第六話 名前を呼ぶには、まだ早い⑤
茶の席が終わりに近づくころ、王宮の侍従が静かにアレクシスへ時刻を告げた。アレクシスは少し残念そうに茶杯から手を離したが、すぐに姿勢を整えた。その動きに気づいて、母が先に立ち上がる。エレオノーラもそれに続き、ベアトリス、クラリッサ、ベルナールも少し遅れて席を立った。
「もう戻らなければならないのですか?」
ベアトリスが思わずそう言い、すぐに口元へ手を添えた。アレクシスは少し笑った。
「王宮で待たせている人がいるからね。今日は来られてよかった」
そう言ってから、彼は母へ向き直った。
「ヴァルクレスト公爵夫人、本日はありがとうございました」
「こちらこそ、お立ち寄りくださり光栄に存じます。王妃殿下にも、御礼をお伝えくださいませ」
母が礼を返すと、エレオノーラもその隣で深く礼をした。
「アレクシス殿下、本日はありがとうございました」
「うん。エレオノーラ、また王宮で」
その声は明るかったが、昨日より少しだけ言葉を選んでいるようにも聞こえた。エレオノーラは顔を上げ、王宮の侍従が控えていることを見てから、静かに頷いた。
「はい、殿下」
ベルナールは名残惜しそうに一歩前へ出て、アレクシスへ礼をした。
「殿下にお目にかかれて光栄でした」
「僕も会えてよかった。ロシュフォール侯爵家のことは、母上からも聞いている」
それだけの短い返事でも、ベルナールの顔はぱっと明るくなった。ベアトリスとクラリッサもそれぞれ礼をし、アレクシスは王宮の侍従に伴われて客間を出ていった。金の髪が廊下の光の中で少し遠ざかり、扉が静かに閉じられると、右手の席だけが、また空いた場所として残った。
そのあとで、茶席そのものもゆっくり閉じていった。王太子が退席したことで、部屋の空気は少し軽くなったようでもあり、何か大事なものが通り過ぎたあとらしく、皆の声も自然と低くなっていた。ベアトリスは今度こそ少しくだけた声で、またお会いできますか、とエレオノーラに尋ねた。クラリッサは最後まで静かだったが、帰る前に一度だけ、今日のお席では学ぶことが多くございました、と言った。その言い方が少し大人びていて、エレオノーラはすぐに返す言葉を探した。
「わたくしも、そう思います」
そう答えると、クラリッサは小さく礼をした。
「では、次にお会いするときは、わたくしも少し考えてから話すようにいたします」
それが冗談なのか、本心なのか分からなかった。けれど、嫌な感じはしなかった。エレオノーラは礼を返し、玄関広間へ向かう客人たちを見送った。外套を受け取る侍女たちの動き、従僕が馬車の扉を開ける音、母同士の別れの挨拶、ベルナールが最後にもう一度、王太子が出ていった廊下のほうを見る横顔。すべてが一日の終わりへゆっくり流れていく。人が動き、布が揺れ、扉が閉まり、車輪が石畳を離れていくことで、茶の席は少しずつ屋敷の外へ出ていった。
客間へ戻ると、菓子皿には小さな欠片が残り、アレクシスが使った杯の横には、茶の跡が薄くついていた。エレオノーラはその杯を見て、昨日の小書斎では言えなかった言葉を、今日は少しだけ言えたのだと思った。うまく言えたかどうかは分からない。アレクシスが本当にどこまで分かったのかも分からない。けれど、前より遠い、と言われたところで止まっていたものは、少なくとも少し動いた。
ナディアが静かに近づいた。
「お嬢様、お疲れではございませんか?」
エレオノーラは、自分の足の裏を確かめた。王宮の儀礼の間ほど重くはない。けれど、胸の奥は少し疲れている。たくさん考え、たくさん言葉を選び、誰かの視線を受け取り続けたあとの疲れだった。
「少し疲れました。でも、今日は、無理をしていないと思います」
「それは、ようございました」
ナディアの声には、北方大公家の式典から戻った夜、青い礼装を脱がされながら聞いた安堵と同じものが、ほんの少し含まれていた。倒れずに戻れたことを喜び、疲れていたことを責めずに受け取る声だった。
ナディアの声を聞きながら、エレオノーラは客間の椅子へ座り、菫色のドレスの裾を手で整えた。ナディアが温かい茶を用意し直してくれる。その手つきを見ながら、エレオノーラは支度の前に頼んだことを思い出した。
