告が行われる王宮の一室は、白薔薇の間とも、南庭とも、王妃の小書斎とも違っていた。壁には王国の地図が掛けられ、北方だけを大きく描いた別の地図が、重い木枠の中に収められている。窓は高いが、飾り硝子は少なく、光はまっすぐ机の上に落ちていた。長い卓には、封を解かれた報告書、印をつけるための小さな石、蝋で押さえられた地図が並んでいる。茶器はない。焼き菓子もない。代わりに、羊皮紙と革の匂い、乾いた墨の匂い、そして北方大公家の者たちが持ち込んだ外套に残る、王都とは違う空気があった。


エレオノーラは母の席の斜め後ろ、王妃の視線が届く控えの席へ案内された。アレクシスは王太子として、国王に近い位置に座る。彼はいつもより少し口を結んでいた。明るさが消えたわけではないが、ここが茶席ではないことは彼にも分かっているのだろう。彼の前にも小さな板と紙が置かれている。エレオノーラはそれを見て、前の茶席で彼が何でも最初からできるわけではないと言った声を思い出した。


やがて、北方大公ギルベルト・アシュベルが入室した。


儀礼の間で雪と星の旗の下に立っていたときよりも、彼の装いはさらに実務に近かった。礼を欠くものではない。けれど、王都の貴族たちが好む艶やかな飾りは少なく、濃い色の上着の胸元に、雪と星を象った徽章だけが光っていた。彼の後ろには数名の随行者が控え、その中にヴィクトルがいた。白銀の髪は今日も王宮の光の中で静かに目を引いたが、エレオノーラは以前のように息を呑むほど見つめることはしなかった。もう、初めて見る相手ではない。座らないのか、と言った人。礼を言うなら、次は早く座れ、と言った人。その記憶が先にあった。


ヴィクトルは北方大公の一歩後ろに立ち、表情を動かさなかった。十三歳の少年のはずなのに、その場の大人たちの会話の中で浮かない。王都の同じ年頃の子息がこうした場に立てば、誇らしさや緊張がどこかに出るだろう。だが、ヴィクトルはただそこにいる。必要なら動き、必要がなければ沈黙する者として、最初からその場所に置かれているようだった。


ギルベルトは王へ深く礼をし、報告が始まった。


最初に出てきたのは、雪解けの話だった。冬が終わり、道が開き始める。エレオノーラには、それは明るい言葉のように聞こえた。王都では雪解けという言葉には春の気配がある。雪が解けて土が見え、花が咲く。けれど、ギルベルトの声の中では、雪解けはただ喜ばしいものではなかった。


「北東街道の第三橋は、雪解け水で橋脚の一部が緩んでおります。人馬の通行は制限をかけましたが、穀物車を通すには補修が必要です」


第三橋。橋脚。穀物車。通行制限。エレオノーラは聞き取れた言葉を胸の中でそっと置いた。橋が緩むというのが、どういう状態なのかは分からない。橋は石でできているのではないのか。水で緩むとは、どこが動くのか。そう思ったが、今ここで首を傾げることはできなかった。彼女はただ、書き留めたいと思った。けれど手元に筆はない。だから、忘れないように、同じ言葉を心の中で繰り返した。


橋。橋脚。穀物車。


ギルベルトの報告は続いた。


砦の外壁の一部にひびが入っていること。冬の間に狼が家畜小屋へ近づいた村があること。薬草の備蓄が思ったより減っていること。薪は足りるが、運ぶ道が悪いこと。雪で孤立する村へ、冬前にどの順で荷を入れるか。王都の初夏の光の中で聞くには、どれもまだ重さをつかみきれない言葉だった。けれど、つかみきれないからといって、軽いものではない。エレオノーラには分からないものばかりなのに、分からないままでも、軽くしてはいけないことだけは分かった。


アレクシスが、地図を見ながら口を開いた。


「雪が解けても、すぐに道が使えるわけではないのですね」


問いというより、確かめる声だった。王太子として聞こうとしている。エレオノーラは横顔を見た。彼はふざけていない。だが、雪解け後の道が危ないという感覚は、まだ紙の上で触れているようだった。ギルベルトは頷いた。


