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婚約破棄された悪役令嬢は、白銀の大公に最愛を捧げられる  作者: ごゅみ
第一部 婚約破棄

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第六話 名前を呼ぶには、まだ早い④

廊下の向こうで少しだけ空気が動いた。玄関広間のほうで取次の声が低く交わされ、すぐにローレンの足音が客間へ近づいてくる。ベルナールがいち早く顔を上げた。ベアトリスも菓子を置き、クラリッサは茶杯を静かに皿へ戻した。


エレオノーラは、まだ名を聞く前に分かった。右手に空けられていた席が、ただの空席ではなくなる。そう思った瞬間、昨日の痛みと、朝から何度も見た席次案の白い空白が同時に胸の奥で重なった。


ローレンが扉の前で礼をとった。


「奥方様、お嬢様。王太子殿下がお着きでございます。王宮の侍従殿がご同行でございます」


母が先に立ち上がった。エレオノーラもそれに続いて席を離れる。自分ひとりで迎えるのではない。そう分かっているだけで、足元の布が少しだけ軽く感じられた。


「お通しして」


「かしこまりました」


扉が開き、アレクシスが王宮の侍従に伴われて客間へ入ってきた。金の髪が廊下の光を受け、青い瞳はいつものように明るい。だが、昨日の小書斎のことがあるせいか、エレオノーラを見ると一瞬だけ表情を探すようにした。その一瞬を、彼女は見落とさなかった。


「ヴァルクレスト公爵夫人。今日は急に席へ加えていただき、ありがとうございます」


アレクシスはまず母へ礼をした。声は少し緊張していたが、王宮で聞くときよりも自分で整えようとしている響きがあった。母は柔らかく礼を返す。


「ようこそお越しくださいました、殿下。王妃殿下よりお知らせをいただいております。どうぞ、短いお時間ではございますが、お寛ぎくださいませ」


そのやり取りを聞いてから、エレオノーラはようやく自分の番が来たことを感じた。王太子の婚約者として礼をする。屋敷の娘として迎える。どちらか一つではなく、同じ体でその二つをしなければならない。


「アレクシス殿下。本日はお立ち寄りくださり、ありがとうございます」


エレオノーラは礼をしながら言った。声が硬くなりすぎないように気をつけたつもりだった。アレクシスは、その言葉を聞くと、ほんの少しだけ眉を寄せたが、すぐに笑った。


「うん。エレオノーラも、招いてくれてありがとう!」


王宮ではなく公爵家だからなのか、彼は名を呼んだあと、すぐに周囲の子どもたちへ目を向けた。ベアトリスとクラリッサが礼をし、ベルナールはほかの二人よりも少しだけ勢いよく礼をとった。アレクシスは一人ずつに視線を向け、王宮の侍従が控えたのを確かめてから、エレオノーラの右手に用意された席へ案内された。


そこに彼が座ると、朝から空いていた場所に、ようやく名前と声が入ったように見えた。空席だったときには見えなかった重さが、今は本当にエレオノーラのすぐ隣にある。


「さっきまで、みんな何を話していたんだ?」


アレクシスが席に着きながら尋ねた。明るく聞こえるようにしているが、少しだけ場の空気を探っている声だった。


「王宮の席次について、少し」


エレオノーラが答えると、アレクシスは茶杯へ伸ばしかけた手を一度止めた。


「席次か。昨日、母上にたくさん聞かれたところだ」


その言葉に、ベルナールがすぐに顔を上げた。


「殿下も、席次について王妃殿下からお尋ねを受けるのですね」


「もちろんだよ。僕だって、何でも最初からできるわけじゃない」


アレクシスの声は明るかったが、昨日より少しだけ自分の中を見ている響きがあった。エレオノーラはその横顔を見て、胸の奥に温かいものが戻ってくるのを感じた。考えられない人ではない。やはり、アレクシスは自分で気づくことができる。けれど、それを彼自身の口から出すには、少し時間がいるのだ。昨日、自分が待ったことで、その時間が生まれたのかもしれない。そう思うと、昨日の痛みが完全に消えたわけではないが、別の形に少しだけ変わった。


ベアトリスが身を乗り出した。


「でも、殿下はいつも堂々として見えますわ。式典でも、皆様が殿下のお声を褒めていらっしゃいましたもの」


「そうかな。あのときは、エレオノーラが練習に付き合ってくれたから読めたんだ」


アレクシスは自然にそう言った。ベルナールがすぐに頷く。


「やはり公爵令嬢はすごいですね。殿下をお助けできるなんて」


その言葉で、北方大公家の式典を終えたあとの控えの間の空気が、胸の奥に戻ってきた。侯爵夫人が扇の向こうで微笑み、もう殿下をお支えしているのですね、と言ったときの声が、今のベルナールの明るい褒め言葉に重なった。


支えていると見られることは嬉しい。けれど、その言葉の後ろで自分の足の疲れや、殿下自身の努力が見えなくなることがある。エレオノーラは、すぐにありがとうございますとは言わなかった。褒め言葉を受け取る前に、置き直さなければならないものがあると思った。


「殿下が、何度も練習なさったのです」


ベルナールが少し目を丸くした。アレクシスもエレオノーラを見た。


「わたくしは音の区切りをお伝えしました。でも、式典でお読みになったのは殿下です。わたくしが代わりに読んだわけではありません」


言い終えてから、エレオノーラは胸の奥が硬くなるのを待った。昨日のように、正しい言葉が冷たく響いたのではないかと怖かった。けれど、今回は少し違った。アレクシスは戸惑うより先に、口元を緩めた。