「ナディア、今日のわたくしの言葉は、硬く聞こえたところがありましたか?」
ナディアは茶を置いてから、すぐには答えなかった。考える沈黙だった。エレオノーラは待った。待つことも、相手の言葉を奪わないことなのだと、今日はいくらか分かる。
「最初にクライン伯爵令嬢のお申し出へお返事をなさったとき、少し線を引いたようには聞こえました」
「名前のこと?」
「はい。ですが、初めてのお席でございましたし、冷たいというより、距離を整えたように聞こえました。お菓子のことでお返事をなさったときは、クライン伯爵令嬢も安心したように笑っておられました」
「そう」
「北方大公家の式典での読み上げについてお話しになったときは、お嬢様が殿下のお立場を守ろうとしていらっしゃることが、前よりも伝わったように思います」
前よりも。ナディアの言葉には責める響きがなかった。けれど、前よりもという言葉の中に、昨日の痛みと今日の変化がどちらも入っている気がした。エレオノーラは茶杯を手に取り、温かさを指先に受けた。
「殿下は、戸惑ったけれど悪いことではないと思う、と仰いました」
「はい」
「わたくし、それを聞いて、少し安心しました。でも、殿下にそう言わせてしまったのだとも思いました」
「言わせてしまった、でございますか?」
「ええ。殿下は王太子なのに、皆の前で、戸惑ったと仰ったわ。あれは、よかったのでしょうか」
ナディアは、侍女として答えるには少し難しい問いだと感じたのかもしれない。目を伏せ、言葉を選んだ。
「殿下のお立場として、どこまでお話しになるべきかは、王妃殿下や陛下がお教えになることでございましょう。ただ、今日の殿下のお言葉で、お嬢様のお顔が少し和らいだことは、わたくしにも分かりました」
「わたくしの顔が?」
「はい。お嬢様は、昨日からずっと、何かを持ったまま落とさないようにしていらっしゃるお顔でした。今日、殿下がご自身のお気持ちを言葉にされたとき、その持ち方が少し変わったように見えました」
持ち方が変わる。エレオノーラは茶の表面を見つめた。朝、母は、近づいてくる相手に同じ速さで近づかなくてもよいと言った。昨日のことも、今日のことも、すぐ一つの答えにしなくてよいのかもしれない。アレクシスが自分の言葉で、最初は戸惑った、でも悪いことではないと思う、と言ったことで、胸の中に残っていたものは、少しだけ形を変えた。
温かい茶を飲み終えるころには、窓の外の光が少しずつ薄くなっていた。客間に残っていた菓子皿や茶器も下げられ、右手に空いていた椅子だけが、昼の名残のようにしばらく目に残った。エレオノーラはナディアに促されて立ち上がり、菫色の裾を整えながら、母の私室へ向かった。
母は窓辺にいた。庭の光は薄くなり、硝子に室内の灯りが少し映り始めている。エレオノーラは扉のところで礼をし、母に呼ばれて近くの椅子へ座った。今日あったことを、順に話した。ベアトリスがすぐに名で呼んでほしいと言ったこと。クラリッサが、できることをできないふりはしないと言ったこと。ベルナールがアレクシスの席を何度も見ていたこと。アレクシスが、何でも最初からできるわけではないと言ったこと。そして、昨日のことを自分の言葉で少し置き直してくれたこと。
母は最後まで聞いてから、静かに微笑んだ。
「今日は、いくつもの声が残ったのですね」
「はい」
「その中に、もう一度、お話ししてみたいと思う方はいましたか?」
エレオノーラはすぐには答えられなかった。ベアトリスの明るい笑顔は思い出せる。クラリッサの静かな目も、ベルナールがアレクシスの席を何度も見ていた横顔も、まだ胸の中に残っている。けれど、誰と親しくなりたいのかと聞かれると、どれもすぐには一つの答えにならなかった。
「……まだ、決められません」
「それでよいのです」
母の声は、答えを急がせなかった。
「その全部に、すぐ答えを出さなくてもよいのですよ。誰を友と呼ぶか、誰と少し距離を置くかは、一度の茶席で決めなくてもよいのです」