「雪の下で耐えたものが、春の水で崩れることがございます。冬の間は動かなかった石が、水を含んで落ちる。橋も、道も、砦の木組みも、春に傷みが見えます」


「冬より、春のほうが危ないものもあるのですか?」


「ございます」


アレクシスは少しだけ息を呑んだ。エレオノーラも同じだった。春という言葉の中に、危うさがある。王都では、春の終わりから初夏にかけて、庭の花が整えられ、茶席の布が軽くなり、窓の光が白くなる。北方では同じ季節に、橋の足元が緩み、砦の傷が見える。ひとつの国の中に、こんなに違う季節があるのだと、彼女は初めて思った。


王妃が静かに地図へ目を落とした。


「薬の備蓄については、神殿からの供給も合わせて確認が必要ですね」


神殿。薬。エレオノーラはその言葉も覚えようとした。薬は、病の時に飲むもの。母が季節の変わり目に用意させる薬草茶。屋敷の医師が調合するもの。けれど、北方の報告に出てくる薬は、それよりずっと大きなものだった。村へ送る。冬前に備える。神殿から供給を確認する。薬は、人の手の中の小さな瓶だけではなく、道を通って運ばれる荷でもあるのだ。


報告の中ほどで、ひとつの地名をめぐって、王宮側の文官が首を傾げた。地図上では小さな点にしか見えない村だった。ギルベルトは説明したが、地図と報告書の記載が少し食い違っているらしい。エレオノーラには内容の半分も分からなかった。ただ、文官の声が少し軽くなったことだけは分かった。小さな村の話だからだろうか。地図の端にある場所だからだろうか。そう思ったとき、ヴィクトルが静かに視線を動かした。


彼はギルベルトの後ろから半歩だけ進み出た。国王の許しを待つように、まず北方大公へ目を向ける。ギルベルトが短く頷いた。


「その村は、冬に二度孤立しました」


ヴィクトルの声は、以前と同じく低く、余計な飾りがなかった。部屋の中にあった紙の音が、少し止まったように感じられた。


「地図では街道から近く見えますが、谷が挟まります。雪解けの水で橋が使えなくなれば、近くに見えても、そこへは届きません」


文官はすぐに姿勢を正した。


「承知いたしました」


ヴィクトルはそれ以上を言わず、また北方大公の後ろへ戻った。たったそれだけだった。だが、エレオノーラには、地図の点が少し違って見えた。紙の上では小さな印でも、そこには冬を越す人がいる。地図の上では近く見える場所でも、橋が使えなければ、人も荷も届かない。王都の部屋の中で聞いただけではつかみにくい言葉なのに、その短さのせいで、かえって消えにくかった。


エレオノーラは、自分が何かを言おうとしていたことに気づいた。何を言うつもりだったのかは分からない。大変なのですね、だろうか。早く直るとよいですね、だろうか。どちらも間違いではないのかもしれない。けれど、今ここで自分がその言葉を出せば、薄くなる気がした。彼女は唇を閉じた。何かを言わないことも、言葉の扱いなのだと、祖母に教わったばかりだった。


報告はさらに続いた。王宮側が問うこともあれば、ギルベルトが先に補足することもある。アレクシスは途中で何度か紙へ目を落とし、分からない言葉を見つけたときには、すぐ隣の侍従ではなく、まず王妃のほうを見た。王妃が小さく頷くと、彼はその言葉を尋ねた。前なら、エレオノーラのほうを見ることもあっただろう。今日も一度だけ、彼の視線がこちらへ来かけた。けれど、北方の橋や砦について、エレオノーラが答えを持っていないことは、彼にも分かっていたのかもしれない。彼は自分で問い直し、ギルベルトの答えを聞いた。


それを見て、エレオノーラは少しだけ息をしやすくなった。殿下は、分からないことを聞いている。王太子でも分からないことがある。けれど、分からないことを聞く姿は、弱く見えなかった。むしろ、聞いているからこそ、その場に立っているように見えた。自分もそうであればいいのだろうか。分かったふりではなく、聞いている顔でそこにいること。ナディアが朝に言ったことが、ようやく少しだけ形になった。

次回は6時ごろに投稿できたらと思っています。

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