「そうだな。僕が読んだ」


その声は、小さな誇らしさを含んでいた。ベルナールは一瞬だけ返事に迷ったようだったが、すぐに笑った。


「もちろんです、殿下。僕はただ、公爵令嬢のご助力も見事だと思ったのです」


「うん。エレオノーラは助けるのが上手い。でも昨日は、すぐに答えを渡さなかった」


アレクシスはそう言って、茶杯を手に取った。エレオノーラは、その言い方にまた少し息を止めた。責めているのか、褒めているのか分からない。けれどアレクシスは茶を一口飲み、熱かったのか少しだけ眉を寄せてから、続けた。


「最初は少し戸惑った。でも、自分で答えを言えたときは、少し嬉しかった。だから、たぶん、悪いことじゃないんだと思う」


客間の空気が、ほんの少し静かになった。ベアトリスも、クラリッサも、ベルナールも、すぐには何も言わなかった。王太子が、自分が緊張したことや、戸惑ったことや、嬉しかったことを、こんなふうに同年代の前で言うとは思っていなかったのだろう。エレオノーラも、言葉を失った。昨日、あれほど胸に残っていた前より遠いという言葉が、アレクシス自身の口から別の形で置き直された。最初は戸惑った。でも、悪いことじゃないと思う。その二つを、彼も持っていたのだ。


「殿下」


呼びかけると、アレクシスがこちらを見た。青い瞳は、いつものように明るいだけではなかった。少し考えたあとの色があった。


「昨日のことを、ずっと考えておりました。わたくしは、殿下を遠ざけたいわけではありません」


「うん」


「ただ、殿下のお言葉として出たほうがよいものを、わたくしが先に持ってしまわないようにしたかったのです」


「うん。今なら、少し分かる」


アレクシスは素直に頷いた。その素直さに、エレオノーラの胸がふっと軽くなった。完全に安心したわけではない。これからも、同じことで迷うだろう。アレクシスはまたこちらを見るかもしれないし、自分もまた答えを出してしまいたくなるかもしれない。けれど、昨日の言葉は今日、少しだけ流れ直した。止まっていたものが、客間の茶の香りや、ナディアの置いた杯の音や、同年代の子どもたちの視線の中で、別の場所へ進んだ。


クラリッサが静かに口を開いた。


「殿下とヴァルクレスト公爵令嬢は、難しいことをお話しになるのですね」


その声には、先ほどより少しだけ柔らかさがあった。ベアトリスもすぐに頷いた。


「わたくし、少し驚きましたわ。王太子殿下と婚約者の方というのは、もっと、ただ仲良くお茶を召し上がるものだと思っておりました」


ベルナールは笑いながら言った。


「僕もです。ですが、殿下がご自分で考えるのを公爵令嬢がお支えするなら、それはとても立派なことだと思います」


立派、という言葉がまた出た。けれど今度は、先ほどほど胸を押し上げる感じはなかった。なぜなら、アレクシスが自分で考えたと言ったあとだったからだ。エレオノーラだけが高いところへ置かれたのではない。アレクシスの努力も同じ卓の上に置かれている。だから、言葉の重さが少し違って聞こえた。


「立派かどうかは、まだ分かりません」


エレオノーラは言った。


「わたくしも、殿下も、まだ学んでいるところですから」


「そうだな!」


アレクシスがすぐに応じた。


「でも、学んでいるところなら、眠くならないようにしないと」


その言い方に、ベアトリスが小さく笑った。ベルナールも笑い、クラリッサは笑い声までは立てなかったが、目元だけが少し緩んだ。エレオノーラも、今度は声を漏らさずに抑える必要がない気がした。小さく笑うと、アレクシスがすぐにそれを見つけ、満足そうな顔をした。


「ほら、やっぱりそういう顔のほうがいい!」


「殿下」


「分かってる。王妃の前では言いすぎない。でも、ここでは少しくらいいいだろう?」


その声は、ただ以前に戻してほしいというわがままだけではなかった。昨日のことを通ったうえで、今の場の柔らかさを確かめているように聞こえた。エレオノーラは、すぐに固い答えを返さず、茶杯の縁に視線を落とした。茶の表面には窓からの光が小さく映っている。王宮の小書斎の光とは違う。ここは公爵家の客間で、母が近くにいて、ナディアが控え、同年代の令嬢と子息がいる。場に合わせて言葉を選ぶなら、今の答えは王妃の前とは違ってよいのだろう。


「少しくらいなら、よろしいかと存じます」


「また少し固い!」


「少しだけです」


今度は、ベアトリスが楽しそうに笑った。クラリッサも静かに口元を押さえた。ベルナールはアレクシスの機嫌がよくなったことに安心したように、菓子皿を殿下のほうへ勧めた。ナディアが新しい茶を注ぎ、ローレンが部屋の端で静かに控えている。エレオノーラは、その一つ一つを見ながら、自分の中にあった不安が完全に消えたわけではないことも分かっていた。ベアトリスの親しげな言葉の中には、まだ少し測るような響きがある。ベルナールはアレクシスを見るたび、声が少し明るくなる。クラリッサは場をよく見ているが、その目が何を記憶しているのかは分からない。けれど、分からないからといって、今すぐ名をつけなくてもよいのだろう。

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