エレオノーラは、胸の中に残っている顔をもう一度ゆっくり思い出した。ベアトリスは近づくのが早い。クラリッサは遠くから見る。ベルナールはアレクシスへ近づきたいように見える。アレクシスには、遠いと言われた。けれど、距離だけで人は決まらない。近く見える人が、必ず自分を分かってくれるとは限らない。遠くから見ている人が、必ず冷たいとも限らない。ヴィクトルの座らないのかという言葉も、近い言葉ではなかったのに、今でも残っている。
母の言葉を聞いていると、胸の中に残っていた顔や声を、無理に一つの箱へしまわなくてもよいのだと思えた。友と呼ぶにはまだ早い。けれど、遠ざけるにもまだ早い。ただ、今日見たものを、今日のまま持っておく。それだけなら、自分にもできる気がした。
夜、寝室へ戻るころには、エレオノーラの身体には一日の疲れが静かに沈んでいた。王宮の儀礼の間で立ち続けた疲れとは違う。足ではなく、胸と喉のあたりが少し重い。言葉を選び続けた疲れだった。ナディアは髪をほどき、菫色のドレスを脱がせ、夜着を着せたあと、机の上へ置かれていた名簿をそっと閉じた。
「明日は、家門名簿を出しておきますか?」
エレオノーラは少し考えた。今日出会った家の名前を、すぐに書き写したくなる。クライン伯爵家、エルヴェール子爵家、ロシュフォール侯爵家。それぞれの家格、母親の席、王宮での位置。知りたいことはいくつもあった。けれど、今日のうちに全部を整えようとすれば、また眠れなくなるだろう。
「朝にして。今日は、下げておいて」
「かしこまりました」
ナディアが名簿を下げる。机の上には、何もなくなったわけではない。薄い布を掛けられた封蝋の見本、使いかけの蝋筆、隣国語の教本が書棚の中に見える。学ぶものは残っている。けれど、今夜は閉じてもよい。そう思えることが、少しだけうれしかった。
寝台へ入る前、エレオノーラは鏡の前で立ち止まった。髪をほどかれた自分は、昼間より幼く見える。菫色のドレスもなく、銀のピンも外され、ただ白い夜着の少女が灯りの中に立っている。それでも、今日の客間で見られた視線は、まだ顔のどこかに残っている気がした。ベアトリスの明るい目。クラリッサの静かな観察。ベルナールの期待。アレクシスの少し考えた青い瞳。自分はその全部の中に立っていた。王宮の席次板ほどはっきりした駒ではないが、人の視線にも場所があるのだと、今日初めて少し分かった。
寝台へ入ると、ナディアが帳を下ろした。灯りが一つ落とされ、部屋の輪郭が柔らかくなる。エレオノーラは布団の中で手を開き、また閉じた。王宮の小書斎から戻った夜と同じ手だった。けれど、今日この手は、答えを全部持つためだけのものではなかった。ベアトリスとの距離を整え、クラリッサの言葉を受け取り、ベルナールの褒め言葉の中からアレクシスの努力を戻し、アレクシス自身の言葉を待った手だった。うまくできたとは言えない。硬く聞こえたところもあったかもしれない。けれど、昨日より少しだけ、言葉を置く場所を選べた気がした。
眠りに落ちる前、エレオノーラはアレクシスの声を思い出した。最初は少し戸惑った。でも、自分で答えを言えたときは、少し嬉しかった。昨日の前より遠いという声と並べると、二つは同じ少年の中にあった。遠く感じたことも本当。悪いことではないと思い始めたことも本当。母の言う通り、どちらか一つだけを選んで、もう片方を消さなくてもよいのだろう。
その夜、王宮の小書斎の鳥の声は、昨日ほど強く戻ってこなかった。代わりに、公爵家の客間で茶器が置かれた小さな音と、ベアトリスの笑い声、クラリッサの静かな声、ベルナールが殿下と呼んだ明るい響き、そしてアレクシスが、自分も何でも最初からできるわけじゃないと言った少し照れた声が、眠りの手前でゆっくり混ざった。エレオノーラは、そのどれにもまだ名前をつけないまま、明日の朝に名簿を開くことを思い、けれど今夜はもう目を閉じた。王家へ入る者の教育は、王宮の中だけで進むものではない。人の近づき方、離れ方、褒め言葉の重さ、沈黙の置き方、そのすべてが、彼女の前に少しずつ並び始めていた。




