第六話 名を呼ぶには、まだ早い③
ほどなくして母も客間へ入り、来客の母親たちを迎えるための席へ静かに腰を下ろした。エレオノーラは、その姿が同じ部屋にあることを確かめてから、右手の空席へもう一度だけ目を向けた。
最初に到着したのは、ベアトリス・クラインだった。伯爵家の馬車は公爵家の玄関に入るとき、少し慎重に速度を落とし、御者が門番へ名を告げる声が客間の窓までは届かなかったが、廊下を動く侍従たちの気配で来客は分かった。エレオノーラは、ローレンに案内されてくる足音を聞きながら、左手に用意された席へ目を向けた。紙の上ではただの家名だったクライン伯爵家の名が、今から声と表情を持って客間へ入ってくる。
ベアトリスは、母親に伴われて客間へ入ってきた。栗色の髪を柔らかく巻き、淡い桃色のドレスを着ている。丸い頬と明るい目元は人懐こく、礼をとる前から笑顔がこぼれそうだった。けれど、公爵家の客間に入ると、その笑顔は一度きちんと抑えられ、教えられた通りの礼に変わる。まだ幼いが、伯爵令嬢として育てられているのだと分かった。
「ヴァルクレスト公爵令嬢、本日はお招きいただき、ありがとうございます」
ベアトリスの声は、少し弾んでいた。エレオノーラは礼を返した。
「クライン伯爵令嬢、ようこそお越しくださいました。こちらこそ、お会いできて嬉しく思います」
言い終えた瞬間、ベアトリスの目がぱっと明るくなった。
「まあ、そんなに丁寧に呼ばれると、少し緊張してしまいますわ。わたくしのことは、ベアトリスと呼んでくださってもよろしいのに」
その言葉は親しげだった。けれど、エレオノーラはすぐに頷かなかった。初対面で名を呼ぶことが悪いわけではないのかもしれない。だが、ここは公爵家の茶の席で、母たちも近くにいる。王宮ほど硬くはなくても、ただ庭で遊ぶ子ども同士ではない。何より、今すぐ相手の望む柔らかさへ応じることが、よいことなのか分からなかった。
「では、もう少しお話ししてから、そう呼ばせていただいてもよろしいでしょうか。今日は初めてお迎えする日ですから」
ベアトリスは一瞬だけ瞬きをした。それから、すぐに笑った。
「ええ、もちろんですわ。エレオノーラ様は、やはり王太子殿下の婚約者でいらっしゃるから、何事もきちんとなさるのですね」
褒め言葉だった。少なくとも、表面はそうだった。けれど、その言葉の中に、少しだけ遠くから眺められているような響きがあった。エレオノーラ様、王太子殿下の婚約者。自分が今、目の前の令嬢から、同じ年ごろの子どもとしてだけでなく、すでに王宮に近い者として見られている。そのことは王宮で感じた視線と似ていたが、王宮の女官や貴婦人の目よりも近いぶん、少し落ち着かなかった。
ローレンが左手の席を示すと、ベアトリスはそこへ案内された。エレオノーラの右手には、まだ誰も座らない席が残っている。ベアトリスも一度だけその椅子を見たが、何も言わずに腰を下ろした。その一瞬の視線が、エレオノーラの胸に小さく残った。空いた席は、そこに誰もいないのに、誰かの名を置いているように見えた。
次に入ってきたクラリッサ・エルヴェールは、ベアトリスとはまったく違う雰囲気を持っていた。濃い蜂蜜色の髪をきちんと結い、薄い灰緑のドレスを着ている。顔立ちは派手ではないが、目が静かで、部屋に入るとすぐに椅子の位置、茶器の数、控えている侍女たちの立ち位置を見た。その視線は子どもらしい好奇心というより、初めての場所で自分がどう振る舞うべきかを確かめる慎重さに近かった。礼も過不足がなく、声も落ち着いていた。
「ヴァルクレスト公爵令嬢、お招きいただき感謝いたします」
「エルヴェール子爵令嬢、ようこそ。どうぞ、こちらへ」
クラリッサは案内された席へ向かいながら、ベアトリスへも静かに礼をした。ベアトリスはすぐに笑顔で返したが、その笑顔の明るさに、クラリッサが少しだけ距離を測っているように見えた。エレオノーラはその二人を見て、同じ年ごろの令嬢といっても、声の置き方がこんなにも違うのだと思った。ベアトリスは近づくのが早い。クラリッサは、近づく前に場を見る。自分はどちらなのだろう。近づきたいと思う前に、いつも考えてしまう。だから難しい顔になるのだろうか。
ベルナール・ロシュフォールは、少し遅れて到着した。侯爵家の子息らしく、衣装はよく整えられていたが、入ってきたときから視線が部屋の中心よりも、エレオノーラの右手に空いた席のほうへ向いていた。そこが誰のために空けられているのか、すぐに気づいたのだろう。彼はエレオノーラへ礼をし、はっきりした声で挨拶した。
「ヴァルクレスト公爵令嬢、本日はお招きいただき、ありがとうございます。王太子殿下もお越しになるかもしれないとうかがいました」
挨拶の中に、すでにアレクシスの名があった。エレオノーラはそれを聞きながら、ベルナールが自分を見ているのか、王太子の婚約者を見ているのか、少し分からなくなった。けれど、相手の言葉をすぐに責めるのは違う。彼は侯爵家の子息で、王太子に関心を持つことは自然でもある。
「お立ち寄りになる可能性があるとうかがっています。ただ、まだ確定ではございません」
「そうでしたか。殿下はお忙しい方ですから。ですが、もしお越しになれば、直接ご挨拶できることを楽しみにしております」
ベルナールはそう言って笑った。悪い笑顔ではない。むしろ、明るく、礼儀もある。けれど、彼の声には、アレクシスが来ることへの期待がはっきり見えた。エレオノーラは、昨日アレクシスが自分を見た目と、今ベルナールが空いた席を見た目を、同じ場所には置けなかった。どちらも誰かに向かう視線であるのに、温度が違う。アレクシスの目は、自分なら分かるだろうと頼ってくる目だった。ベルナールの目は、王太子の近くへ行けるかもしれない場所を見ている目だった。
茶が注がれ、母たちが少し離れた席で控えめに会話を始めると、子どもたちの卓にもようやく柔らかいざわめきが生まれた。右手の席は空いたままだったが、茶器は整えられている。その椅子を見ないようにしようとすると、かえってそこにあることが分かってしまう。エレオノーラは、茶杯の縁に目を落とし、まず今いる客へ言葉を返すことを考えた。
ベアトリスは焼き菓子を一つ手に取り、その形を見て嬉しそうに目を細めた。
「可愛らしいお菓子ですこと。ヴァルクレスト家では、いつもこのようなお菓子を召し上がるのですか?」
「いつもではありません。今日はお客様をお迎えするので、料理人が用意しました」
「まあ、ではわたくしたちのために?」
「ええ。そうです」
エレオノーラが答えると、ベアトリスは素直に喜んだように笑った。その笑顔を見ると、先ほど少し距離を測るように聞こえた言葉も、ただ緊張していたからなのかもしれないと思えた。人の言葉には、いつも一つだけの意味が入っているわけではない。ベアトリスは親しげで、少し早く近づいてくる。けれど、その近さにすぐ名前をつけなくてもよいのだろう。そう考えると、胸の中の警戒が少しだけほどけた。
クラリッサは菓子にすぐ手を伸ばさず、茶の温度を確かめてから、静かに口を開いた。
「ヴァルクレスト公爵令嬢は、もう王宮の席次を学ばれているとうかがいました」
「少しずつです。まだ、覚えることばかりです」
「王宮の席次は、やはり難しいものなのでしょうか」
クラリッサの声には、羨望とも警戒ともつかない響きがあった。エレオノーラは、また返事に迷った。ここで、難しいだけですと言えば、王家へ入る者の教育を軽く扱うことになる。けれど、ほかの家で学ぶ礼法や席次とはまるで違うのだと聞こえるように言えば、相手との間に余計な距離を作ってしまう。クラリッサも、それぞれの家で教えられているものの重さを知っているはずだった。
「難しいです。でも、席の順を覚えるだけではないのだと思います」
クラリッサは、菓子皿へ落としていた視線を少し上げた。
「席の順だけではないのですか?」
「はい。誰にどの言葉を返すか、どこで黙るか、どなたのお言葉を先に待つか。わたくしはまだ、間違えずにできるとは言えません」
自分でそう言うと、不思議と少し楽になった。できるふりをしなくてよい。王太子の婚約者であることを隠すこともできないが、すべて分かっている顔をする必要もない。クラリッサはしばらくエレオノーラを見て、それから静かに頷いた。
「そのように仰る方なのですね」
「どのように、でしょう」
「できることを、できないふりはなさらない。でも、できないことを、できるとも仰らない」
それは褒め言葉なのか、観察なのか、すぐには分からなかった。けれど、クラリッサの声に刺すようなものはなかった。エレオノーラは少しだけ目を伏せた。
「そうありたいと思います」




